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日興上人は富士に本門寺を作り、その同じ場所に帝都を作るべきであると言われている。
それが日蓮大聖人の御遺命なのだと。
富士に本門寺を認めることと、そこを王城とすることは、本来、一組の遺命なのである。
もし現代社会の理解も無く、文字面ばかりを追っていると、この意義をどう実現するかに困ってしまう。
本文から
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門徒存知事(略)
一、王城の事。
右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、就中仏法は王法と本源躰一なり居処随って相離るべからざるか、仍って南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり、尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本願の所なり。(下巻P229)
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これについて日亨上人の解説は長いが、要約すると「この絶大の理想は空論とみられるおそれがある」が、やがては「各一般民衆の協力になる大英断からは容易なことであろう」とされる。
日亨上人が富士の地を首都にしたほうがよいという理由は、広博兼景勝の地であることしか挙げられていないが、これを今日的にそのまま理解するには無理があるようにも思える。
今日の首都の広がりは静岡県の一地域にとても収まるものではない。
皇居を移せばそれで済むのか。いや「仏法は王法と本源躰一なり」から見れば主権の住居を移さねばならないが、主権は国民全部にある。どうやっても文字通り移せない。どうしてもというなら王政に変えるのか?
ここにすでに現代社会の事情と相容れない亀裂が見える。
現代には現代の事情があるのだ。
仮に世界政府が出来たら、人類が抱える全ての諸事情に優先して、静岡県の一帯を首都に推薦しなければいけないのだろうか。そんなことをして日興上人が本当に喜ぶのか。
多くの犠牲を無視して、帝都をそこに定めることを大聖人が望まれるだろうか。
それでも富士の麓に万年の都が築かれなければならないと考える教条主義者は、数万年の後に富士山があるかどうかを考えてほしい。
重要なことは、杓子定規に判断することではなく、大聖人の意図がどこにあるかを考えることである。
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