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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日目上人が遷化された後の門下の弘教は、本門寺の建立の許可が下されるのをただ待っているという状態であったようだ。
その後の歴史で日蓮正宗の法難について、日亨上人は富士宗学要集にまとめていることを述べている。
富士宗学要集は戦前に出版されたものであるので、当然ながら当初は学会の法難は記載されていなかった。
本文から
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折伏僧俗の苦難は多大であり、文献の現存するものでも予が富士宗学要集第九巻の法難篇のとおりで、これに漏れたるもの各地に満ちておる。いわんや、この篇に近く起こりし創価学会の大法難は、多人数の上に長期にわたっておる等は、現に見聞に新たなることであるも、遠き将来のために記録せらるべきである。
現生活にのみ屈託して、世界悉檀に浸り、順世外道に顛落した僧俗には、ややもすれば広宣流布の大願を空想のように片付けがちではなかろうか。(下巻p79)
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ここに学会の弘教は、「創価学会の大法難」と認識されている。その格は大法難なのであると。
これまでにないこの大法難について、遠く将来のために記録しておかなければならないと。
日亨上人は、この創価学会の法難を、後から富士宗学要集の法難偏に加えられることになる。
こうして「富士日興上人詳伝」を学会に寄稿されてありのままの歴史を述懐され、その次にまた、その学会の法難を宣揚せんために宗学要集を改訂された日亨上人の思いの深さがどれほどであったか。
それは、富士宗学要集の法難編を見てみると一目瞭然である。
然るに。
然るにである。
近年、この法難篇の序文の中の一文を以って、実は日亨上人が学会を警戒していたという日顕宗側の虚言をよく見る。
このように文証がはっきりしているものを虚言で取り繕って悪宣伝に使うのだから、一分の正義もないことは明らかである。そのような悪宣伝を公式見解として振り回している言論に、何の真実の姿勢も無いことに気付くべきだろう。
●富士宗学要集の法難編(富要9-247)の序文は16行に渡るやや長文であるが、その中ほどの一文である。
『顧みるに法難の起る時、必ず、外に反対宗門の針小棒大告発ありて其端を発し、内に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し。本篇に列する十余章皆、然らざるは無し』
(意訳:考えてみると法難が起きる時には、いつも、宗門に反対する者がささやかな事件を針小棒大にして告発することに端を発して、宗内からは世相を無視して宗教的な情熱だけを振り回す偽物の門徒が出現して、宗派の外と内から官憲の横暴を招いたという傾向性が多かった。この法難編の十余章を見てもみなそうでないものはない。)
と、ここの部分だけを抜き取って宣伝しているのだから、やっているほうは分かってやっている確信犯である。
この上記の文章はいつ書かれたというのか。学会の法難が入っているのか。学会が生まれる前のことなのに。
この上記にすぐ続く文章はこうである。(分かりやすいように改行と、その意訳を加えた。)
『今や聖代時を追うて弥よ仁に弥よ慈に有司此を体して明朗に信賞必罰公平無私兆民此に依りて身心泰らけく一人の無告の民なし、
(意訳:それが今は時が流れて、公平な世となり、身心安泰で、苦しみを話すこともできない人もいない世となった。)
本法難篇なんどは全く往昔の夢物語と成了せん、(意訳:本書の法難編などは全く昔の夢物語となってしまった。)
去り乍ら(意訳:しかしながら)
現生活の安泰に流れ行く信行は知らず計らず逸楽にのみ遷り行かんに、近年起こりたる大東亜戦は此等現生活の大覚醒と成るべきも信仰の徹底には如何の影響あるべきか、
(意訳:現生活が安泰であるので信行も知らず逸楽に流されているところに、近年起こった太平洋戦争(第二次世界大戦)はこの現生活の安逸を覚醒させるものとなるが、一方、信仰への影響はどうであったか。)
門徒の自粛を要する所なりしも、昭和の始めより起こりし牧口常三郎戸田城聖の創価学会が俄に法運を回復せしが却って非時の国憲に触れ、同十八年の法難を惹起せし悲惨事ありしも、宗祖開山の聖代に還れる信行両全の現状を念へば広布の大願成就に近づくが如き念ひが湧く。
(意訳:門徒の自粛を促そうと思ったところ、昭和の初めより起こった牧口常三郎戸田城聖の創価学会がたちまちのうちに法運を回復させてしまったのであるが、非時の国憲に触れて、昭和十八年の法難を引き起こしたのは悲惨であったように思われたが、宗祖開山の聖代に還れるような信行両全の現状を見て思うと、広布大願成就に近づいているという思いが湧く。)』
日亨上人が言われた、似非信徒云々の感想は、昭和度以前の法難についての記述である。
その後、泰平の世となり、往時の法難は夢物語のようになってしまったと。(これは初版執筆時の現状)
ここで「去り乍ら(さりながら)」と、つまり、ところが、と次のステージに話は展開している。
昭和に起こった太平洋戦争が人々の生活を変えてしまったが、信仰にはどう影響したのだろうかと。
「門徒の自粛を要する所なりし」と上述のように宗門は世相を重視して信仰を自粛する方向を選択した。
なのにその時に学会が興って「俄に法運を回復」してしまったのだと。
結局、法難を引き起こす悲惨事となったのは予想通りだったが、それを見て、似非だと判断されたのだろうか。そうではない。
学会が現実の社会に仏法を広げる姿を見て、自らの見識を喜びと共に改められた。
「宗祖開山の聖代に還れる信行両全の現状」を感じ取って、実は正しかったことを実感されたのだ。
大聖人の頃のような信仰となり、広布の大願成就に近づく時が来たのだと。
これまでの法難とは、その受け取られ方もその意味合いも全然違う。
序章だけではない、その後の本編の中の第十三章、「昭和度(創価学会)」(富要9-428)の序文を見てみる。
ここも10行に渡るので前文は省略するが、内容的にはこの昭和度の法難がそのまま創価学会の法難と思って差し支えない。
『創価学会最も此の難を蒙むり』と。
その法難後には、『創価学会学会の復興も忽ちに成り』で現在の時に到る。
そしてここの日亨上人の末尾の文を見ればどれほど学会の興隆を喜ばれているかがわかる。
『全国到る処に新真なる会員が同情に充満し幸福平和の新天地を拓ければ一時の劣等が又最勝国と成るべきか、各宗教界の羨望甚だしく、末法の仏法隆盛を極め法益倍増、法滅末法忽ちに変じて正法広布の浄界と成り広宣流布の大願成就近きに在り、悦ぶべし喜ぶべし、編者申す。』
最後の「悦ぶべし喜ぶべし」は、わざわざ字句を変えて、踊っているような感じに見える。
厳格な研究書でこのような技法までされるほど、歓喜の表現を伝えたかったと拝される。
このように喜ばれた日亨上人の文章をねじ曲げて、ありもしない似非信者だと批判した文章だと主張する人はいったい何なのだろう。
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