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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
次は日郷上人、日華上人と続くがそこは過ぎて、日仙上人の項から。
日仙は大聖人のころからの門下で、大聖人亡き後には日興上人の本弟子六人の一人に数えられている。
日仙は、日興上人から弘安四年には「日興第一の弟子なり」(P586)と脇書された御本尊をいただいている。また日興上人亡き後は、日興上人の御遷化記録から、富士門下では日目上人に次いで、「仙師が二位」(P595)の重責の位置にあったことがわかる。
であるのに、日目上人亡き後すぐに方便品を読誦すべきでないと主張、同じく本六の弟子の日代との論争に入っていくのだから、誠に不思議な感じがする。日々の勤行のことなのに。大聖人に日ごろから近くにいた弟子ではなかったのか、富士の高僧は誰も日々の修行のあり方について日蓮大聖人、日興上人に教わらなかったのかという、この基本的な問いにすら、おそらく誰も正確に答えてくれる人はいない。
日仙は、日興上人が身延離山の折には、大御本尊を背負った人物としても伝えられており、絵図などにはよく描かれている。
なぜ日仙なのかというと、日仙は大聖人からは百貫房とあだ名されるほどの体躯の持ち主だったからである。
あだ名の由来は、家中抄によると、大聖人の一行が鰍沢の地で、川の水量が多くて渡れないときに、日仙が皆を背負って渡ったことがあった。大聖人は「此の大水に百貫にて買得たる馬とも叶ひ難きに神妙なり」と感じいり、これより日仙が百貫房と呼ばれることになったと述べられている。馬にくらべられて付けられた名前であるが、それが御本尊の脇書きにまで記されている。
本文から
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日興上人御本尊脇書(富士宗学要集第八巻史料類聚①二一三ページ)(略)
正応三年十月八日、僧日仙に之を授与す、日仙に百貫房とは聖人の賜はる異名なり、日興上奏の代なり。(P587)
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親しみをこめた冗談であろうと、師から送られた名前をそこまで大切にされていた姿勢に改めて敬服する。
ところで、これまでこの日興上人詳伝では、身延離山の折に大御本尊が背負われたというような大石寺の伝説には、全く触れてこなかった。せいぜい身延離山の御供の中に日仙もいたことを、「若くて百貫の別名ある仙師が、御伴にあるではないか」(P282)と記される程度である。
ところがここの日仙の項で、直接には伝説名を取り上げていないが、それを完全に否定している記述が見られる。
本文から
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百貫坊の強力の嘉称に乗じて、身延より「カトナ蔓(つる)」で戒壇本尊をしばって、肩にかけて十余里の山河を渡って富士の上野に運ばせた伝説を作りあげた空想家の古人がおった。またそれらに何の検討も加えず、ありがたく鵜呑みにする迷信者の多かりしことよ。ある強信者は老体をいとわず身延まで出張して楠(くすのき)と蔓(つる)との検討に苦心しようとしたのを止めたこともあった。いずれとも現代の若き人には余り感心せられぬことであろう。(P589)
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肩にかけて十余里を移動したことを迷信だとはっきり明言されている。それはそんなに不可能なあり得ないことなのだろうか。数十km以上の山道を背負えるものではないかもしれないが、実際に大御本尊の材質である楠の板と蔓で検討しようとした人がいたとのことであるから、想像を絶するというふうでもないように思うのだが。
しかし日亨上人はそれを止めてしまった。迷信なんだよと。・・・ではどうやって大御本尊を移動させたのか、それについての記述はいささかも無く、まるでそれについて故意に避けているとしか思えない。日亨上人は想像で虚言を並べる人ではなかったのだ。
どちらにしても、このようなことは、この頃の学会員には、普通に機関誌にて公表されていた内容なのである。迷信なのだと。
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