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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
次は日道上人の順番であるが、日道上人等についてはこれまでにも挙げてきたので省略する。
また本書のこの後半部分にも日精上人の批判は多く目に付くが、煩瑣になるのでこれ以上は特に取り上げないことする。
しかし、ここの段では、なぜ本書にここまで日精上人批判などが多いのかについて、詳しい記述があるので見てみたい。
日精上人が日興上人亡き後の文章に弥四郎国重(大御本尊の願主)を登場させていることを「まったくの架空談で抱腹絶倒」と小馬鹿にしているが、ここの部分だけは実は日精上人の正本にはそうは書かれていなく、後世の人が日精上人の家中抄を写本に移す段階で「悪戯」をしたとのことである。悪戯好きだった日精上人であったが、いよいよ自分の家中抄も後世の大石寺門下に悪戯に晒されているのだから、日精上人も多少いたたまれないだろう。この説明の折に日亨上人は自分のことを話される。
日精上人は日亨上人には先師となるので、正式な批判を加える時には、ここでも当然、最初に少し持ち上げておく必要がある。
そこで、次の段では、日亨上人は、「宗門三百年来無史無伝の闇黒らしき状態」から日精上人が始めて他教団を圧倒するような量の史料を作成したことは感謝すべきであり、「多少の謬伝があっても致し方ない」とされ、それを後世の人々が謹訂を加えて完璧とすべきだと日精上人を持ち上げつつ、正論を語られている。
そうしてその宗門の誤謬の改訂に立ったのが日亨上人だったことを述懐される。以下、その思いが述べられている。
本文から
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それを後世の有志の誠実の史僧が謹訂を加えて完璧とすべきであるが、不幸にして何師にもこの勇気が起こらず、謹んで謬伝に甘んじてきたので自分は壮年時代に史筆を起こしてから、よりよりの猊下方に上申して本伝の修正を公けにすべくしたが、内諾は得たこともあったが、いずれも公開は見合わせろとのことのために、老年にいたってこの隠順な意思をもって富士宗学要集編さんに当たっても、改修削除の英断はしばらくおいて天注に批判の筆を掲げたのみであるが、この詳伝では随所に無遠慮の酷評をあえてして謬伝を排除し、みずから正しく従って他をも直して、大方の嘲笑を防ぐに努めたことをもって、願わくは先師を批判するの罪を許されたいと再々念起するのである。(p481)
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代々の猊下に相談したが公開には反対されたのだと。さもありなんという気がする。いったいそれは何十年前のことなのか。
真摯に取り組んだ研究成果から、真実を公開したいと願い、ずっと抑えてこられたのだ。
そしてようやく昭和初期になって富士宗学要集では頁の上部の欄外に批判を書き連ねる形をとったが、そのような形に抑えたのだ。
「改修削除の英断」もありえたのだが、温順の意思に従ったのだと述懐されている。
ありのままの本心に従ったのは、さらに時代を下って、ようやくこの晩年に著された、学会員に向けた「日興上人詳伝」において、おそらく初めて遠慮もしないで批判の形をとったのだと。
研究成果を得てから真実をそのまま書き表すためには、なんと長年の歳月を要したことか。
そして自らの本心に従ったことで、大勢の人から嘲笑を浴びることを防げたのだと喜ばれている。
嘲笑を浴びるとは謙遜した立場であって、つまり多くの人が迷妄に侵されることを防いで、真実を知らしめたということである。
ではもし、日亨上人がいなければどうなっていたのだろうか。
宗内は無知が、はびこったままで、世間から嘲笑を浴びてどうしようもないレベルの歴史認識を持てあましていたことだろう。
富士宗学要集を著して相伝書を公開された。それからまた史実の闇を解説して光を送り、正しい批判を公開された。
宗門の長い歴史の闇が完全に晴れたのは、学会の出版物によるもので、それは、ほんの数十年前のことだったのだ。
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