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「富士日興上人詳伝」 28の解説

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年 9月15日(土)16時41分25秒
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  下記の投稿で、法華講員さんへ誤解を避けるために補完の一文を作ってみたものです。お暇な人はどうぞ。


特に下の私の投稿を見ると、文献学とか歴史考察を下しているのではないかと誤解されないかと心配です。
歴史を丹念に考察し、史実を論証していくことが重要なのは、言うまでもないことです。

文献による歴史的な経緯がはっきりとしていればいるほど、本来あるべき宗教的意義に立って皆が考察することができます。
つまりほんの一部の人々にとっての都合、宗教的都合だけでなく、これまでの歴史で見てきたような商業的あるいは政治的意図に左右されることを退けられます。本来の宗教的意義以外のことに翻弄されずに済みます。
歴史上の経緯がはっきりしていることは重要なのです。(たとえその歴史が事実と異なっていたとしてもその意味では重要度はなんら変わりません。)
また和合僧の中での共通認識を培うことが出来ます。誰もが容易に納得できる説得力があります。
そしてその継承してきた経緯を走ってきた先人の行動を学ぶことができます。
文証があればよいのに越したことはありません。

ですが重要なのは、無い物の方が多いのに贅沢を言ってては、宗教は架空の世界を構築するしかないということです。
私たちの目の前にあるのは虫食いだらけの歴史書しかありません。
いえ、無いだけならまだしも、積極的に事実とそぐわないことが分かってきたことも多くあります。
何も本尊がどうのだけでなく、気にしていないだけで幾らでもありますから。(そうなんですよ、気にしていないのですよ!)
まるで馬鹿みたいと思われるようなことでは、一閻浮提は世界を亀や蛇が支えているという世界観です。誰もそれを比喩としか取られていませんが、それを比喩とする文証はありません。本当に大聖人はどうお考えだったか。多くは大聖人の時代の解釈ではなく、常識的な理解に置き換えています。それがいけないことでしょうか。誰の権限で納得するというものではなく、考えることを放棄できるような人なら別ですが、まず社会的なコンセンサスがあることが基本ではないでしょうか。世界を亀が支えていない事実に悩む人はいるでしょうが、歴史考察から視点を外さない人はそこから悩んでいただかないと、一歩も進めません。

歴史の真実が分かるたびにビクビクしながら、いやもう、史実研究から人々の目を隠すしかない。
それ以前に事実ではないと困るのだから、考慮の対象外となってしまう。
それでは対話していても仏教なのに、神を否定することを考慮すらできない人々と変わりません。
最後は、それは私たちは考えてはいけないことだ、で終わってしまわれる。

実際、我々は史実を大切にはしてきたけど、それに翻弄されることはありませんでした。
誤解を恐れず多くを省略して言えば、それは地涌の菩薩の自覚があったからです。
自分たちが何をやっているか、なにが重要であるかを、十分に理解していた。

牧口初代会長は、当時の宗門の誰一人として、御法がわかっている人はいないと公言されていました。
それではわからないのだと。
現今の日蓮正宗は、大聖人時代の天台宗に相当するとまで明言されていた。
その上で礼節を重んじて、僧侶の立場を立てていた。それが日本の社会だったからです。
僧侶への礼はたてながら、その上でボロクソに言ってきました。人々を地獄に向かわしめる獄卒でしかないと。
それが可能なほどの人格者でしたから、そこがわからないと明日を向いた解釈になります。
牧口初代会長が一校を立て直した学校の校長を転任になった時には、教師は全員自主的に辞職願いを出し、父兄は泣いて街角に立つほど反対運動が起きたそうですから。違うのですよ。

初代会長の事跡を追うとき、法主の許可があって、それに従って信徒が動いていたという構図は甚だしい誤解でしかありません。そう誤解している人はまさかいないとは思いますが、いそうで怖いです。受動ではなく完全に能動の立場でしたから。
法主に本質的な権限があるのではなく、実際は、地涌の菩薩が、法主に権限と立場を認めてきてあげた、というのが事実です。一宗が滅んでも目の前の人々を救う地涌の菩薩の行動のほうが優先されるに決まっていたことは誰もが知るところです


第二代戸田会長も然りです。
地涌の菩薩の立場から、宗門を立てて、礼儀を立て、あるいは叱りとばしてきました。
学会が75万世帯を目指す宣言をしたときに、宗門側にも別に75万世帯をと示唆したことは有名です。
戸田二代会長が日蓮正宗の布教に尽力したことは事実で隠すことでもありませんが、その思いの本質はどこだったのでしょうか。
戸田二代会長が生涯に誇りに思うことと幾つか挙げたことで、日蓮正宗のことなんか全然頭にありませんから。
戸田会長の誇りは全て牧口初代会長とのことばかりです。

学会は最初から地涌の菩薩として振舞っていたのですよ。
とまあ、こういうと、牧口初代会長も法華講員に折伏されたのではないかと詰問する御仁もいます。
言う事の一つ一つが机上の思いつきでしかなく、自分が本当に信じてることを語っていただきたいと思うばかりです。
法華講員の方はいったい功績を尋ねて感謝してきたのかと。
そもそも日本に仏教が導入されたのは誰のおかげなのですか。
「其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰と馬子との父子二人の故ぞかし」(P1168)
大聖人が法華経に会えたのも馬子の功績です。大聖人は馬子に感謝していますか?
していませんよ、功徳も無く、すぐに滅んでしまったと記されています。
事実の功績の大きさだけでは意味はありません。仏法では伝統的にその志が大切なのですから。
白米でも砂団子でも功徳は計り知れず、仏教を命がけで日本に導入してもその功徳は吹けば飛ぶばかり。
これはもう基本中の基本なのですが。

学会が無ければ、未だに宗門は何の役にも立っていない宗派でしかなかったのではないでしょうか。
 
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