NHKスペシャル 新・映像の世紀「第3集 時代は独裁者を求めた」 2016.01.08


遊びに来た子どもをかわいがる男。
そこに独裁者の表情はない。
カメラを向けているのは彼の愛人である。
ヒトラーのポーズをふざけてまねする女性。
23歳年下の…このフィルムはヒトラーと共に自殺したエヴァの遺品の中から見つかった。
ヒトラーはミュンヘン近郊にあるこの別荘にエヴァを住まわせた。
戦争が始まってもここには平和な時間が流れていた。
そのころはるか東極寒の地ソ連では数百万のドイツ兵が地獄の中にいた。
いわれなき理由で多くの市民も虐殺された。
ヒトラーの側近は言った。
「総統にプライベートはない。
昼夜を問わずドイツ国民に身をささげている」。
そのころ数百万のユダヤ人がヨーロッパ各地の強制収容所に送られていた。
(歓声)なぜ人々は独裁者を迎え入れたのか。
なぜ世界は独裁者を止められなかったのか。
アメリカの自動車王は反ユダヤ主義を唱えヒトラーに強い影響を与えた。
フランスの生んだファッション界の女王はドイツ軍の協力者となって諜報活動を行った。
アメリカの空の英雄はヒトラーと手を組む事が世界を平和に導くと信じた。
あの時代世界の人々がヒトラーを支持した。
しかし世界がその狂気に気付いた時モンスターはもう止める事ができないほどに膨れ上がっていた。
百年の時を映像で追体験する「新・映像の世紀」。
私たちはなぜ今このような世界に生きているのか。
その答えを映像の中に探していく。
第3回は破壊と殺りくの第二次世界大戦。
独裁者に未来を託し世界を地獄に追い込んでしまった人々の物語である。
第二次世界大戦はこれまでの戦争とは全く違うものだった。
5,000万とも6,000万ともいわれる犠牲者の数。
参戦国は50か国以上。
戦火は世界に広がった。
ジェット戦闘機。
弾道ミサイル。
原子爆弾。
新型殺りく兵器が登場した。
敵対する国家はそれぞれのイデオロギーを掲げた。
巻き起こった憎悪と差別それが大量虐殺を引き起こした。
戦死者の大半が軍人だったそれまでの戦争とは違い犠牲者の7割が一般市民であった。
そして世界を覆った狂気の中心にいたのがアドルフ・ヒトラーだった。
ドイツ・ミュンヘン近郊にあるランツベルク刑務所。
1923年ヒトラーはここから独裁者への道を踏み出そうとしていた。
小さな極右政党ナチスを率いていたヒトラーはクーデターに失敗し投獄されていた。
34歳だった。
第一次世界大戦の敗戦国となったドイツは多額の賠償金が払えず経済はどん底に落ちていた。
国民は天文学的な物価上昇に苦しんでいた。
獄中のヒトラーを支援した一族がいる。
ドイツの名門音楽家ワーグナー一族である。
後にワーグナー家の当主となるヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーの演説を聞いてその虜になった。
アメリカにコンサートツアーに行ったヴィニフレートはある人物にヒトラーへの資金援助を頼んだ。
自動車王ヘンリー・フォードである。
ひそかにナチスへ活動資金を提供していたといわれる。
フォードは反ユダヤ主義者であった。
当時アメリカでは反ユダヤ主義が広がっていた。
ヨーロッパから流れ込む大量のユダヤ人移民に多くのアメリカ人が仕事を奪われたと感じていた。
フォードが経営する新聞は反ユダヤ主義を掲げた。
世界の金融界を牛耳り共産主義をはびこらせているのはユダヤ人だと訴えた。
偉大な自動車王には大きな影響力があった。
フォードの名で出された本はベストセラーとなり世界16か国語に翻訳された。
そして獄中で生まれたのが「我が闘争」。
ヒトラーはこの中で2つの敵を定めた。
ユダヤ人と共産主義である。
1929年10月アメリカ・ウォール街で株価が大暴落した。
世界恐慌の始まりである。
最も深刻なダメージを受けたのが敗戦から立ち上がりかけていたドイツだった。
失業率は30%を超えた。
刑期を終えたヒトラーは恐慌をまたとないチャンスと捉え大規模な選挙活動を展開した。
議論ばかりで何も決められない民主主義に代わって強力な独裁政治ファシズムこそがドイツを救うと訴えた。
ナチスは選挙で急速に勢力を伸ばしていった。
このころイタリアではファシスト政権が誕生していた。
ファシスト党党首ムッソリーニは統制経済と植民地獲得で世界恐慌脱出を目指した。
その一方世界恐慌とは無縁だった国がある。
革命を成し遂げ共産党が支配するソビエト連邦である。
ソ連は計画経済に基づく重工業化と集団農業化を推し進め順調な経済成長を誇っていた。
世界中で資本主義への幻滅が広がっていった。
ドイツでもモスクワの支援を受けた共産党がナチスと並んで急速に勢力を伸ばした。
街ではナチスと共産党が連日のように暴動を起こしていた。
お互いが激しい憎悪で衝突し流血事件が繰り返された。
1933年1月ヒトラー政権がついに誕生した。
ほかの保守政党との連立政権だった。
政治家たちは内心ではヒトラーを成り上がり者と見下していた。
人気を利用して保守政権を維持しようともくろんでいた。
政権発足からひとつき後事件が起きる。
国会議事堂が炎上したのだ。
ヒトラーは共産主義者による陰謀と決めつけ議会で勢力を伸ばしていた共産党の党員を次々と逮捕勾留した。
その後間もなくヒトラーはある法案を国会に提出する。
内閣があらゆる法律を国会の採決なしに制定できる法案である。
それはすなわち議会制民主主義の死を意味した。
(歓声)ナチスの議席は過半数にも達しておらず本来は通るはずのない法案だった。
ヒトラーは暴力をちらつかせた。
議会をナチスの親衛隊と突撃隊が取り囲んだ。
野党には政治取り引きを持ち掛け言葉巧みにナチスの陣営に取り込んだ。
結局社会民主党を除く全ての野党が賛成。
ヒトラーは民主主義のルールを犯す事なく独裁政権を誕生させた。
そして4か月後ナチス以外の政党は禁止された。
全権を委任された内閣の決定は全て合法とされた。
強い指導者の誕生を知識人も歓迎した。
20世紀最大の哲学者ともいわれるハイデガーはこの年ナチスに入党。
フライブルク大学学長として学生たちに向けてヒトラーへの最大級の賛辞を贈った。
(ハイデガー)ハイルヒトラー。
ドイツ全土に張り巡らされたアウトバーン。
世界で初めて造られた本格的な高速道路ネットワークである。
これはヒトラーが失業者対策を目的に建設したものだった。
1933年のアウトバーン起工式の映像。
政権発足後すぐにヒトラーは全長7,000キロの建設を発表した。
建設工事にはあえて重機の使用を抑えた。
一人でも多く労働者の雇用を確保するためだった。
ヒトラーはドイツ国民に豊かさへの夢も与えた。
首相就任直後金持ちの象徴だった自動車を庶民でも持てるようにする国民車構想を掲げた。
これはヒトラー自らペンを執って描いたといわれる国民車のデザイン画。
設計を任されたのはフェルディナント・ポルシェ。
後にスポーツカーメーカーとしてその名を残す天才エンジニアである。
国営会社が設立されフォード社と肩を並べる世界最大級の自動車工場が建設された。
その会社はフォルクスワーゲンと名付けられた。
ヒトラーは国民生活の向上も図った。
週休2日週40時間労働を全国の企業に求め今で言うワークシェアリングを始めようとした。
大企業には社員食堂の設置を推進した。
さまざまな福利厚生施設も設けられた。
統計によるとドイツの工業総生産は政権発足から5年で倍に税収は3倍に伸びた。
公共投資で景気回復を図るという先進的な経済政策は大きな効果を上げドイツはいち早く恐慌から抜け出していく。
1934年に行われた国民投票ではヒトラーは89.9%の支持を得た。
1935年9月国民の支持を盤石なものとしたヒトラーはナチス党大会で一つの法律を発表する。
ユダヤ人の公民権を剥奪しドイツ人との結婚を禁止するニュルンベルク法である。
ヒトラーは誇り高いドイツを堕落させた原因はユダヤ人であると考えていた。
この法律によってユダヤ人は選挙権を奪われた。
それ以前からユダヤ人は公職から追放されユダヤ人が経営する商店でのドイツ人の買い物は禁止されていた。
最初は眉をひそめ疑問を感じていた市民も奇跡的な経済成長を前にその気持ちは薄れ迫害に加わる者も現れた。
数少ない反ナチ運動家の一人だった…戦後彼の言葉から次のような詩が生まれた。
そしてヒトラーは世界にも牙をむき始めた。
これはドイツ最大の軍需企業クルップ社を訪れた時の映像である。
数万人の社員が熱狂的に迎えた。
ヒトラーは第一次世界大戦に敗れたドイツに課された軍隊の制限を一方的に破棄再軍備を始めた。
再軍備宣言後国防費は2倍以上に膨れ上がった。
クルップはヒトラーに最新の兵器を提供し続けた。
これは会長の名を取ってグスタフと呼ばれた全長47メートル史上最大の列車砲。
地下30メートルの要塞も撃破する力があった。
再軍備の目的は第一次世界大戦で奪われた領土を取り戻し更に東ヨーロッパに領土を拡大する事だった。
(歓声)奇跡の復興を成し遂げたヒトラーに注目するアメリカ人がいた。
世界初の大西洋単独無着陸飛行を成功させた…リンドバーグは再軍備によって誕生したドイツ空軍を何度も視察。
その工業力に目をみはった。
ヒトラーの再軍備には多くのアメリカ企業も協力していた。
ドイツ駐在のアメリカ大使は本国のルーズベルト大統領にアメリカ企業の協力が行き過ぎていると懸念を伝えている。
日本でも軍国主義が社会を覆っていた。
1937年中国との戦争に突入。
これは南京陥落を祝う映像である。
デパートは南京陥落セールに沸いた。
世界が日本の侵略行為と非難する中ドイツは日本を支持していく。
この前の年ドイツはソ連を仮想敵国と定めた軍事協定を日本と結んでいた。
ここにイタリアが加わり第二次世界大戦を共に戦う軍事同盟へと発展していく。
日本とドイツの交流は文化面にも及んだ。
これは日独合作の国策映画「新しき土」。
女優原節子の初主演映画である。
当時16歳だった。
ヒトラーをはじめナチス幹部がドイツでの封切りに出席した。
1938年日本に続きドイツも領土拡大の一歩を踏み出した。
オーストリア併合である。
ドイツと同じ民族がほとんどを占めるオーストリア国民は大ドイツ帝国の一部となる事を熱狂的に歓迎した。
ヒトラーは更なる領土拡大に突き進む。
チェコスロバキアに対しドイツ人が多く住むズデーテン地方の割譲を要求。
ヨーロッパに緊張が走る。
ヒトラーとの交渉のためイギリスフランスイタリアの首脳がドイツ・ミュンヘンを訪れた。
ヒトラーは領土の要求はこれを最後にすると約束した。
各国首脳はヒトラーの要求をのむ事を決めた。
当時首脳たちが恐れていたのはファシズムよりも共産主義の拡大だった。
ヒトラーを共産主義の防波堤に利用できるとイギリスの首相チェンバレンは考えていた。
ところがこのもくろみはあっけなく崩れ去る。
ズデーテン地方を併合した半年後ヒトラーはミュンヘン会談での約束を破りチェコスロバキア全土に兵を進めた。
チェンバレンは激怒した。
更に衝撃的な知らせが世界を駆け巡る。
独ソ不可侵条約である。
ヒトラーと共産主義不倶戴天の敵同士が手を結んだのだった。
オーストリアから亡命したユダヤ人の経営学者ピーター・ドラッカーは4か月前にこう予言していた。
条約の締結から9日後。
第二次世界大戦が始まった。
スイスレマン湖のそばに建つ白亜の豪邸。
ヒトラーと4日違いで生まれたハリウッドの喜劇王チャップリンの邸宅である。
第二次世界大戦勃発と同時にチャップリンは一本の映画の撮影を開始した。
ヒトラーをモデルにした…ラストシーンの演説は映画史上名高い。
そのメイキング映像がチャップリン邸で見つかった。
そこには実際の映画とは違う幻のラストシーンが記録されていた。
兵士たちが武器を捨てて踊る大団円である。
チャップリンは当初この映画をハッピーエンドで終わらせるつもりだった。
しかしナチスの脅威が膨れ上がる中ハッピーエンドはありえないと考えを変える。
そして撮影されたのがこの演説だった。
1939年9月ドイツ軍はポーランドに侵攻。
更にデンマークノルウェーオランダベルギーそしてフランスを一気呵成に占領した。
機動力を生かした電撃戦によって1年足らずでヨーロッパの主要地域を支配下に置いた。
これはヒトラーの専属パイロットハンス・バウアのプライベート映像である。
フランス降伏の知らせを受けヒトラーは専用機に乗って自らパリに乗り込んだ。
フランス降伏を見届けたヒトラーはベルリンへ凱旋した。
ナポレオンに匹敵するほどのヨーロッパ制覇。
ドイツ国民は独裁者を熱狂的に迎えた。
歴史的な勝利を祝う祭典は次の日も続いた。
これは当時のベルリンを撮影した映像である。
ヨーロッパの覇者となったドイツの生活は一変した。
国民はもう戦争は終わったという安堵感に包まれていた。
一方ドイツ占領下に置かれたパリの様子も撮影されている。
大通りを我が物顔で滑走路代わりに使うドイツ軍の軍用機。
配給の長い列も見える。
この建物はドイツ軍を相手にした…多くの女性たちが生きるためにドイツ人に近づいた。
占領下のフランスでドイツ人とフランス人女性の間に生まれた子どもは10万人に上るといわれる。
フランス人のファッションデザイナーココ・シャネルはドイツ軍諜報機関の高官の愛人となった。
そして自らもドイツ軍の協力者となり諜報活動に携わった。
暗号名はウェストミンスター。
シャネルが生み出した香水は当時爆発的に売れていたが利益の大半はユダヤ人の共同経営者の手に渡っていた。
シャネルは経営権を取り戻してほしいとナチス・ドイツに協力するフランス人の役人に訴えた。
そのころナチスによるユダヤ人迫害は新しい段階に入っていた。
ヒトラーはドイツ国内だけでなく占領した地域に住むユダヤ人から富も生活も奪った。
これはポーランド・ワルシャワのユダヤ人強制居住区ゲットーの映像。
ドイツ軍が撮影した。
僅か3平方キロメートルに40万人を超えるユダヤ人が閉じ込められた。
ユダヤ人を乗せた貨物列車の行き先は強制収容所だった。
増え続けるユダヤ人を効率的に管理し過酷な労働を強いる収容所でやがて大量虐殺が日常化する事になる。
第二次世界大戦が始まってからもアメリカは中立を保っていた。
国民の8割以上がドイツとの戦争に反対していた。
ナチス支持者も大きな勢力となっていた。
これはフォード社の元社員が設立した親ナチ団体の集会である。
反ユダヤ主義とアメリカの中立を訴えていた。
集会にユダヤ人が乱入。
激しくもみ合う様子が捉えられている。
ドイツ支持の先頭に立ったのがヒトラーを高く評価する空の英雄チャールズ・リンドバーグであった。
次期大統領候補とまで言われたリンドバーグの発言はアメリカ世論に大きな影響を与えた。
アメリカ経済界にとってもドイツは世界有数の投資先だった。
アメリカとドイツが戦争になれば膨大な投資が回収できなくなる。
しかもヨーロッパの戦局はドイツに有利だった。
多くの企業がドイツとの取り引きを続けた。
ドイツにあるフォードの子会社はドイツ軍の軍用トラックの3/3を製造した。
ヘンリー・フォードは75歳の誕生日にナチス・ドイツから勲章まで授与されていた。
そしてナチスのユダヤ人迫害に使われたのはアメリカ企業IBMが開発したパンチカードシステムだった。
これが大量のユダヤ人の効率的な管理移送を可能にした。
IBMの子会社によってナチスに数千台のマシンが販売され毎年15億枚のカードが納入されたという。
1941年6月戦争は新たな局面に入る。
ヒトラーは独ソ不可侵条約を破り300万のドイツ軍をソ連に侵攻させたのだ。
戦争の準備をしていなかったソ連軍は総崩れとなった。
スターリンは徹底抗戦を命じる。
ヒトラーは本来の敵と狙い定めた共産主義についに牙をむいた。
ヒトラーのソ連への攻撃は苛烈を極めた。
革命の英雄レーニンの名を冠する町レニングラード。
ここで悲劇が起こった。
町はドイツ軍によって900日間にわたり封鎖された。
食料と燃料が尽きた町で激しい飢えと寒さが人々に襲いかかった。
犠牲者は100万人以上。
その8割が餓死者であったといわれる。
封鎖が始まったこの町で作曲を続ける一人の音楽家がいた。
戦火の中で書き続けたのは「ファシズムとの戦い」をテーマにした交響曲だった。
この曲は封鎖に耐える市民にささげられ「レニングラード交響曲」と呼ばれるようになる。
初演はラジオで全国に放送されその後多くの音楽家によってソ連各地で演奏された。
しかしショスタコーヴィチはこの曲にもう一つの意味をひそかに込めていた。
それは自らの国ソ連の指導者に向けたものだった。
ソ連軍が撮影した敵前逃亡兵の野営裁判の映像である。
(銃声)戦場から逃げ出す兵士は味方から銃撃され敵に投降すればふるさとの家族が逮捕された。
ソビエトもまた恐怖が支配する国家であった。
1941年12月日本軍がハワイの真珠湾を奇襲した。
アメリカ太平洋艦隊は戦艦4隻が撃沈される大打撃を受けた。
アメリカの反戦ムードは一変した。
若者は我先にと軍に志願した。
ドイツとの戦いに反対していた人々も日本との戦争には進んで協力した。
フォードは世界最大の生産ラインを持つ軍需工場を作り8,600機の爆撃機を製造した。
更にドイツ支持のリーダー的な存在だったリンドバーグを爆撃機開発の顧問に迎えた。
日米の戦いが始まるとドイツも直ちにアメリカに宣戦布告した。
ヨーロッパとアジアでの戦いが結び付き世界全面戦争に突入した。
アメリカ社会にあったナチス支持の気運は一気に消し飛んだ。
女性たちも軍需工場で働く事を自ら志願した。
ディズニー社が当時プロパガンダ映画を作っている。
ナチランドという町に暮らすドナルドダックが48時間シフトで砲弾を作らされる。
独裁者をたたえる放送を聞かされながら作業を続けるうちに精神に異常を来してしまうという物語である。
日米開戦の頃ソ連軍はドイツ軍に対し大反撃を開始した。
それまで戦いを有利に進めていたドイツ軍は厳しい冬の寒さに阻まれシベリアから到着したソ連の精鋭部隊に敗退を重ねていく。
1942年4月ヒトラーの誕生日を祝う演奏会がベルリンで開かれた。
巨匠フルトヴェングラーがベートーベンの「第9」を指揮する壮麗な式典。
だが当のヒトラーは姿を現さなかった。
終楽章の「歓喜の歌」。
合唱団は「すべての人々は兄弟となる」と歌い上げた。
このころアウシュビッツ強制収容所では毒ガスによる大量虐殺が本格化した。
この収容所でも「歓喜の歌」が歌われた。
収容者たちは合唱団を作り生きるための支えを見いだそうとしていた。
アメリカは巨大な破壊力を持つ新兵器の開発に乗り出した。
テネシー州の原野に突如築かれた巨大な町。
最盛期には7万5,000の人々が何を作っているのかも知らされずに働いた。
製造していたのは原子爆弾だった。
マンハッタン計画と名付けられたこのプロジェクトにはナチスの迫害を逃れたユダヤ人科学者も加わっていた。
一方ヒトラーも新型兵器の開発に戦局を打開する望みを託した。
弾道ミサイルV2ロケットの実験映像である。
ロケットで加速し成層圏にまで一気に上昇。
数百キロ離れた標的に向かう革命的な兵器だった。
遠くロンドンやパリに向けて発射されたが命中精度が低く効果は限定的だった。
太平洋の島々ではドイツの同盟国日本の兵士たちが圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に追い詰められていた。
ファシズム陣営は瓦解しつつあった。
1943年9月イタリアが降伏。
ムッソリーニは処刑されその遺体はミラノの広場につるされた。
1944年6月アメリカを中心とした連合軍がフランス・ノルマンディーに上陸した。
15万を超える兵士が投入された史上最大の上陸作戦だった。
この戦いに敗れたドイツは西からアメリカとイギリス東からソ連の猛攻撃を受ける事になる。
(爆発音)その翌月ドイツで事件が起こる。
ヒトラー暗殺をねらい総統大本営が爆破されたのである。
ナチス幹部が死傷する中ヒトラーは難を逃れた。
首謀者はドイツ軍の将校たちであった。
暗殺計画に関わった人物を裁く貴重な映像が残されている。
この人物は直ちに絞首刑になった。
容疑者だけでなくその家族や親類まで600人以上が逮捕され処刑が行われた。
1944年8月ついにドイツ軍が撤退しパリは解放された。
エッフェル塔に虹が架かった。
4年間に及ぶヒトラーの支配が終わった。
しかし新たな憎しみが街を覆う。
ナチス協力者に対するリンチである。
それはドイツ兵と親しくしていた女性にも及んだ。
ソ連でもナチス協力者が処刑された。
これはソ連南部の町がドイツ軍の占領から解放された直後の映像である。
処刑された人の多くはスターリン体制に抵抗するためナチスに協力した人たちだった。
ドイツ最後の牙城ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まった。
白旗を揚げた市民はナチスに裏切り者と見なされ白旗を揚げなければソ連兵に殺された。
半月に及ぶ攻防戦で15万人以上が犠牲となった。
ヒトラーは総統官邸の地下壕に籠もって指揮を執った。
その様子を秘書が見ていた。
陥落寸前のベルリンに一人の女性がやって来た。
愛人エヴァ・ブラウンである。
4月28日ヒトラーは総統官邸の地下壕でエヴァと結婚式を挙げた。
その2日後2人は命を絶った。
ヒトラーが死の直前秘書に残した言葉がある。
死せるヒトラーは戦後の世界に新たな戦争の種子を植え付けていた。
これはアメリカ軍がドイツや日本から押収した兵器を展示する映像である。
兵器だけではない。
アメリカは1,000人を超えるドイツの科学者を連れ帰った。
アメリカが喉から手が出るほど欲しかったのはヒトラーが最後の望みを懸けたV2ロケットの技術だった。
この技術からアメリカは大陸間弾道ミサイルを開発した。
V2ロケットの技術を狙ったのはソ連も同じだった。
ソ連は6,000人以上のドイツ人を雇った。
核をこのミサイルに搭載し敵を恐怖に陥れる。
両国は同じ事を考えた。
アメリカとソ連はヒトラーの遺産を利用しながら冷戦を繰り広げる事になる。
独裁者の狂気を押しとどめられなかった世界。
一本のフィルムが残されている。
ドイツ中部のブーヘンヴァルト強制収容所を連合軍が解放した時の映像である。
ユダヤ人や政治犯など5万人以上がここで犠牲となった。
連合軍はこの場所をドイツ人にも見せなければならないと考えた。
ドイツ人が見学させられる映像も残っている。
一人の女性カメラマンがその時の様子をこう記している。
「いいやあなたたちは知っていた」。
2016/01/08(金) 01:30〜02:45
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 新・映像の世紀「第3集 時代は独裁者を求めた」[字][再]

ミュンヘン近郊の山荘で、くつろぐヒトラー。傍らには、23歳年下の愛人エヴァ・ブラウン。物語はヒトラーと心中したエヴァの遺品のプライベート映像から始まる。

詳細情報
番組内容
5000万を超える人々が犠牲となった第二次世界大戦の惨劇は、一人の独裁者の狂気だけが生み出したものではない。大恐慌で資本主義に幻滅した人々はファシズムを支持し、世界の企業がドイツを支援した。アメリカのフォード社は、ドイツ軍のトラックを生産。強制収容所の大量の囚人管理を可能にしたのは、アメリカ企業の開発したパンチカードマシンだった。独裁者に未来を託し、世界を地獄に追い込んでしまった人々の物語。
出演者
【語り】山田孝之,伊東敏恵

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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