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(※本投稿は私の感想です。、特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日興上人は万年のために二十六箇の遺誡を残された。
日興遺誡置文である。
この中の七項目について日亨上人は詳しく解説している。
今回はその中に並び立つ二項目から。
本文から
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一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
この二条は、上下の差別こそあれ、常にあるべきことでない。時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者が、にわかに無上位に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の行あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。また、多数の衆徒が連合して、みだりに非違の言行をたくましゅうしようか。いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不詳事であるとしか思えぬ。(下巻p269)
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日亨上人の解説は以上に挙げたとおりである。
この遺誡置文の文章を普通に読めば、法主も間違えるし、周囲の人々が間違えることもあるので、仏法に相違しているかどうかで判断しなさいということになる。依法不依人であり、当然のことを言われているに過ぎない。
ところがこの日亨上人の解説を含めて、「絶対に法主は重要なことで間違えることはないのだ」とする主張する向きがある。
本文をどう見ても、「偶然に」あるいは「まれに起こるべき不祥事」である可能性を否定していない。
加えて日亨上人は先師を立場ではないから、その表現を穏やかにしていることは否めない。
それであっても法主の見識が、「一分の信あり」、「一分の学ある者」程度かもしれないと評されているのだ。
日亨上人のこれらの条項に関しての認識は、この文章の前後で示されているように、「かならず永久に続くものではない」、「恒久に継続して起こるべき問題ではない」との認識であり、間違うことが起きることが前提である。
この文章中で間違いが起きないかもしれないなどというような不合理なことは一切、述べられていない。
それではこの日興遺誡置文の意味がそもそもないではないか。
法主に誤謬がないと考えるなら、この遺誡置文を軽薄浮上の言葉と捉えているに過ぎない。
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