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日精上人の幾十駄の荷物を身延より運んだと言う話が嘘なのだったら、大石寺には重宝は無いことになる。
日興上人はそれではいったい何を持ち出されたのだろうか。
本文から
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御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。
「御書物」の中はなんの御書であったろうか。大聖人御筆として、諌暁八幡抄の稿本と大橋太郎抄はかならずここにはいるであろう。
現存大石の多数のものは、南条の下之坊保管の物であり興師の延山時代には関係はない。すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出してない。浬槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも「身延沢御退出の刻・公方・聖教・世事雑具等皆悉く御墓所に之を置く可きの由、衆徒に相触れられし時、面々供奉の人々一紙半銭も持ち出ることなし」と書いておる。(上巻p280)
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大石寺に持って来られたのは御書が2種類くらいは確実だろうと。
その他に御影、御骨はあったはずだが、大御本尊については不明であると。
ここで持って来ていないとなると、歴史の話の辻褄が合わなくなるが、それでも日亨上人は明確には語られない。
今ある大石寺の重宝は、大石寺の近隣にある下之坊が保管せるものを大石寺に持ってきたにすぎない。
大聖人、日興聖人由来のものは、大石寺にはほとんど何もないのが実情である。
相伝書ぐらいはありそうに思えるが、日亨上人の宗学要集を見ると多くの相伝書も大石寺にはないことが明らかである。
ここは読んでいて、当時の学会員も意外とがっかりしたかもしれませんね。
もう少しあるものと期待したかったような。
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