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日亨上人は、御自身の研究成果として、数百年間伝えられてきた内容を改正した。
弘安五年のとき、日興上人は身延にそのまま居残られたというのではなく、その時は一旦、下山されていたのだ。
そして翌年、弘安六年になって身延に入山されたのだと発表された。根拠は波木井からの幾つかのお手紙であった。
本文から
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これを依拠として、日興上人の確定した御入山は、弘安五年末の他の老僧たちとともに、御骨に陪従して登延せられたままでなく、弘安六年正月に百か日忌をおえて諸事を結了して諸老僧が下山せられ、次いで興師も富士の庶務を整理して、その年の秋ごろに(墓輪番は九月なり)あらためて諸弟子とともに賑賑しく晋山せられたろうと推定して、数百年伝称の弘安五年入山説に正批を加えて、明治三十九年の「白蓮華」に発表したので、御僧分の方々には、格別の御異議はなかったが、大阪の御信者の重立つ人々から、大いに逆撃を受けたから、さっそく二三の反駁を加えたので、(中略)一年たたぬうちに氷解して、御本人の陳謝を受けたことがある。(上巻p217)
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※
日興上人は大聖人が亡くなった弘安五年から身延山に居られたと、数百年間、伝えられてきた内容は真実ではないと反故にしてしまった。
そして並み居る僧侶は日亨上人に異論を述べることなど出来るはずもなく黙したままであった。
先師の日霑上人の言葉と違うではないかと洗礼を与えたのは、地方の信徒からであった。
日亨上人は、大石寺の歴史を守ろうとした信徒たちと議論して、そして納得させたのである。
能化という高位の僧が信徒と議論を行ったのだ。「大いに逆撃を受けた」とある。
日亨上人は史論では閉口させたが、釈然としない感情が残り、「師敵対の悪僧」のように言われたとのことだ。
日亨上人のような方でも、悪僧と呼ばれ、そしてその誤解が氷解するまでお付き合いしている。
それにしても。
どうして歴代の法主は、同じ波木井氏のお手紙を見てきたのに、なぜに、こんな重大な誤りが分からなかったのか。
僧侶といっても普通の人と何も違わない、誤謬だらけだと、当時の重立つ信徒はそう身近に考えていたことを伺わせる。
大石寺の高僧の見解も、師敵対する、つまり師に反逆したと疑ってよく、それと論争してもよいと思っていたのだ。