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「富士日興上人詳伝」 24

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年 9月11日(火)19時55分46秒
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24
ついに身延離山の章となった。

ここは「富士日興上人詳伝」の全編を通して、もっとも粛然とした思いに人を至らせる章である。
これまで冷静客観的に文献から述べられてきた日亨上人だが、ここに至ってその強い思いを全面に出されて教えられている。
「富士日興上人詳伝」は単なる研究書などでは決してなく、人の心を深く揺り動かす深い思いを伝えた書である。

身延を去る時、日興上人は、御遺命を果すべく富士を目指して、嬉々として下山されたのだろうか。
否である。
ではなぜか。身延が駄目になったから、さあ目的の富士に行こうという考えはあり得ない。
人の心が分からないとその答えは得られはしない。

本文から
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『正史料 原殿書(富士宗学要集第八巻史料類聚①一一ページ)(前略)

身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども、打ち還し案じ候へばいづくにても聖人の御義を相継ぎ進せて世に立て候はん事こそ詮にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子悉く師敵対せられ候ぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当りて覚え候へば本意忘るること無く候。』(上巻p252)

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日興上人は「面目なさ」「本意なさ」に言い尽くせないとまで悲痛な心情を述べられている。
そしてこの文を読むとき、日亨上人は「いまがいままで幾度拝読しても、胸は痛む、涙は乾くまがない」と。
ご自身が幾度読まれても涙を流されて胸が痛むのだと。
そしてご自身だけでなく、諸葛孔明の出師の表に譬えて、「いまこの文を拝して平然たるものは宗徒でないと愚僧はいおう。」と述懐される。
これが分からない者は信仰者として失格だと。

日亨上人はこう解説される。

本文から
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師命によって檀信に任せて身延山久遠寺の別当とし院主として、本門弘通の大導師として、宗祖滅後の閻浮提の大法主としての責任はまったく本寺を死守することにとどまり、十八高弟の代表として祖廟に奉仕することにある。しかして御遺状の血脈の次第・日蓮より日興への面目が保たるるのである。ゆえに「面目なさ」の四字に千鈞の重味があり、万億無量の意義が含まれておる。(上巻p254)

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「大法主としての責任」は、「まったく本寺を死守すること」、つまり大聖人から託された身延山の別当にあるのだと。
それでこそ約束が果され、そこに日興上人の「万億無量の意義」が含まれるのだと述べられている。

ところで、ここの身延離山についての日亨上人の言葉は有名であるが、意外と、これに続く後段の言葉はあまり引用されているのを見ない。
日亨上人の言われるように、こんなことがわからないのは信徒でもなく、人の心を知る者でもない。

 

そう、もし、もしもである。
この身延離山を面白おかしく演出して記述する法主がいたらどうだろうか。
まさか、そんな人物がいるわけがない・・・そう、だがそのまさかなのであった。

(つづく)
 

 
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