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日亨上人は、なんと本尊書写のあり方までを教示されている。
書写の心得を開示されても私たちには必要ないのに、ここの「なさるべき」とは誰を指すのか考えてみよう。
門徒存知事に日向らが『御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賤する由・諸方に其の聞え有り』と、
御形木の本尊を作ったことを日興上人が非難していることについて、
本文から
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本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬(むく)いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興日有上人はもとより、代々の写主が本尊に脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。しかるを、印刷にて間に合わすとは本尊軽賤の至りであるが、時の情勢のいかんにより、または願主の信仰未決の時の暫定の仮本尊ならばしばらく許すべきもあろうが、宗建を去ること遠からざる御開山御存命時代ではいずれの方面にあっても印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる。(P227)
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文面を見ると、日亨上人は、御本尊を印刷して授与することを喜んではいなかったようだ。
法主一人に限るだけでなく、本来は「印刷にて間に合わすとは本尊軽賤の至り」だと言われている。
日亨上人は仮本尊に準ずる位置づけなら許せるとお考えだったようだ。だが近年に宗門で行われてきた本尊は仮本尊として配布されたわけではない。
化儀抄註解などで本尊書写の権限が法主一人にあるとのルールを述べられているが、ここでは法主の権限には直接は触れていない。
日亨上人は、宗門第一尊厳の化儀である、書写については、法主一人どころか、印刷することも許しがたいと言われているのだ。
法主の権能などと時代背景を見つめず先師の言葉を杓子定規に当て嵌めようとしても無理があるばかりであるのがわかる。
これには説明がいるかもしれない。
日亨上人が本尊の書写を「宗門第一尊厳の化儀」(富要1-112)と言われたように、これは化儀であり、時代によって変遷することが前提である。日亨上人の思いは「有師化儀抄註解」に詳しい。御形木についても種々述べられており、法主に権限があることを述べられる一方で沙弥(小僧さん)がやかましく言うものではない程度の禁制事項として述べられている。結局、形式については確定的なことは述べられず、むしろ後世に広く託しているという印象を強く受ける。
「書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り・敢て沙弥輩の呶々する事を許さんや」(富要1-112頁)
「然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主御一人の手に成ることを得んや」(富要1-113頁)
日亨上人は、印刷で配布するというやり方を認めないというわけではもなく、その必要性を重視されていた。
ではなぜこの日興上人詳伝ではこのように述べられたのであろうか。
日蓮正宗では本尊書写は、仏の立場の側に立って授与するものではなく、読・唱・解・説・書写の五種類の修行のうちの一つ、法主による書写行という位置づけであった。つまり仏の一部を理解しているというようなものではなく、修行の一つである。他の者が行わないのは和合僧の中で雑乱滅裂を避けるためである。
本尊書写を修行者の位置ではなく、さも本尊に特別な力を付与するかのうような理解では、ここの本文は矛盾となり理解できない。どのような形式であれ、法主が付与したものであればそれでよいはずである。しかし本尊書写を本来あるべき修行とする視点では、その書写のあり方にもいろいろと思うことが述べられていても当然である。
それはさておき、ここでは印刷では功徳が有るか無いかというような陳腐な論理ではなく、書写する者の心得として、「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべき」「願主の熾烈な信仰に報いようと」するものなんだと心情を述べられている。
そうするべきだと学会員に書写の仕方を御教示されても驚くが、ここは歴代の法主についてそうすべきだと開陳されている。 なぜ他の法主のことを取り上げているのだろう。
もしそうでないとすると、読者である学会員に向けてそうすべきだと言っていることになってしまう。それは言いすぎだろう。つまり書写する側の立場の心得を思い深く述べられている。
それでは日亨上人はここで単に書写の心得や理想を述べられようとしたのか。
書写は法主一人で一心にするべきだと。しかも印刷を避けるとなると、法主は大変に忙しいころになるというか事実上無理である。
なぜその無理をわざわざ言われるのか。
それほどの多数の御本尊書写に日亨上人は尽力されたのか。
実は日亨上人は、ほとんどというか全くといってよいくらいに御本尊の書写はされていない。
研究に忙しいことも理由の一つであったろうが、権力闘争のこともあっただろう。実務は思い通りに出来なかったらしい。
そうして日亨上人が法主の座を追われるようにして辞退されて、代わりに第六十世となったのが日開上人であった。
日亨上人は自分を追ったからには、せめて書写などはきちんとしてほしいとの思いがあったに違いない。
しかし日開上人は、御本尊書写を間違えて、信徒から追及され、『ただ漫然之を認ため何とも恐懼に堪へぬ』と謝罪の証文まで書かされたことがあることが記録に残っている。一宗の法主としてこれがどれほど恥か。
このような宗門の現状を情けなく思い、後世に託す思いが日亨上人の胸に去来していたのものと思われる。
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