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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
「日興上人詳伝」はもともと大白蓮華に連載していたもので、1963年に「日興上人詳伝」として一冊の書籍として出版された。
私の投稿は1974年の文庫本によるのであるが、最近、1963年のほうの「日興上人詳伝」を入手した。
これまでの割愛された部分については今更ながらなので省略させていただく。しかし1974年版には含まれていない後半部分のことも紹介したく、もう少し文章を続けさせていただくことにした。
この1963年の出版本には日興上人が亡くなられた章の後に、付録ともいうべき、「直弟子および孫弟子の略伝」、「俗弟子列伝」、「教義」の3つの長い章が加えられている。各々の章に目を見張るような一文が見出される。
まず最初の「直弟子および孫弟子の略伝」の章である。ここは日興上人の直弟子等について記されている。その前文を見てみたい。
本文から
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第十一章 直弟子および孫弟子の略伝
記述の便宜上、おおよそ、その家系出生・修学・出家・信行・行蹟・特功・門下・遷化の順によるが、なかには各項の史料なき方もあるべけれども、旧各伝のごとく筆者の想像をたくましうして漫(みだ)りにその事跡を荘(かざ)ることを避けておく。読者よ、願わくは、これを諒(りょう)して記述の淋しきをとがめて、これではいっこうにありがたみがなく、信行増進に寸効もなしなんど、御不足をおおせられぬようにお願いする。もっとも御信力に乗じて、多少着色を加えての御転読は御随意である。(p453)
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「記述の淋しき」とは言われるが、ここの内容は250頁にわたる分量で淋しいどころではない。なのに淋しいと言われているのは、これまでの誤まりを含む旧伝から、想像で装飾された部分を除いてみると、真実だけでは随分と淋しくなったという意味である。
これでは話がしにくいと思う人は、旧来の伝説を含めて話しに使うなということではありませんよとのことだろう。
ある意味、これは驚くべき記述に思える。史実を研究され真実を追究されている学者というお立場でもあるが、それに拘泥はしていない。史実の理解が正しいかどうか敏感になって人を裁くことに使うために日興上人詳伝を著されたのではないのだ。積極的に信仰に使われることを是として、そのために史実と折り合わない理解であっても良しと見る、日亨上人の視点の奥深さをかいま見るような思いがする。そのように学会を理解されていたのだろう。また現実に信仰に使われていくことに思いを持たれていたのだろう。
もちろん御随意といっても、悪用に供するものではなく、言うまでもないことであるが自己責任ということである。
何の覚悟もない他人に責任を転嫁して依存した物言いが、たとえ方便であっても幼稚であることは誰でもわかるだろう。
日亨上人が「御随意」とは言っても、どのような事態になっても自己責任は免れない。その上で、信仰から想像で足して先師に思いを馳せることを、禁じていないし、むしろ深い認識をもたれていることを、わざわざここで言及されているのだ。
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