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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日興上人は八十八歳にて御遷化される。
その当時の記録は、日郷による御遷化次第だけである。
本文から
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正文書 日興上人御遷化次第(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集二七〇ページ)
正慶二年癸酉二月七日丑の尅(こく)
駿河の国富士山麓重須の郷に於て日興上人御歳八十八而御遷化
同八日酉時入棺
同戌時御葬送次第
先火 三郎太郎入道・・・(以下葬送行列の順番を列記。省略)
遺物配分の事
寂日坊贈
理鏡坊贈
大刀 蓮蔵坊
一御馬 上蓮坊
二御馬 日善阿闍梨
三御馬 三位阿闍梨
絹片方 伊与阿闍梨
手鉾 式部阿闍梨
刀 宰相阿闍梨
鞍皆具 讃岐公
弓箭 大進公
帷 按察公
二連 刑部公
二連 大弐公
一連 伊賀阿闍梨
一連 侍従公
一連 周防公
一連 大夫公
一連 美濃公
一連 如寂房
一連 大智房
一連 道円房
一連 □囗囗
一連 性善房
一連 因幡房
一連 淡路房
一連 尾張房
余の大衆は他行云云 正慶二年二月 日
開山上人の御遷化記録は、この分よりほかにはない。(下巻p274)
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葬送や遺物の主要な位置に、蓮蔵坊(日目)、上蓮坊(日仙)、寂日坊(日華)、理鏡坊贈(日秀)等の名前が順番に見える。
日蓮大聖人の御遷化記録でもそうであったが、ここでも今日から想像されるような葬式の儀式は一切記録されていない。
あったかどうかさえ怪しいではないか。儀式の形式が重要であれば省略することなどありえない。
それとも大勢の人を集めて行った葬儀が、秘密にしなければならない内容であるとか、そう思う人がいるだろうか。
あるいは葬送次第に先火とあるのは単に行列だけではなく、火をつけて荼毘に附した儀式の順番をなんとなく想像させられるが、
葬送とその後の行列が関連して記載されているのかもしれないが、現代の一般人から見てもよくわからない。
だいたい日興上人が亡くなられたのは重須で、そこからお墓までどれほどの距離ないはずなのであるが。
どちらにしても誰が導師でなければならないとか、読経の内容はどうであったかなどの形式は、ここのどこにも無いことから重要視されていないことは確実に言える。
葬送も「大聖人の御時よりも多数」ではあるが、それでも今日的には質素なものであったように思える。日興上人の弟子分は「はかりがたいほど多数」だったのであるが、この葬儀に名前が見えるのは僧侶が三十余、在家が三十余であって、何千人もの人が名前を連ねたわけではない。
遺配についての日亨上人の解説は以下のようである。
本文から
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また、御遺物については馬三頭・大刀・一刀・一手鉾・一鞍・一絹片方・帷その他、銭二連多くは一連に過ぎぬ。それも在家には、一品も渡っていぬ。葬列の多きに比して、遺物のとぼしかりしは、開山上人の平生の御質素思いやられて粛然たるべきである。
(下巻p281)
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どれほど大勢の人と関わったわからないほど御教化され、数多の弟子を持たれた日興上人にしてみれば、実に質素であった。
ここに御書や経典等が含まれていないのは、当時はそれらを誰も私有物とは考えなかったことを物語っている。
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