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今回は、意外と広くは知られていないことかもしれないようなこと。 
 
日興上人は身延下山の後、富士の地に来られたが、大石寺を本門寺の場所に選んだという証拠は特に無い。 
大石寺はその成立すら文献学的にはっきりとしてはおらず、つまり不明である。 
 
本文から 
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すなわち大石寺の創立について、自門に直接正文書もないが、またなんらの疑点も起こっておらぬ。 
ことさら他門にも、横難故造の誑惑もないのはめずらしいことである。(下巻p12) 
 
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正式な記録も無いが他宗ではその存在くらいは認めてくれてる、でもその程度にすぎない。 
他山でも本門寺を称していることからわかるように、大石寺こそが本門寺と認められるような根拠は特に無い。 
 
日興上人は、身延離山後の40数年間、大石寺にはどれくらい居たのだろうか。 
それすらもはっきりしないが、日辰の記録にはこうあることを日亨上人は挙げられている。 
 
本文から 
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祖師伝(富士宗学要集第五巻宗史部①二一ページ) 
 
〇一義に云く開山は身延山を出で河合に三年住し給ふ、河合の寺号をば妙福寺と云ふ、其の後下之坊に三年住し玉ふ、其の後大石寺に三四年住し玉ふ、其の後本門寺に三十六年住し玉ふ。(下巻p16) 
 
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身延を出た後、妙福寺に3年、下之坊に3年、そして大石寺に3年または4年、そのあと重須に36年を過ごされたと。 
これによると大石寺に居たのはわずかに数年ということだ。 
他にも三師伝や申状見聞の記録は簡略すぎて時期は不明で分からない。 
日亨上人によると、『このある説によると、大石の創立は永仁三年ごろとなる。』と、ようやくこの説を採用すれば、大石寺の創立は「永仁三ごろ」つまり1295年頃という年月日が出てくる。 
また他にも身延離山の翌々年の1291年には重須にまで移動したという記録もあるが、そちらは「勝手な書きぶり」とされている。 
 
世の中には意外とはっきりしないことが多く、特にさほど重要ではないので、創立も記録も無かったのかもしれない。 
しかし明確な根拠も無いのに、月日まで入れるというは作為でしかない。 
 
しかるに現在の大石寺は、その創建を正応三年(1290年)の十月十二日と公言している。 
日亨上人も一応はこれを採用しているが、実際のところ客観的な裏づけは無い。 
その頃だろうということと、目師への御本尊にある年月日を使うことにしたようだ。 
大石寺側が創立をその日だとする根拠には日亨上人は実はあまり積極的ではないのだ。 
創立日がはっきりしないでは、かっこが悪いので、どこの寺でもやっていることであるから詐欺と言えば言い過ぎかもしれない。 
しかし伝えられてもいない記録を勝手に公言するのだから、信じる人がいるのだから詐欺とも言える。 
それにしても10月12日とまでしたことは行き過ぎだろう。 
 
大石寺は案外、創立も位置づけも不明確な寺だったのだ。	
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