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弘安元年、日興上人が富士地方の折伏を展開されていた頃の法難に、四十九院の法難がある。
この時に日興上人が、四十九院の悪僧、厳誉(ごんよ)を鎌倉幕府に訴えた訴状に「四十九院申状」がある。
これについて記した日精上人の家中抄が、またもや批判されている。
日精批判の第5回目である。
本文から
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ただし、やや古本と目すべき精師 大石寺の家中抄には、実相寺の申し状と名づけ、また宛所を「平左衛門入道奉行所」と漫称し、近代博学の日騰学頭も、その祖書拾遺になんらの考察も加えず、これを踏襲したるが、左衛門尉頼綱は当時これらの問注を専断したることはありとも、公に奉行所を開きたることあるべきの理なし。
全書本に、この宛所を削りたるは当然のことなりというべし。(上巻p115)
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※
勝手に宛先を「平左衛門入道奉行所」にしたことは、「漫称」だと侮蔑の表現を用いられている。
だいたい平左衛門が、「平左衛門入道奉行所」などというものを開くはずがないではないかと。
確かに笑ってしまうが。
こんな文章は、削り取られても当然なんだとまで言われている。
驚くべきことだが確かに日精上人の家中抄には、堂々と、「平左衛門入道奉行所」と宛先が加えられている。
この感覚は何なのだろう。
暇な人は、宗学要集5巻に載っているので見てほしい。 一見の価値ありである。
それだけではない。
富士宗学要集の家中抄のこのあたりを見ると、欄外に日亨上人の批判がびっしり連なっている。
私も一つ一つは挙げれない。見渡すと数十箇所にものぼる。
「日精の誤りなり」等と軒並みにである。あまりに多すぎるので本稿では省略するしかない。
まじめな人間がモノを間違えたのだったら、「漫称」のような表現はされなかっただろう。
というより間違いではなく、一つ一つが故意ではないかと思われるような誤りだから仕方ない。
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