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前回では日目上人が日道上人に付属したという大石寺の主張とは全く相容れない日郷への付属について触れた。
日郷は日目上人から付属を受けたが、日道と争って大石寺を追い出されて妙本寺を建てたとされる。いわゆる分派である。
日目上人は1333年12月に遷化されたが、その約10カ月前の2月には日興上人が遷化されている。
わずか1年足らず前である。その日興上人の御遷化の遺物配分には日道上人は名前すら上がっていない。
日郷よりも十歳も年上であったのに、日道上人は日興上人が亡くなるときに相手にもされていないのだ。
日目上人から大石寺の第4世の日道上人に付属があったとするのは、実はこれも大石寺の主観的な主張でしかない。
ところで日道上人は、日興上人から日目上人に与えられた意義有る御本尊に、加筆していたことを以前に述べた。
日道上人が御本尊といい、御書といい、好き勝手に意味も無く加筆するのに、日亨上人は嫌味を述べられていたが。
ここではもう一度、その中の日目上人に与えられたこの御本尊を見てみよう。
日興上人が日目上人の功績を顕彰して「最前上奉の仁」と脇書きしたのに続けて、自分の名前等を記している。
『最前上奉の仁卿阿闍梨日目 (道師加筆) 日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す』である。
よく見ると、日道上人が相伝した後、日道から日郷へと相伝したと記載している。
もちろん大石寺の第5世は日行上人であるので事実と相容れない。
この点も日道上人の策略が見え隠れする。落書きしても日郷は受け取るだろうという行為である。
自身の相伝を認めさせるためには、付属もしていない人に日目上人の御本尊を手渡してもよいという価値観。
日道上人には相伝として受け取った日目上人の功績を讃えた御本尊はそれぐらいの重みしかなかったのか。
後世の人は、かってに神秘化して日道上人の行為には法主としての重々の意義があったのだろうと想像するが。
日亨上人はあっさりとこう言われている。
正文書として挙げているのは、門徒存知事で日興上人が大聖人の御本尊に脇書きしたことの理由を述べている件である。
本文から
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『正文書 門徒存知事(新編日蓮大聖人御書全集一六○六ページ、富士宗学要集第一巻相伝信条部五六ページ)
一、日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事・誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと雖も或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ、之に依って或は以て交易し或は以て他の為に盗まる、此くの如きの類い其れ数多なり故に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。』
首文の開山上人の憂慮、ごもっとものことである。ただし、先師蓮聖の非凡の御筆には格様は異なっても、また名筆の興師の配合は、けっして冒涜の憂いはない。かえって、師資配合の妙趣をみるのである。もししからずして、興師以外の凡筆が宗祖の聖筆に列したとすると、それは開山の仰せのごとく、恐懼のきわまりなきものとなる。
本尊ならずとも、聖教としても、宗祖開山の御筆の首尾・中央・随所に後師の加筆の存する古文書は、幾分の崇高観が減少するが、また、これには書誌学の上から大した効果の生ずることもある。(下巻p224)
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日興上人ならよいが、それ以外の人が宗祖の聖筆に列すること、これは恐懼のきわまりなきものだと。
日目上人に授与されたのは日興上人の御本尊であるから、加筆してもよいという道理も通らない。
「いずれ加筆、加印は、よろしく慎重の注意を払うべこと、開山上人の御哀情を汲み奉るべきこと当然である」(下巻p226)とある。
これは誰に言われているのか。日道上人以外にも筆をふるった法主がいたものか。
日亨上人が話の流れで最後まで付け加えられた、「いわんや日目上人へ御授与の本尊に、開山上人名筆をふるうて「最初上奏の仁」または「最前上奏の仁」と加賞の特筆あるものにおいてをやである。」(下巻p226)と高名を賞賜された御本尊に余人が加筆することを日興上人が喜ぶかどうかは子供でもわかるというものだ。
要するに駄目すぎということだと。
本尊以外でも崇高観が減ってしまうだけだと。かろうじて書誌学上は関連が分かってよいのだがと、まるで落書き扱いである。
なお日郷に授与するとあるが、この日道上人の落書きされた御本尊を日郷が喜んで受けたはずもない。
日亨上人は、本書の最後部分で、もしも「かつまた日郷がありがたく御受けしたならこの人もまた天下の大愚である」(P865)と嫌味を言われている。相手が喜びもしない御本尊の授与とは何だったのか、つまり陰謀以外のなにものでもない。
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