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「富士日興上人詳伝」 28

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年 9月15日(土)16時39分37秒
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  大石寺では日興上人から日目上人へと相承が行われたとする。
その証拠となる相承書には大石寺が公開した写本から削損・後加がある(日蓮宗宗学全書)と推測されている。
大石寺はその主張の根拠となる正本を何故か非公開にしており、その理由は誰にもわからない。

一方、それとは別に、日興上人から日目上人へ与えられた御本尊こそが相承の証拠だと言われたこともあった。
いわゆる日興上人から日目上人へのお座替わりの御本尊である。
しかし実は、それは根拠と言えるものではないことを日亨上人はこう述べられている。

本文から
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お座替わりの御本尊(富士宗学要集第八巻史料類聚①一七九ページ)
右下「正応三年十月十三日之を写す」、左下「日目に之を授与す」。
大石寺に興師正筆十六枚続のを格護す。客殿の板本尊は、宝永三年日永上人のその模写彫刻である。
いつからか、これをもって本山創立の上に目上に内付せられた証左に用ゆる向きもあるが、ともかくも興師としては希有の大幅であり、また書風も堂々たるものである。大きさとしては、陸前宮野にある元徳二年十一月、河東左衛門五郎(略)の二十六枚が極大であるが、御書風は略草であって、お座替わり本尊に比すべくもない。
その他、自他各方面に現存する曼荼羅はみな小幅である。大小をもっていっさいを律することは妥当でないが、いかにしても特殊の意義を有するものと拝したい。(下巻P13)

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いつからかこれを日目上人への相承の証拠に「用ゆる向き」もあると。その程度の認識である。
この見解は上代にはっきりとした文証も無いため、日亨上人は「いつからか」と、根無し草のように表現されている。
どちらにしてもこれだけの脇書内容では相承の証拠、あるいは大石寺創立の証拠とするには無理がある。
ここに日亨上人の徹底した客観性があり、読者を引き込むものである。
その上で大石寺法主としての立場から、全面的に否定はされずに、結局は極端に大きくそして精密であることをもって、特殊の意義を有するものと拝したいと主観的な意見に置き換えて結ばれている。

つまり日興上人が日目上人に付属したというのは、大石寺の宗教的見解ではあるが、客観的な事実として提供できるものは何一つないということになる。
大石寺が強引に言い張っているだけだというのが事実である。

繰り返し強調してまた述べるが、この内容はかって学会員の機関誌にて堂々と発表されていたものである。
当時から今に至るまで、これを読んで人々は慌てたりしたのだろうか。
興味はあったろうが、信仰の確信に、まるで影響するものではなかったのが事実だ。
その社会的な事実を疑う物はいないだろう。発表されて学会は発展してきたのだから。
それは彼らが無知や無学であったからか。そう思って足りる人は事実がまるでわかっていない。
信仰に影響が無い、むしろ増進すると思われたからこそ、日亨上人も安心して公開されたのだ。
それを慌てふためく人は、どこか文献とかに対しての捉え方がおかしい。
信仰を深く理解しているかどうか、その大切な部分が欠如しているのだろう。

大御本尊しかりである。
今やかってと違って文献学が発達し、文献学の手法は、もう現代人の思考の精度には届かなくなってきたのだ。
例えば真蹟があったから証拠だと言うのは、筆跡を真似する人はいないという共通認識に立ったものでしかない。
その他は略す。
科学技術の世界では堂々たる仮説が立てられては淘汰されていくのに対し、この文系の世界のぬるさはなにであるのか。
二三の文献で歴史的に証明できるものなどまずなく、証拠と言えるほど提供できるものも何一つ存在しない。
根拠があると思っている人は、目と耳を塞いで生きていくことしか選択枝はない。
歴史的根拠に全てを委ねる人は、結局のところは行き詰るしかないだろう。
相伝しかりである。
題目はどうなのか。
鎌倉時代の発音がそのまま正確に現代まで伝わっていると思っている人がいるのだろうか。
日本語の言語の発音は基本的にすっかり変わってしまっているのが常識である。
中身が変わっているのだ。
文献学や相伝にはおのずと限界がある。
だが信仰を実践する者にとって、そんなことはとっくにわかっていた。
だからどのような歴史の開示も信仰を増進こそすれ動揺など生じなかったのだ。
神秘化した教義や権威に盲従する人には理解しにくいかもしれない。

今や大御本尊の正統性も学会の存在以外では証明できないこととなった。
 
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