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「富士日興上人詳伝」から  45

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年10月 2日(火)23時02分23秒
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  ※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)

日精上人批判、第十三回目。

富士日興上人詳伝は最後の頁の話題まで日精上人のだらしなさの批判になっている。
当然、最後の所では少し持ち上げているが、これは礼儀というものであって、これまでの内容が反故になることはない。

日亨上人は日郷の記録を指して「開山上人の御遷化記録は、この分よりほかにはない」と言われたが、御遷化の様子に触れたものは一文か二文なら他にもある。
それとは次元が異なり、実は圧倒的な量と詳細さで日興上人の御遷化の様子を詳らかにした日精上人の記録がある。

内容は3頁にわたる長文なので紹介しきれない。
詳しいというか詳細すぎる。

本文から
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『参考史料 家中抄上(富士宗学要集第五巻宗史部①一七三ページ)

衆徒益々多くして阿闍梨号を授け給ふ者三十余人、手ら髪を剃り大比丘となし給ふ者其の数を知らず、況や新発意勝計すべからず、或は剃髪者有り或は童男者有り具に記せば硯窪み筆禿ならん、師の齢九十に隣り耳目聰明なり、又食啖の物精麁を選び給はず。兼て死期を知らしめし御存生の内に墓所をたて桜木を殖え置き給ひてかくぞ詠し給ふ。(・・・以下略)武州江戸下谷常在蘭室に之を誌す、行年六十三、日精在判。』(下巻p284)

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日亨上人は、「典拠不明」で「諸疑謬点」を含むとされながらも、「ただし、全文は易読であるからこれにふれぬ。熟読せられたし。」と、いちいち言わなくてもわかるだろうと。その上でよく読んでおくようにと言われている。
日興上人の御遷化について他の文献からは詳細に伝わっていないのだから、仕方がないので、参考程度にもこの伝説を基線にしていこうということなのだろう。しかし伝説の中に真実を模索していこうにも多分に日精上人の作文が混じっていることは確かだ。
日亨上人は特にこの中で、日興上人が常に兜率天に生まれ変わることを願って、御自筆の法華経に巻ごとにそう書かれたという日精上人の主張を事実ではないと明らかにしている。これなどはすぐに確認できることなので嘘言以外のなにものでもない。


本文から
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『一、師存生の間常に兜率の生を願ひ給へり、之に依て御自筆の法華経の巻毎に其の趣を書き給ふ、御臨終の時は霊山往詣との給へる弘決第五の文に符合せり。』

「御自筆の法華経」とは、現存一部八巻の法華経には、巻ごとにはそれらの文見えず。(下巻p287)

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兜率云々の文は、おそらく日興上人が青年時代のときの書風で、法華経を写経した一の巻と二の巻にその文が見えるだけである。またそこに「兜率」の文はあっても「霊山往詣」の文は記載されていない。
なので日興上人がまだ四十九院か実相寺の天台義から脱皮していない時のものと見るのが妥当だろうと述べられている。

大聖人の仏法を学んでいるのに、霊山ではなく、弥勒菩薩のいる兜率天に往生したいという発想はどこからくるのか。
日精上人は大聖人の御書の何を学んできたのだろうかと疑問に思わざるを得ない。
その理由は何か。
そんな日精上人の誤謬に対して日亨上人が送られた言葉がこれである。
日興上人詳伝もいよいよ最後の頁になるのでここからは少しは持ち上げつつある。

本文から
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ただし、師は家中抄の記事中、幾多の誤謬を残してあることは、富士宗学要集のなかに加えた天注のごとくである。
だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。
これらを取り払えば、師の功は大いに記するに足るものがある(下巻p288)

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「古文書が読めないこと」と「日辰の造仏の邪思想が深入」していることが誤謬の根源であると評されている。
もちろんこれだけでないことは、これまでの批判にもあったように、虚構の話を作り上げる癖や、信仰に確固たる物が無いと指摘された点、いい加減な言説はその人柄に起因することは間違いないが、ここではまた日興上人の遷化にあたって、日興上人が弥勒の元に生まれ変わりたがっていたという主張を為すのは、大石寺の思想を素直に受け取れなかったことと、それだけでなく「古文書が読めなかった」という点を挙げている。
以前にも女房の宛名を日目上人と読み違えるなど、基本的に不勉強で古い文献が読めなかったのだ。

この次にはとうとう本書の最後まで、日精上人が当時の文献の常識を理解していなかったことを二点、指摘されている。
一つは日精上人は、日道上人が書かれた「三師伝」をなんと日時上人が書いたものと思っていたのだ。

本文から
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次に「日時の三師伝はわづかに」云云の文も、古文書の正判ができない失である。現存の道師の三師伝の奥の余白に、日時上人が申状の案文を筆しておかれたのを、後世のやはり古筆眼のなき人が、奥書の少紙の日時筆に眼を奪われて、多丁の道師筆をも首尾に「日道」の記名がないから(略)、この頓誤を看破し得ずして、精師が「日時の三師伝」といわれた。(下巻p288)

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富士門下の歴史の基本がわかっていなかったらしい。
筆跡が変わっているのに、加筆された部分の名前から日時上人としたことは、常識的に古文献を読む態度ではないし、それか、もうなにかどうでもよいと思っている人の態度でしかない。
次は本当に最後の指摘になるがこれがまたすごい内容である。
相伝書を偽作して振り回していたというから、こんなことを言ってしまってよいのだろうか。

本文から
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また、同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としてある。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云云の文が利用したさからである。

かくのごとくおそれながら、先聖の誤を是正することも「豈罄く興師の道を尽すにたらんや○其の欠を補ひ給はば吾がねがふ所なり」との御自記に応ずることとなるから、精上人も、かならず予が苦筆を甘んじたもうことと思う。(下巻p288)

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日目上人の筆跡でもない切紙を拾ってきて、日道上人への相承の証としていたというのだ。
日亨上人は拾ってきたと表現されているが、普通に考えて他山がこのような文章を作るわけがないことに留意したい。
日興上人が造立した釈迦仏というならそれほど上古の偽作でもないだろう。
日亨上人が指摘する日精上人の目師伝にはどのように書かれているのか。

『其時大石寺には日道を留守其の外置文等之れ有り』(富要5-190)

これだけである。
つまり「日興が作の釈迦」云云の文が利用したさからは庇うために言われているのであって、より重要な論点、相伝書の偽作の部分を穏やかにしたかったのだろう。このような所作はもちろん、「古文献が読めない」から起こったわけではない。
このような明らかな偽作と分かるものでも何でも我見に利用しようとする態度こそを問題とされているのである。
さすがに日亨上人でさえ、長年法主が伝えてきた、日目上人から日道上人への相伝書が偽作であるという直接的な言い方は避けたかったものと思われる。
しかし文の意味はそういうことを示唆している。

この上に上げた本文は「日興上人詳伝」の本当の末尾の数行である。
日興上人詳伝において、最後の最後まで日精上人の批判に終わってしまっていることになる。
なので苦言でありながらも日精上人も喜んでいるだろうと結ばれている。
少し気になるのは上の本文を見ればわかるが、日精の文字から日の字を省略していることであるが、書の最後にこういう書き方をするものだろうか。
 
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