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「富士日興上人詳伝」から 51

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年10月 8日(月)23時59分10秒
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  ※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。

日尊は日興上人門下でも随一の教化の人であったが、日尊自身は書写はしなかったので、日尊の書写した御本尊というものは無い。
その代わりに大聖人の御本尊を原本として模刻は行っており、それは今も現存している。
日尊の言葉を記録したその弟子の日大によると、以下のように言われていたらしい。

本文から
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日尊仰に云はく、暦応三・五中旬(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集418ページ)

一、本尊書写のこと、尊仰に云はく大聖人御遷化の刻、六人老僧・面々に之を書写し給へり、然るに異議無くして其の後面面末流・初心後心戒行の有無曾て以て糾明すること無く面面に之を書写す云云、此等の次第且は法滅の因縁か、五人方は且く之を閣(さしお)く、富士門跡は不弟一人之を書写し奉る可きの由、日興上人御遺誡なり云云、其の故は法燈を賞して以て根源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘に云はく仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり云云、予も又此の義を存するの処に日興上人御入滅後・一門跡に於て面面諍論出来し互に偏執を成し多く邪論を起して人人面面之を書写し奉る云云、然れば則ち仏意測り難く聖意恐れ有り、所詮吾が一門に於ては本義の如く之を書写し奉る可きか云云。
私に申して云はく設(たと)ひ愚身一人此の仰せを存すと雖も他門を以て之を知るに若し自門の内に偏執の族出来し諍論有らん事疑ひ無かる可し。其故は法門の事は少分申す様なりとも懈怠して手跡行方を知らず、又能書なりとも仏法興隆跡形も無く不信の輩之有る可し。此の如く相互進退弁え難く善悪兼て治定し難きか如何。
仰せ(日尊)に云はく予が思ふ事有り、所詮大聖人御自筆の本尊を印板に彫み当座道場六人の衆徒一同の評定と為て、信心の強弱行業の久近給仕の忠否香華供養の堪否を糾明して一揆の衆議を以て之を授与す可し。(P524)

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この日大の記録によると、大聖人が御遷化の時から六老僧が各々書写したことについて特に異議は無かった。ところがその末弟の誰も彼もが書写をするのは法滅の原因になるのので避けるべきだと言われている。五老僧についての権限はしばらく差し置いて、日興上人の門下については書写を一人にすべきだと日興上人が言われていたと。そしてその理由は「法燈を賞して以て根源を立てんが為なり」云々だと。
結局、日尊の弟子の日大のほうは「吾が一門に於ては本義の如く之を書写し奉る可きか」と御本尊を書写することにした。

ここではこの記録が正確かどうかは問題ではない。日亨上人はこことは別の部分の評価は実に手厳しい。日興上人や日向も亡くなって数十年も立つのだから身延参詣をよしと考えるところなどは「まったくの城者破壊の反逆」の見解と言われている。
日亨上人は、この「日大の記録については、その要山内にても、また山外にても、問題が多い」とされている。
しかし、重要なことは、日亨上人が挙げたこの上の本尊書写については、なんらの否定をされていないことである。
この上の文に続いく日亨上人の言葉はただ次のとおりである。

本文から
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尊師の千歳仰ぐべきである。ことにその方法のゆき届けるまた敬服すべきであり、その史実がわずかに要山に一体のみ残ることは、また何たる寂しき限りにあろうか。高弟の大師等には書写の本尊が現存しておるは、師敵対なりや。最大歎息の至りである。(P525)

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とそのまま日尊の言葉を肯定しているように伺える。千歳仰ぐべきというのは、後年もこの通りに皆が心がけるべきという意味である。要山に一体残るとは日尊が模刻した本尊を指すと思われる。日尊門下の本尊書写については師敵対と指摘しているが、これは富士門下の法燈を大石寺が継ぐという立場からは当然であろう。しかし最初にあるように五老僧は差し置いているのだ。

日亨上人は、五老僧が御本尊を書写することについては差し置くとした見解について何らの異議を感じていないのだ。
その上で、日尊は、富士門下の中では一人にすべきだという見解である。
本尊書写がもし書写する者に本質的な権能が備わるのであれば、五老僧門下が書写するということは、たとえ上古の時代であっても許さるべきことではない。そうではなく法燈を宣揚するのであるからその門下では一人に絞ろうという考え方に賛同するとは、本尊書写を形式、化儀と捉えているということである。なるほど本尊書写は宗門第一尊厳の化儀とされている。
たしかに日興上人は五老僧が御本尊を書写については非難はしていない。
また大聖人の御本尊を彫刻して(つまり消失する)、印板にして(印刷の版)にして、「一揆の衆議を以て」つまり皆で心を一つにして決めたやり方で授与していこうという提案を「敬服すべき」と言われている。
一心にひとつひとつを書写したものではない印刷の本尊のあり方には異議も述べておられたが、ここでは全面的に肯定されているように伺える。結局、どのようなやり方であっても書写する側の心がけとして最善を尽くせていればよいとお考えだったように私には思われる。

また次の頁にも、この日大の日尊についての記録を重ねて評価をしているところから。

本文から
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第二項の「本尊書写の事」の意図は、少しくその当時の実行面を外づけした辺もあるが、かえって千歳の鉄則と見てよろしき誠意が溢れておる。(P526)

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日尊の本尊書写の見解について、「千歳の鉄則」と明言されている。つまり本尊書写が誰によるのかは能力の問題ではなく、富士門下が法燈を宣揚していくその根源を示していくために一人に絞るべきであるという、形式に属すことを基底にした見解を賞賛されているのだ。
 
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