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(※本投稿は私の感想です。、特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日興遺誡置文の中の非時の七項目のうちの一つである。
ここは前回に解説した文章にすぐ続くところで、ここの項目も日亨上人は詳しく解説している。
本文から
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一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。
この条もまた、恒久に継続して起こるべき問題でない。時の平嶮にかかわらず、また地方の習慣などで、自然僧分に権威なき時には、まずありがちと思わるる。日有上人の化儀法則のなかにもこれがある。戦国時代、武士万能で、宗教家でも凡庸なる者は生活に難儀で、自然豪族を大事に扱ったから、武人をいばらせた傾向となった。徳川幕府の制度上から、いかに平凡無智無能であっても、目立った犯罪さえなければ、四民の上座におる慣例であったと、明治維新になってこの扱いが解放せられ、各宗僧侶の反省も、努力も、熱誠も減退して、しだいに成り下れる今日の否運の僧侶の状熊では、自然に有力な資産家・政治家の信徒などに頭が上がらぬ。
日有上人のその当時の東山時代を、とくに末法の直中と警告せられたごとく、現代もまたしかりで、僧侶の反省・努力・自尊心を高むるためには、開山上人のこの法度を生かすべきである。しかし、この趨勢も一時的で、決して恒久なものではない。もし、この状態が、永続して僧侶能導の権威が失墜すれば、仏法中の僧分はまったく破滅である。(下巻p270)
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この条(項目)もまた恒常的に起こるべき問題ではないと言われている。 しかしここの解説の全文を見るとまさしく現状がそうで、このまま「永続して」しまえば、仏法中の僧分、つまり僧侶の意義も破滅するだろうと言われている。
これらを読んで、どうしてこの前段の「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば・・・」が絶対に起こらないと日亨上人が言っておられると思えるだろうか。まさに現実に起きているではないか。破滅すると言われてまでいる。
であるなら、前段の所の、貫主の誤りも、恒常的でない、つまりいつもいつもではないというぐらいの意味しかないことが、ここでより一層はっきりする。
ここの項目での解説は、僧侶の努力が無いため自尊心が低く、この条項が生きていないということである。
どこの僧侶社会のことを言われているのだろうか。大石寺等以外のことを言っていると思える人がいるだろうか。
この状態がずっと続いてしまうようになれば、仏法中の僧分は破滅する、つまり僧侶の意義は滅すると仰せである。
そして、日亨上人が危惧されるままに、現代の日本社会では何も人格を磨いて僧侶になるのではなく、安逸に暮すことを目的に僧侶になる人が続いている。
およそどのような道でも、志を立てるのに何のリスクもないということがあるだろうか。
明治以降の僧侶は、江戸時代以前の僧侶とは全く異なる。僧侶となるのに一体全体、何のリスクも負っていないのだから。
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