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引き続き、四十九院法難についての日精上人の「家中抄」の執筆態度を糾弾している。
日精上人の言うことでは、四十九院の法難も数年後には日興上人が勝って、実相寺も帰依したことになっている。
もちろんその証拠となる文献もちゃんとあるのだよと繰り返して言っている。
富士宗学要集には、日亨上人の批判がびっしり連なっていることはすでに述べた。
ここでは、富士日興上人詳伝の引用文にあるその結論だけを述べておくことにする。
本文から
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この終局がいかなりしか、その文献がいっこうに見つからぬのは、岩本と熱原とともに同然である。
しかるを家中抄には、弘安八年に解決して法華の勝利となり、日興上人の御手に帰したように書いてあるが、依典はさらに示していない。まったく精師の想像であろうと思う。(上巻p119)
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※
日亨上人が再三指摘するように日精上人は、創作話を史実に書き加える癖があった。
聞き及んだ伝説を書いたということではもちろんない。なぜなら日精上人以前には見出せない話だからだ。
四十九院法難でも結論までが勝手に創作されていることを、『まったく精師の想像であろう』
と、日亨上人は軽くあしらっている。
しかし日亨上人の扱いが軽いからといって、日精上人のウソは決して軽いものではない。
なにしろ日精上人はこの記述の最後に、『其証拠今重須に在るなり』と記しているのだ。
証拠もありますよ、と言っているのだ。もはや伝説でも想像でもない。虚言である。
もちろん日亨上人はその欄外に加えて、例によって『今此文書ヲ見ず』と指摘されている。
歴史を記述する重責にありながら『まったく精師の想像であろう』と評されるのはどういうことか。
つまり、日精上人は自分の想像を史実となし、根拠があると偽ることまで平気な虚言癖のある人物だったのである。
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