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今回で日精批判の第六回目である。
まるで物語のように次第に酷さを増すこの日精上人の話を人はどう見るものか。
そしていよいよ今回は、相伝の理解まで、残念なくらいに貧弱であったことが露呈される。
大聖人は、弘安二年に大御本尊をあらわされ日興上人に付属された。そして日目上人へと。
本文
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『正文書 日興が跡条々の事
○、一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。
大石寺所蔵の日興上人御正筆の目師への御譲り状のなかの一文である(富士宗学要集第八巻史料類聚①十八ページ)。』(上巻p161)
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これは大石寺にある最重要とされる文献である。
これこそが、日興上人が大御本尊を付属された(唯一の)文証とされるからだ。
この相伝書の疑義についてはここでは触れないことにした。日亨上人のここの解説だけにこだわりたい。
法主であるなら基本的な相伝書の中身くらい覚えておいてしかるべきであると普通は思うことだろう。
だが悲しいかな。
ありえないことだが、ここでも日精上人は、これほど大事なものでさえ誤って記述する人なのだ。
というかこんな一行、二行くらいの相伝の文章を憶えてもいないものだろうか。
本文から
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『伝説史料 家中抄日目伝 日精(富士宗学要集第五巻宗史部①一八八ページ)
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す。』(上巻p161)
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※
日亨上人の解説はやや長文なので、以下、要点のみを挙げる。
日精上人の記述は大事な部分が違うのである。
日亨上人は、日精の記述は「弘安五年御下文」の文を欠いていることを指摘している。
御下文とは当時の天皇が、日目上人の活躍があって、日興上人に渡した将来の富士門への帰依の約束状であり、日興門下にとって重要であるばかりか、日目上人が法を付属された正統性について他山から異論も出せないほどの説得力のある証拠となる。
間違えているところはそこだけではなく、「充」の字も「宛」に変わっている。
自分のところに正文書があるにもかかわらず、こんな大事な文章を間違えるものか。
文献が見当たらないとか、伝説とか、もうそういうレベルではない。
自宗にある最重要の相伝書すら、きちんと後の世に伝えるつもりが無いのだ。
日精上人は、見ることもなく、他宗の誤った相伝書を見てそのまま書いたと思われる。
しかしさすがにおかしいことに気付いたのか、他宗の誤伝にはある「可奉懸」の余計な部分については、
そこだけ勝手に除いているのだ。おかしいと気付いたのなら何故きちんと見ようとしないのかが不思議である。
日亨上人は日精上人が「可奉懸」を除いて誤伝を減らしたことについて、『感謝せねばならぬ。』と、ほんの少し持ち上げている。
もとより部分的にあっていようが、全体を誤って伝えた日精上人に、日亨上人が感謝せねばならない理由はない。
それを 半分しか間違えていないことを「感謝せねばならない」と言われている。
最後には「残念千万ながら」とか、「強いてとがむべきではないかもしれぬ」とまで庇っておられる始末である。
ここまで侮られながらも、かばわれた日精上人とはいったい何なのか。