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日亨上人が落涙して拝した、粛々たる身延離山、それをなぶるように絢爛豪華に演出してくれる人がいた。
日精上人批判、第十回目。
まず事実を追っていこう。
日興上人が身延を離れる心情を切実に述べられた原殿御書。
その追伸には、下山のときに持ってきた涅槃経一巻と御書をわざわざ身延に送り返したことが記載されている。
本文から
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御所にて談じて候しを愚書に取り具して持ち来りて候、聖人の御経にて渡らせ給ひ候間慥に送り進らせ候(以下略)(上巻p241)
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日亨上人は、この追伸から日興上人の謹厳さが偲ばれると教えられている。
いくら大聖人から身延を託されたといっても、大聖人の遺物は身延に置いたままで、自分のものにして持ってきてはいないのだ。
この記録とは別に日尊のほうの記録にも、日興上人の指示でお供の人々も「一紙半銭も持ち出ることなし」と記録している。
日興上人が大切にしたかったものは大聖人の遺物ではなく、その御心だったのだ。
本文から
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一巻一紙も苟(いやしく)もせず、公私を峻別せられた尊さを思うべきである。これを後世に、幾十駄の荷物を延山より富士に運べりなんどいえるものは、思わざるのはなはだしきものである。(上巻p246)
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実は身延離山は巷間、言われるような賑々しいものではなく、慎ましやかで質素な出発だったのだ。
それならば、誰が、今日流布しているような騒々しい伝説を作り上げたのであろうか。
後世に大きな影響を与えたという意味では日精上人である。
日精上人の家中抄にその長文が記載されているが、長すぎるでここでは紹介しきれない。
ここでは日亨上人の評価だけを掲載する。
本文から
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それが精師已後の文献には、御伴が何十人・御荷物が何十駄と誇らしげに列ねておる。いまでも御常用の鉄釜なんと伝えておるのがある。謹厳無欲の開山上人を毒すること甚だしいものである。おそらく越前公へ数か月の滞在に、多少狭隘なる坊舎に溢るるほどの御荷物はなかったろう。(中略)考えなき筆の舞わし方である。(上巻p281)
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何十台もの車を列ねて重宝を運んだというのは、考えればわかることで甚だしい誤りだと。
このような豪華に飾った話で侮辱した日精上人に対して、日亨上人はもう言葉を隠さないくらいに手厳しい。
本文から
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離山史については、自他各通の中で、この家中抄の開山伝が、まず詳密である。これにかかわらず、後世にいたるほど詳細になっておるのは、愚俗の伝説をも加えてその時代の凡眼に適するように作為せらるるからで、綿密になればなるほど杜撰となりて、正伝に遠ざかるものであるのは、一般史伝の情勢である。御開山伝ことに離山に関するもの、すでに、辰師の祖師伝において、この傾向が見える。精師の家中抄は、さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる。(上巻p279)
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これが有名な日亨上人の日精上人の文筆への評価。
「無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておる」の部分である。
これは造仏論だからだろうか。いや、それはまるで関係ない。
前回に述べた身延離山で日興上人を偲ぶたびに、涙を流され胸を突く思いをされた日亨上人。
その粛然たる思いが伝わらない者は信徒ではないとまで叱咤されていた。
日精上人が面白おかしく作った話を読むと、その逆鱗に触れる思いはあまりに当然である。
確かに日精上人の理解はひどすぎる。身のほどを知らぬ無知さであり、家中抄を見れば憐れさに別の意味で涙が流れる。
このことについての日亨上人の言葉はここに挙げたものに尽きない。
日精上人が述べた、日興上人が戻ってくれるなら身延の院主・学頭にしてあげるという条件が出されたというくだりについて、 「なんたる無理解のことであろうか。(上巻p286)」と。身延にいたときに既に法主だったのではないかと。
日精上人はいったい何宗の人物なのかと。もう、日興門下ではないよと言わんばかりである。
その次も聞いていてもう恐ろしいほどの無知ぶりを提供する。
日精上人によると身延離山の折に大御本尊、御影等を、全て持ってきたことにしてあるのだが、
いやはや。日興上人はその途中でそれを身延に返してしまおうと言っていたというのだ。
なんということか。
大御本尊を返してどうするのか。その発想は何なのか。
本文から
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「本尊御影返し給はるべきの由」等とは、またこれなんらの文拠もなく、まったく精師の憶測であり、延山側の文献にいささかもこれに触れたるものがない。(上巻p287)
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もう十分である。
妄想が多いとタカをくくっていたら、日精上人の虚言性はそのような範囲に収まるものではなかった。
小説にしたって日興門下としての自覚があれば、このような情けない話には仕上がりはしない。
これは何宗の人間が作った話なのか。
それが大石寺に伝わる代表的な歴史書として伝えられてきたのだ。
自己の経験世界に準じて書きなぐっている、無知な人物だと。。。。
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