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日精上人と聞くと、人は何を思い出すだろう。私は日精上人を思いを浮かべるとき、当時の僧侶社会の意識の低さを感じざるを得ない。虚言を積み重ねて一つの社会を形成している。人間性の本質を探ろうとすると、当時のような虚言で社会と接しようとする行動を悪と切り捨てることはできない。そのような社会であったのかもしれないと思う。でもだからと言って歴史的な嘘の部分が無くなるわけではない。結局、あたふたと過敏な対応に往生するのではなく、私たちはまずありのままに見ていけばよいものと思う。草創期に学会を建設してきた人々がこのような話を毎度聞かされても悠々と眼下に見下ろしてきたのに、当事者が知っていて堂々としているのに、傍観者が心配して過敏にびくびくしているのは、世の常ではあるが、滑稽と言うか、あまりにも臆病が過ぎるというものだろう。
日精上人の批判は続く。その第七回目
日興上人が大石寺の重宝(大聖人の御影と御下文等)を守護していくように遺言されたことについて。
本文から
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『正文書 日興上人御遺跡の事(富士宗学要集第八巻史料類聚①十八ページ)
日蓮聖人御影並びに御下し文園城寺申状。上野六人老僧の方巡に守護し 奉るべし、
但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此の条日興上の仰に依って支配し奉る事此の如し、
此の旨に背き異議を成し失たらん輩は永く大謗法たるべきなり、誠めの状件の如し。
正慶二年癸酉二月十三日 日善在り判 日仙在り判 日目在り判』
正本二通大石寺にあるが、この中の「巡」の字を、正本がいまの字画のとおりなるにもかかわらず、精師が「迄」と誤読(富士宗学要集第五巻史料類聚①一九0ページ)せられてより以来、今日までも誤りを伝えており、愚僧すら宗学要集に漫然誤りを伝えたのは汗顔である。(上巻p163)
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今日的な常識では、ここに大御本尊が無いのは何故だろうということと、またなぜ日目上人一人に任せないで6人で順番に大切にしていきなさいと言われたのかと疑問には浮かぶが、その説明はここにはないので、不思議な思いがするだけである。
本文のほうは、日精上人の誤読のそのせいで、その後のみんなが間違えてしまったのだと言われている。
要集のほうには日精上人の記述を、『精師此ヲ弁ヘスシテ漫過シタル故ニ後人皆此ノ誤ヲ伝ヘタリ』と評している。
もちろんそれに気づいた日亨上人は、宗学要集の方は訂正されているし、その誤ったことを公開している。
何十年も正文書を見続けて、誤りに気付いても半分だけ訂正して素知らぬ顔をしていた日精上人とはそこが違うのである。
日亨上人は「汗顔」と言われた。
「愚僧すら」の「すら」とは、婉曲的ではあるが、私は日精上人などとは違うという意味である。
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