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大聖人から日興上人への正式な相承の書は、二箇相承と呼ばれているが、現存はしていない。
日亨上人は二箇相承を記録した文献をまとめ、紛失の経緯等を16頁に亘って詳細に述べられている。
相承書のような大事であるのに、日亨上人は何ら雲に巻くような言辞はされていない。
信徒に示したのはそのままの事実であった。
真摯で客観的な視点であり、読むものには大石寺の主張がどのような位置づけになるかがよく理解できる。
・この相承書は最初から大石寺には無く、北山本門寺と西山本門寺との間の争奪で紛失したこと。
・今はあったと完全に証明できるほどの決定的な文献はない。
・現存する3つの写本があるが、このうち佐渡の写本は日興上人の直筆ではないことを確認した。
など、当時からこの書を読む者を引き込んだことは間違いないだろう。
ところで現存する写本の中で日辰上人(ママ)のものを取り上げて字配を説明している。
本文から
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紛失より二十二年前日辰上人原寸の通り自ら臨写せるが版行せられたるもの、いまはほとんど珍品たり。
もっていささか二箇相承を偲ぶに足る。(上巻p196)
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※
日興上人詳伝では、ここだけは日辰に上人を付けて呼ばれている。造仏思想であろうがその功績は別として讃えているのだ。
日亨上人に思想で人を決め付けて誤解するような侮った態度は見られない。
もちろん日精上人が批判されているのも、その所作の故でしかない。
またこの写本をもってしても「二箇相承を偲ぶに足る」と客観的な視点を失わない。
ここまで堀日亨上人が冷静であるのは当然のように思うかもしれないが、それだけに後の章が印象的になる。
いずれにしろ、このありのままの姿勢は学会の機関誌で発表されたのである。
他のどこでもない、学術専門誌でもなく、宗内の奥まった場所でもなく、大勢の人々が目にするその厳かな場所を選ばれたのだ。
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