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日精上人批判、第十二回目。
日興上人の本弟子の一人、日華の命日は八月十八日で古来から異議は無かったが、日亨上人は本書において実は八月十六日であったと立証された。日亨上人は命日を間違うことを「気の毒千万」と感想を述べられている。
また日華以外に、その弟子の日仙も間違えられており、逆算すると生誕年も15年も違うこともわかった。
15年もの差異は大きいが、その誤解の淵源はなににあったのだろう。
本文から
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華師の高弟たりし日仙上人も、延元二年正月七日の遷化と自他ともに異議がなく、行年もまた九十一でとおっていたが、予が再々下讃して西秋山家襲蔵の古文書等を見て驚いた。
延元二年より一年おくれた建武五年 延元三年に当たる 自筆の本尊に「七十七」と加えてある。寂年で一年の差があり、行年で十五の差がある。また、それから十五年ばかりの後の秋山文書に、仙師存命の文字もあるが、それが九十一歳となるベきことも明了である。一月七日の遷化と、九十一歳の行年とは関係の記憶に何日も生きているも、年号は誤られたものでありがちのことであるが、日精上人の例の独断で深くも古文書を調べず 延元二年としたのが誤りの根源である。 日華上人もまた、この例で気の毒千万である。(下巻p258)
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※
誤りの根源は、「日精上人の例の独断で深くも古文書を調べず」の態度だったと指摘されている。
年号の誤りはありがちであるが、日精上人の場合は、調べようと思えば調べられたのだと述懐されているのだ。
いや、単に調査不足で間違えたのだったら、日亨上人もこのようには言われないだろう。
知らないのだったら書かなければよかったのに、いつもの調子でつい書き足したんだろうなぐらいの信用しかない。
これまで述べてきたように日精上人が信用されない理由は、単に造仏思想家だったのでなく、その幅広い著作態度に虚言癖があり、創作話を交えたこと、仏法に暗く「確固たるもの」を持っていないことにあった。
本書を読んで、日精上人が非難されたのが単に造仏思想家だと思われたからだという破折班の詭弁は、文証が明白であるのに人々を騙してよしとするのだから、誰から見ても非難されるべき態度でしかない。
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