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建治元年から弘安六年までの九年間は、日興上人によって多くの門下が加わった時期であった。
弟子分本尊目録によると、門下に66幅の御本尊が与えられたが、現存しているものは16幅に過ぎない。
日亨上人は、散失してしまった原因は不明とされているが、その推測の文章の記述の中から。
本文から
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『弟子分帳に載せられたるは、大聖人六十五幅、日興上人一幅の六十六幅である。
御本尊護持の別して謹厳なる日興上人御門末も、戦国時代の経営苦等のために散逸したるか、
いまはようやく自門(富士)に九幅のみ現存して、…』(上巻p110)
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と、経営苦によって手放したのかもしれないとの推測もされている。
信仰上の問題で人に譲ることを、「経営苦」とは言わない。
これが日亨上人の率直なところの見解なのである。
大聖人の真筆の御本尊を経済的な理由で他宗に譲った、もっと率直に言えば、売りに出したのではないかと。
ここでは日亨上人の思いは、「自門(富士)」と称するように大石寺に限ぎってはいないが、これについても後ほどまた触れる。
大石寺内にしたって係争で流失したもの、相伝すべき本尊であるのに軽々に他師に譲ったり、大石寺そのものが売り飛ばされた歴史有りで、褒められたものではない。いずれにしろ「余の五十幅の行くえ不明原因は、いまでは想像もつかぬ」とされている。
毎回、このような話を日亨上人から教えられていた当時の全学会員は、その内容をひどいと思ったのだろうか。
「畜生ぉぉ。金で売っただとー。法主なんてそんなもんか。商売か。日精、金返せー。」とか言う話はない。
「昔の人の僧侶社会では、そういう感覚だったんだろうな。」というような、実にあっけらかんとしたものだったろう。
なぜなら彼らの目の前には、学会の世界が広がっていたからだ。
現実に人々を救うことに尽力する姿。そこにしか仏法の現実は無いことが解っている。
だから歴史の事実をそのまま受け取れたし、自分たちの使命を理解できたから躊躇もなかったのだ。
その上で法主に対して礼節をもって持って接してきたのだから、その厚情をまるで勘違いしてはならない。
戸田会長と共に菩薩道に進む人には当たり前のことであったが、それに乗っかっただけの人には解らなかった。
彼らは彼らで、伝説を神秘化してありがたがってしまうことに根拠を求めた。
彼らは今も歴史のめっきが剥がれるたびに目を塞がなければならないという悲惨さが待っているような。
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