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本門の受戒について。
大聖人門下では、日照と最蓮房が迹門受戒を受けているが、その他の弟子の受戒ははっきりとしていない。
このうち最蓮房のみが大聖人よりあらたに本門戒を受けている。門下の中でたった一人である。
それは迹門戒を受けていたためなのか、とにかく特別な出来事だったようだ。
本門戒は、儀式としては確立していなかったとみなされる。
本文から
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いまさらに、五人所破抄の文に鑒み、心底抄の文を味わうと、なんとなく本門受戒の厳儀が確立しておらず、本門戒体抄の梵網に縁ある十重禁等のごときも、一応民部向師が立案したもので、実行に移したことはなかりしことで、一般に、宝塔品の是名持戒に止まっておりしものと思う。大聖の御遺文のなかでも、問題未決ともいうベきが、最蓮房の塚原受戒の例はさらに一文も他にない。晩年期の三大秘法抄の文を味わってみても、将来の理想であって、現実ではおそらくあるまい。(下巻p194)
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当時に普通に行われていたというものではなく、将来の本門寺が建立されたときのこととして考えられていたようだ。
五人所破抄にも、本門の戒体の委細は口伝にして非公開とされていることから、実際には行われてこなかったのだろうと言われれる。そして残念ながら今日には何も伝わってはいない。
本文から
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五人所破抄の本項引文の末にも「本門の大戒においては依用せざらんや」等とありて、迹門戒を厳禁することは、存知抄と全同でありながらその実行面になると「ただし本門の戒体委細の経釈は面をもって決すべし」とて、公開を避けておらるるから、有期限・無期限・顕露・秘密ともに、旧来の小乗方等・迹門と月支・漢土・日本に伝来した厳儀に準ずる本門本円戒の受持作法は、まったく行なわれたことがなかったとみるベく、しばらく他門から富士を見ての批判に、顕本日什の直弟の古記に「富士には受持なし」といって、欠点の第一に数えておる。(下巻p195)
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公開されていないくらいだから、迹門の受戒のような受戒の儀式は富士門下では「まったく行なわれたことがなかった」はずだと推測されている。
それゆえに他宗からは大石寺には受戒の儀式が無いと欠点の一つに数えられていたのだと。
日亨上人も受戒の儀式は具体的には無かったという認識なのである。
上に続く次の文ではかなり明確に述べられている。
本文から
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それは、富士の富士で、上野大石のことか、重須本門寺のことか明らかでなく、おそらく会津黒川実成寺すなわち日尊 京要法寺 門の日伊師徒のことであろうが、あるいは、日什の古記に関係のなき広き富士でも、受戒の定規はなかったろうと思う。それが、近古に至って、にわかにその式が新設せられたのではなかろうか。各方面から考えをめぐらす時は、相当に考察して整理すべき必要があろうと思う。ただし、それは内外の時勢・思潮・行動を熟視しての上から、応時の新戒律を将来万年のために設立すベきでなかろうか。(下巻p195)
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受持即観心なのだから、さほど問題ではなく、本来、隠すようなことでもないはずである。
現行の大石寺はさも連綿と続いた儀式があったかのように架空の事実を述べているが、具体的な儀式を示すことは出来ない。
そういう姿勢は虚偽というものである。
受戒の決まりとしてこれと言えるものはずっと無かったのだ。
なぜなら大石寺が受戒の儀式を始めるようになったのは、牧口初代会長の依頼だからだ。
他宗から改宗するときにけじめが必要と考えて、御受戒の儀式が中野の歓喜寮で始められたという。
学会を深く理解された日淳上人がこれを受けられただけで、他寺では拒否されたようだ。
御受戒も学会の運動によって始まったのである。
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