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富士日興上人詳伝では、宗義である戒壇の大御本尊については詳述を避けている。
一節を設けて「戒壇本尊奉受および禁廷への奏状」(上巻p159)の項で、他と合わせて概略があるのみである。
二箇相承では全容を詳細に述べられたに比べると、とても詳細とは言い難い。
身延離山の編も詳細ではあったが、そのとき、戒壇の御本尊が下山の折にあったかどうかについて、
本文から
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御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。(上巻p280)
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と疑問の余地があることが述べられていた。
そして今また、身延離山の後の「本門の戒壇」の項目のところでも、詳述は意図的に避けている。
その理由は「特に大問題」であるので少紙短編では足りないので詳細を避けたとある。
それでも「小史談」として自他の文献に「寸評」を加えることを試みたが、やはり誤謬を含む参考文献ばかりを挙げて見せていくことに嫌気がさしてしまったとして切り上げられる。
日亨上人でさえ、戒壇本尊についての根拠を明示するために自他の文献を比較していくと「気が腐った」という思いに囚われた。
日亨上人も端的に大御本尊の正当性を述べるには躊躇せざるを得なかったようにも受け取れる。
そもそも大御本尊は内外の人には知られてこなかったのである。
上代には自他に知る人無く、内拝として知られるようになったのも中古の時代からではないかと日亨上人は推測される。
本文から
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当時の法主は伝戒の大任を負うのみである。開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。(下巻p58)
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ここにある有名な某居士とは大正時代~昭和初期の頃であるから、あるいは三谷氏のことか。
宗門が御書発刊するのにも協力していたから、これより有名な人がいたとは思いにくい。
その懇願により月一回は内拝もあったがそれも廃止されてしまった。つまりは一般の人には全く機会など無い状態だった。
近代になっても信徒が拝するものではなかったのだ。大聖人の頃からもう半世紀も過ぎているというのに。
「近年のごとき常例」とは疲弊した本山を救うために戸田二代会長が発案した、学会により始められた登山会を指す。
多くの人が拝するように変わり、始まったのも、なんのことはない学会が興したということになる。
学会が無ければ、今だに山奥の秘仏の扱いで、末法の最初の一千年(2052年)もついに過ぎていたことだろう。
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