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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
続いて日秀上人、日禅上人、日代上人、日澄上人は略す。日順上人の項から。
日順は、師と仰いだ日澄に続いて日興上人の門下となった。やがて日興上人のおられた重須で学頭に任じられたが、過労のためか眼を患い、一度下山するが、決意して復帰し、失明して全盲となってからも何年間も口授で著作に努められた日亨上人をして「曠世(こうせい)の学匠」と言わせしむる僧であった。
五人所破抄は、日興上人の命により日順が著したものとされる。現存する五人所破抄は日代の筆跡であるが、その末尾には年月日と草案日順の記名があり、それが日順の他の書の筆跡と「まったく同筆」(P672)であることから、これは日代が日順の意を受けて代筆したものであることを日亨上人は指摘している。当時、日代は重須では日順の下位にいたことが知られている。また日教の文章にも日興上人が日順に命じたことを示唆するものがある。
この日代の代筆したものより他には、現存するのは日時と日辰の写本しかない。
この日代のものには、他の2つの写本には無い、長囲した部分が3箇所ある。
本文から
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順師は各種の自作にすこぶる法脈相承本尊相伝を重んじて宗祖開山はもちろんのこと日頂日澄を重視してござる。この思想を嘉(よみ)して、そのままにじゅうぶんに書けよと開山上人の御意が下った。それがいまの五人所破抄で、五一の瓢別等が宗門の重書となっておる。日教は開山上人が二か所を削りて他はぜんぶ印可せられたと書いておる。なるほどいまの重須の重要本にも長囲(長きカッコ)を施してある所がある。(P672)
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以下は、この長囲についてであるが、日興上人詳伝の内容とは直接には関係無い、私論と言うほどでもない私の感想である。
日興上人による長囲が3箇所にあるのに、日教によると2箇所が削除扱いであったという。今一つ残った長囲には何が書かれてあるのだろうか。釈迦仏像を無益とするところの最後であり、継子(ままこ)一旦の寵愛、月を待つ蛍光でしかないと説いた後に続いて、
「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢えて一仏を用ゆること勿れ」の一文である。
それでも釈迦仏に執着する者は、せめて四菩薩を添えなさい、釈迦物だけではだめですよ、という意味の文章である。
この部分は日時と日辰の写本には無く、日代本のみに残されている。富士宗学要集(2-5)の日亨上人の天注によると、ここは長囲していったん削除した後、もう一度その長囲を抹してあるので復活させたのではないかとのことである。だから削除は2箇所なのだ。
一旦、削除したが、後から復活させた。ぎりぎりの選択であったことが伺える。
つまり日興上人は、後世を鑑みて、どうするのか迷われた、あるいは何かを機会に思い直されたということになる。
なぜこのようなことを迷われたのだろうか。
大聖人が御本尊をあらわされる以前には、たしかに人々は最初は釈迦仏を本尊にして信仰してきたのかもしれないが、御本尊があらわされてから半世紀以上も過ぎている。もはや大聖人が亡くなってでさえ数十年がたている。もう仏像はいいだろうと思われるのに。これから後代のために日興上人がルールを作成するのに、まだそれらの人に配慮しなければならなかったのだろうか。当然、切り捨てて仏像など禁止にしてしまえば話は早い。しかし、そうはされなかった。そうではなく、それほどまでに目の前の人々の心情を大切にすることを優先されたのだと私には思われる。人にはそれぞれの事情があり、大聖人を信じて周囲の誤解から仏像を守ってきた信徒もいたことだろう。それを執着に過ぎないと言い放つことはできたはずだが、そうはされなかったのだ。
もう一つの重要な視点は、本尊の形式について、絶対的な悟りから数式を解くようにただ一つの確定した形式だけが抽出されたというわけではないということになる。このように私が述べると軽視ではないかとの誤解を生むかもしれないが私の意味はその逆である。僧宝である日興上人が決められたのであるから、決定後は和合僧の中で絶対的なルールであるが、決定前には本質的には日興上人にはどちらの選択肢もあったと考えられる。しかしこれをただ単に決められた上の規則のように考える信仰者はいないのだ。和合僧の中で選択されたものは、人々の信仰にとって深い深い意味を持って根ざしていくのではないか。
我々が通常考える以上に、和合僧の決定というのは重い意味を持ち、人の本質的な深層を形成しているもののように思う。
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