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日精上人批判、第十一回目。
日亨上人によると、鎌倉時代の土地の選定には、四神相応にならうのが当時の常識であった。
門徒存知抄にも、本門寺が立つべき富士山を、「一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり」と賞賛していると。
つまり北に玄武(丘陵)、東に青竜(流水)、西に白虎(大道)、南に朱雀(汚地)である。
日興上人が重視したこの地勢をすっかり忘れて得意に記述している人が、やはり日精上人であった。
本文から
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日精上人の家中抄の舒事は綿密であるが、大石が原の地勢については、「大石ヶ原と名く、此の所に臨んで見給ふに景気余所に勝れて南北際涯なし、東西に高山をみ、前には田子の海を呑み後富士野にいたる、景明かに目に満ち一空の皓月千里光を浮べて」云云とあるが、四神相応の勝地には触れてない。(下巻p48)
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※
「南北際涯なし」、「東西に高山をみ」と、全く四神相応に沿わない記述を平気でしている。
日興上人が気にされていたことなど意中に無かったのだ。
唯一、合致しそうな南側に田子の浦を挙げていることについて、日亨上人は後段で四神相応の意義から見ると、広大すぎる環境のことではなく、「建造物に適当する限られた地域」にあてはめるべきであることを述べられている。
そして開山上人や南条時光が遠き未来を考えてこの地勢を選ばれたことを感謝すべきだと結ばれている。
つまり日精上人は四神相応の何たるか、日興上人の深慮の何たるかをまるで理解していなかったのだ。
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