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これまで語られてきた一宗の歴史の重要部分が、実は推測で成り立っているだけと日亨上人は普通に開示された。
本文から
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『伊豆の巻(註:伊豆に流罪された時代)は三年にまたがるが、直接の史料はない。』(上巻p37)
『鎌倉の巻(註:その後の文永七年までの)七か年の間、幾年を相模に、幾年を駿河にすごされしや明確に知るよしもない』(上巻p39)
『この間の御事跡を伝説を主として作った文献によって眺めてみようが、一として熱心にすべての古文書、古記録、古建造物等の信憑すべきものを基盤としての著書はない。』(上巻p42)
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※
意外かもしれないが、日興上人は大聖人に師事した直後から佐渡まで、どのように過ごされたのかはよくわかっていない。
ただ、日興上人の、本尊、安国論の写本などから、大聖人の近くに少なからず在られたことがわかるだけである。
そう、ここでも歴史的に決定的な文献は無いことを述べられている。
それでも日亨上人は結論としては、「弘長元年・大聖人伊東配流の時は、みずから往いて薪水の労をとり、難苦を共にし、間をえて付近に行化せらる。」(本文p37)ということにされた。
では日亨上人は何を根拠にそう言われたのだろうか。
「直接の史料はない」とされながらも、大乗寺(熱海市)に伝わる伝説と、同寺に現存する墓碑(日興上人に教化された行満のもので弘長三年の記載があること)と、それから日精上人の家中抄にやや詳細な記述があることからの推測である。
家中抄は伝承として重きを置いていないことは文面から伝わるが、日亨上人としてはあえて否定せずにそういう御判断であった。
ここで重要なのは、日亨上人は日精上人の伝承である家中抄を精査して傍証として支持していることだ。
あえて一部で言われる、“造仏家であるから毛嫌いしていた”かのような偏頗な姿勢など微塵も見られはしない。
むしろ日亨上人ほど家中抄をはじめ日精上人の著作を丁寧に親切に精査された方はいないだろう。
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