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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
本書の内容は、日乗上人、日尊上人と続く。
日尊については多くが伝説であり、史実であるかどうか明確でないものばかりが多い。
百六箇抄には日興上人が日尊にこの書を正和元年(1312年)に譲渡した記されているが、これについても述べてきたことであるが、
日亨上人の頃にはあまりに疑義が多いことから、日尊を基とする要法寺の高僧でさえ、この書は史実に合わないから抹殺すべきと主張していたらしい。
日亨上人がそれらの百六箇抄の付記については後からの偽加であることを発表される前のことである。
本文から
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吾人は三十余年前からこれを憂いて、大事の相伝書に時に取って必要と思う注脚を加えて、本文を瀆(けが)せしことを憂いて、断然後加の災筆を整理して原体に復せんことを企てたが、しばらく多数の因循を顧みて、中間的な措置として注脚の悪逆の分にはこれを抹削すべきに準じて=(にほん)びきで抹削を示し、格別の変悪なき分には-(いっぽん)びきで注意を呼ぶことにしておいたが、今度の新編日蓮大聖人御書全集(854ページ)には断然抹削して研究家ならぬ仰信の眼を迷わせぬように注意したから、正和の興孫の示書は無論のこと、康永の示書までもまったく削ったしだいである。(P522)
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※
後加文により、本文までが誤解されたことをを憂いていたのだと。本文を瀆(けが)せし、つまり侮辱されたとの意である。
そして、これらを除いて原本に戻すことを最初は考えたが、「多数の因循を顧みて」、つまりさまざまな背景を考慮して、線引きで注意を喚起することまでにした。そして後に御書を編纂した時には、迷わないように、削除すべきところは削除したとある。
繰り返すことになるが。
まず日亨上人は汚されているという認識で、それを原体に戻したい、つまり後加を全て削除することを考えていた。
しかし多面的な配慮から富士宗学要集では中間的な措置にした。それは前回に述べた、何人かの法主に公開を見合わせろと言われ続けたので、その後の富士宗学要集を編纂するときもまた「温順な意思」でそれに従い、「改修削除の英断」はしばらく置いたということであった。そして日興上人詳伝になって無遠慮に批判することにされたと言われている。御書編纂がこの日興上人詳伝とほぼ同時代であることを考えると、最終的な新編御書にそれでも後加文の一部を残すことにしたのは、あくまで事実であるかどうかよりも、伝えられた経緯をなによりも重視する立場を取られたものと拝される。もう一つは歴史的事実(日蓮大聖人か日興上人が残された文言)でないにもかかわらず、日亨上人の判断を根拠として御書と拝されるべきように残されているということである。(どのように受けるかはこれを受けた側の学会の判断でもあるが。)責任所在が明確でこのように公開されていればよいことで、現実問題としては、微妙な点について全て削除しなけばならないと考える必要性はないといえる。
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