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「富士日興上人詳伝」から 48

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年10月 5日(金)23時14分33秒
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※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)

最初は日目上人について記されてある。
日興上人亡き後、日目上人は老齢の身であるにもかかわらず、2人だけのお供を連れて最後まで京都へ諌暁の旅に出られた。
そしてその途上、真冬の垂井(樽井)の地でついに遷化されてしまう。日興上人と同年となる1333年のことである。
どこで亡くなろうと幸・不幸がそれによって決まるわけではない。その生前の生き方そのものが貴いのだ。

本文から
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参考資料 祖師伝(富士宗学要集第五巻宗史部①三二ページ、三四ページ)

日目は七十四歳正慶二癸酉十一月十五日美濃国垂井に於いて御入滅なり、御供の弟子両人、両人は日尊日郷なり。
濃州樽井日目上人の墓所に題す、房州妙本寺日我。
至心に法を求むる法華の魁、樽井の水寒くして命を没する哀れなり、二百年前昨夢の如し、残碑剥落して已に○苔す。将に日目墓所に赴かんとし垂井の辺りに至る、洛陽要法寺日辰。(P476)

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妙本寺の日我(1508年~1586年)の記述によると日目上人の墓は亡くなられたその樽井の地にあったという。
なので日辰(1508年~1577年)もお墓参りに垂井の辺りに来たと記述されている。
しかしその墓所も今となってはどこにも見当たらない。

本文から
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この日我の苔蒸せる碑なるものも、要山十八世日陽の注によれば元和三年大石寺参詣の途次罷(わざ)と立ち寄りて百方捜索したるも、ついに発見せざることを長文に記せり
いまの要法寺末の荼○(だび)所址の碑たるものは、享和三年の設立で、建物は明治の半ごろであり、昭和の初めに訪いたる時には、
石造仏が安置せられて日興軽重菩薩と命じて、頭痛の神様と成りおれるに驚きたり。(P477)

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元和三年(1617年)には見当たらなくなっていた。その後、要法寺にあるのは享和三年(1803年)に碑が建てられたものである。
葬儀どころか、日目上人は墓所もどこにいったのか不明となってしまった。当然、人が訪れることも無い。
では日目上人は成仏の境涯には至らなかったのだろうか。それがなにより大切なのものであれば、日尊も日郷もあるいは日道上人も墓所の場所を荘厳にして何百年の後にも伝えていたことだろう。だがそのような事績は無い。

ちなみに日精上人のほうの家中抄では、あいかわらず贅々しく記されており、お供の2人によって野辺で荼毘にして、御骨を京都に持って行って京都に御墓を築いたことになっているが、日亨上人からは、ほとんど無視されている。

 

 
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