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それこそ、とめいと。

ブログはメモ帳

「マスコミの偏向報道」と叫ぶとき、自己の偏向性に対して盲目になっている

考え方

 「マスコミの偏向報道」という言葉。時々、FacebookTwitterでシェアされる投稿等で流れてきます。

 私は、この類の表現に出遭う度に、反射的に眉をひそめてしまいます。その言葉から、発言者が「自分は中立的で客観的な思考をしている」といった「自己の思考における無謬性」を盲信している可能性を感じられるからです。そこに自己反省のプロセスの欠如が見えてきて、どうしても苦手意識を持ってしまいます。

 ほぼ結論は書いたので、以下は、同義のことを回りくどく長々と、しかも半分おちゃらけて反復するだけです。なので、お暇な方だけどうぞ。

 光の三原色ってあるじゃないですか。赤緑青ってやつ。あれ、デジカメだったり、PCのディスプレイだったり、日常のあらゆる "人工的" に光を入出力する機器に使用されていますよね。この三原色、"人工的" なところだけではなく、極めて "自然"、そして極めて身近なところに存在しています。

 そう、それは、私たち人間の "眼"。

 人間の眼(正確に言えばたぶん網膜)には、光の三原色、赤緑青それぞれに対応した色細胞がぎっしり詰まっています。理系の素養が皆無に近い私は、このことを知った時に、「やべーよ。カメラとかディスプレイって光の三原色に対応して設計されているじゃん?それと同じで人間の眼も光の三原色に対応しているんだぜ。すげー奇跡だろ、自然って凄いな、おい?」とドヤ顔で周りの人に言いふらそうと思いました。しかし、これは完全に私の勇み足の勘違いで、実際に言いふらしたら、黒歴史にしかなりません。
 幸いにも世の中には、私なんかより遥かに頭の良い人が、このことについて、以下のとおりに解説してくれていたので、痛い過去を残さずに済みました。

 神経科学の専門家である池谷裕二氏は、『進化しすぎた脳』という本の中で、

「光の三原色」が元々存在していてそれに人間の眼が対応したの"ではなく"、人間の眼にたまたま三色に対応する細胞が存在していたから「光の三原色」という概念が生まれたのだ、

という主旨のことを述べています。つまり、「光の三原色」が先に存在していたのではなく、3種の色細胞があったから「光の三原色」が生まれたということですね。

 もし、人間の眼がモンシロチョウのように、「紫外線や紫、青、緑、赤、暗赤色の光にそれぞれ反応する6種類の色受容細胞」(http://www.shikoku-np.co.jp/national/science_environmental/article.aspx?id=20040702000254 より)を持っていれば、「光の六原色」という概念が生まれていたことでしょう。そして、その人間が作るカメラもディスプレイも「光の六原色」によって設計されていたと推測できます。

 

 ここで言いたいのは、人間は世界を、ほぼ "文字通り"「色眼鏡」でしか解釈できないということです。私たちは、世界のありのままの色は分からないけれど、身体的制限からとりあえず「光の三原色」という色眼鏡で解釈するしかありません。
 もちろん、これは "眼" だけの話ではなく、"思考" においてもそうでしょう。思考は、"脳" という "身体" に依存するし、それだけはなく育った "環境(国、言語、宗教等々)" によっても大きく変化します。

 

 どう足掻いても、人間は自己の偏りから究極的には逃れらません。

 

 もしそれでも、偏りから少しでも逃れて、なるべく世界をありのままで認識したいのならば、「私は自己の偏りから究極的には逃れらない」という自己の"限界"に対する自覚が絶対的に必要でしょう。限界を認識することがなければ、限界を克服しようとする努力は生まれてこないからです。言ってみれば当たり前のことですが、私はとても大切なことだと思っているので、特に強調したいところです。

 

 やっと冒頭の話に戻ります。「マスコミの偏向報道」という言葉には、往々にして「マスコミの偏向を見極めている、つまり中立的に客観的に判断することが可能な主体が存在している」という前提が隠れています。(当然、ここでの "主体" はその発言者です。) このような自己の限界に対しての無自覚さは、その限界、つまり人間の偏向性を、放置することになります。「マスコミの偏向報道」と言っている主体が、むしろ自己の偏向性を置き去りにしてしまう可能性がある。これがまさしく、私が「マスコミの偏向報道」という言葉が苦手な理由です。

 確かに、「マスコミの偏向報道」は実際に存在するでしょうが、まず先に「自己の偏向性」という限界に目を向けるという努力をしてから、その言葉を使ってほしい、もしくは使うのを辞めてほしいと思いますし、私自身もその努力をしていきたいと思います。
 また、それに類いする言葉、例えば「報道されない真実」「○○に汚染された業界」「日本人が知らない○○」といった "ちょっといかがわしい言葉" に対しても、常に自己反省のプロセスを通してなるべく自覚的であるように心がけたいです。

 以上、眼球という色眼鏡の上にさらにド近眼なメガネを掛けて、世界を歪めまくって認識しながら、拙い文章を書かかせて頂きました。最後に、せっかく長文を書いたんで、丸山真男の言葉を引用してポエミーに締めたいと思います。
 
 

自分が「促われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめているものは、なんとかして、ヨリ自由に物事を認識判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。(『日本の思想』より)