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「富士日興上人詳伝」 37

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年 9月24日(月)23時17分22秒
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  学会の御本尊に法華員が文句を言い始める時、最初にそれは日寛上人の「一機一縁の御本尊」であるとの語り口を多く見聞きする。もとより一機一縁の御本尊とは大聖人が戒壇の本尊を顕す以前の各様式の御本尊を指してきた。
大聖人は初期の頃、個々人に拝する対象として授与されたのではあるが、相貌が整っていないことが多く、これらを普遍的な本尊として認めると後の世で和合僧の中で混乱が起きるのは必定である。形式を広げて混乱を招く必要は、普通に考えて無い。

日蓮正宗では、大御本尊こそが、一閻浮提総与、つまり末法の全ての人に与えられた御本尊である。
法主には管理する権限しかなく、大聖人は全世界の人、地涌の菩薩のために与えられたのである。
したがって日蓮正宗の全ての法主の書写は、大御本尊を書写したものという意義がある。
書写した御本尊は、当然ながら一閻浮提総与の意義を有するので、誰の管理するものかという問題はあっても、信徒の中の特定の人だけが拝せる対象物という意義など無い。

この法主が大御本尊を書写した本尊までを、「一機一縁の御本尊」と言い出したのだ。
これは平成5年発の新教義である。
もし仮に学会に非があると心底から思っていて批判するなら、どうして新しい教義を作り出して非難する必要があるのだろうか。
それ自体が疑問であり、というかこれが全ての顛末の答えである。
学会批判の最初の第一口で虚言を繰り出す宗派に何の真実があるというものか。

もとより日亨上人は、御本尊に限らず保管者の意義が重要とお考えであった。

本文から
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悪世相の順世外道の影響ではなかろうが、僧徒の扱う財物について公共心がとぼしく、まったくの私有観念のみが広がっておるようである。紙一枚・米一粒でも仏物であり、宗有である、吾人は、その保管者であるとの強き無所有主義の観念はいかがであろうか。本尊聖教宗宝の数々も・・・(中略)。

願わくは、一般に仏物・三宝物の観念が拡充して、宗祖・開山の厳格なる、綿密なる宗宝大事の本想を助長すべく、三宝物保管愛護の思念の発達を必死と祈るものである。自然にも、逆化にも、まさに来たるベき小大広狭の広宣流布の待ち受けの数々の条項のなかに、これらもかならずはいるべきであろう。(下巻P223)

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一機一縁どころか、御本尊の散失を嘆き、存続させるためには公共性を最優先してお考えであった。
そして一機一縁の本尊とする御本尊に授与者を記す理由については、日興上人が示されているとおりである。

本文から
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『正文書 門徒存知事(新編日蓮大聖人御書全集一六○六ページ、富士宗学要集第一巻相伝信条部五六ページ)

一、日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事・誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと雖も或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ、之に依って或は以て交易し或は以て他の為に盗まる、此くの如きの類い其れ数多なり故に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり』(下巻P224)

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紛失を防ぐためであり、後代への顕彰のためであると。これを受けて日亨上人はこう言われている。

本文から
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また、本尊の脇書の受者の姓名交名は、後世において広布の元勲として衆多に護法の高名を尊称せらるべき用意ともなるは、自然の賞賜である。(下巻P226)

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全くもって日亨上人も日興上人と同様のことを言われている。
どこにもその授与された人以外の人が拝してはいけないようなことは書いていない。
書写した御本尊は全ての信仰者が拝すべく与えられたもので、その力用に勝手に制約を設けるなど、むしろ不遜の限りである。
当然であるが、もし各法主が大御本尊を書写した本尊を一機一縁の御本尊とするなら、後代の人、一機一縁の無い人には拝するものではないという変な論理になる。それらの書写した本尊はいったい誰と誰だけが拝してよいのか。
仮に血縁ならばその縁者がいない場合、その御本尊は意味が無い御本尊なのか。
まったく考えれば不明な論理であり、とってつけたような教義を振りかざしているのは、わざと切られる配慮なのだろうか。
 
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