|
今回は日目上人のお振る舞いについて。
門徒存知の事によると、「其の整足の弟子等忽ち異趣を起して法門改変す」とあるように、大聖人滅後には弟子の間に様々な見解の相違を生じた。
この見解の相違は、五老僧の派閥にとどまらず、日興上人門下の中にも起こった。
異趣の内容は、天台沙門、神天上、造仏など多岐にわたるが、今回は神天上の法門についてである。
日尊は日興上人の門下としては最も布教で活躍した人であるが、神社参拝が謗法であると理解できずに言い争った時期がある。
保田妙本寺に正本がある「目師状」には、つまり日目上人が当事者の一人に送られた手紙には、ことの始終が記載されている。
日尊は長年の遠征から戻り破門を許されてすぐ、さっそく神天上の法門について他の門下と衝突してしまう。
しかしこの手紙を見ると、最後に日尊が本当に神社参詣が謗法で誤りであったと反省に至ったかどうかは不明である。
この日目上人からのお手紙は、要約すると、「彼は知らなかったんだからね。仲良くしてあげてね。もう今は神社が良いとは言わないだろう、いや、実は神社が良いなんて全然言ってなかったんだよ、最初っから、彼は。」というような趣旨である。
この手紙の最初の部分には、日尊は神社参詣を肯定して言い争っていたことを日目上人みずからお書きになっているというのに。
日亨上人は、日目上人はうやむやにして穏やかに収めてしまったのではないかという感想をもたれている。
本文から
========================================
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
ただし、重須に参ったら神天上の強義を身にしみるよう懇誡してくださるように、と念を推された文意であるが、拝しようでは、なんだか釈然たらず底があるようで「実にはすべて神法門申さず候なり」との文について考えてみると、諸方から彼是いわれてめんどうだ、むしろ神詣の可否いっさい口にせぬに限ると尊師が仮定したかのごとき解釈が妥当のようにも思わることは、なんとなく不快の意が残る。(下巻p186)
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
========================================
※
少なくても日目上人は教義を盾にしたような杓子定規な対応はしなかった。
「実にはすべて神法門申さず候なり」である。
そして日尊は日目上人を師として終生仰ぎ、亡くなる時は頭の方向を日目上人の墓に向けさせという。
法門にあっては厳格であっても、単に定規を当てて鋏で切り分けるように人を裁断したのではない。
大きな目で見ており、人情を考慮して、その上で教えられている。
日興上人門下は厳格であると知られるが、無理に狭く考えることなどなく、広く考える必要がある。
造仏にしてもそうで、単に教義上に振り分ける視点しかないと、なぜ色々なケースを日興上人が認められたのかがわからなくなるのだろう。
|
|