ファミリーヒストリー「坂口憲二〜父の覚悟 見つかった祖父の遺書〜」 2016.01.09


今から33年前に撮影された1枚の家族写真。
中央に座るのは当時人気プロレスラーだった坂口征二さん。
そんな父の横で笑顔を見せる少年がこの時7歳の俳優坂口憲二さんです。
23歳で芸能界にデビュー。
映画やテレビで活躍しています。
必ず落とせます。
憲二さんは現在40歳。
おととし結婚し長男を授かりました。
父親になり家族の大切さをかみしめる日々。
自らのルーツについてほとんど知らないと気付きました。
番組では憲二さんに代わり家族の歴史を追いました。
ある重大な任務を任されます。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木らと活躍。
坂口憲二さんは初めて家族の歴史を知る事になります。
坂口憲二さんは自分が生まれる前に亡くなった父方の祖父の事がずっと気になっていました。
長崎県壱岐。
祖父雅義はこの島で暮らしていました。
内陸部にある…明治33年祖父雅義はこの場所で生まれます。
雅義はもともと農家だった口家の次男でした。
雅義は11歳の時若くして主人が亡くなった隣の坂口家の養子に入りました。
彫ってありますのでまだ…大正9年二十歳になった雅義はこの島を離れます。
陸軍に徴集されました。
福岡にあった歩兵第24連隊に配属されています。
そして自ら志願して憲兵になりました。
憲兵になって3年後の大正14年。
雅義は久留米憲兵隊に配属されます。
憲兵隊本部があった場所に案内してくれました。
この一画に…。
(取材者)結構広い…。
やる気に満ちていた雅義は順調に昇進し軍曹になります。
当時憲兵隊本部の隣に一軒の豆腐屋がありました。
憲兵隊の隊長がこの豆腐屋によく立ち寄っていました。
店には一人娘がいました。
女学校を卒業し会社勤めをしながら実家を手伝う明るい娘でした。
「憲兵の中で気に入った男がいたら私が世話しよう」。
勝子は本部の方を指さします。
「私あの人が好きです」。
視線の先にいたのが雅義でした。
雅義の三女利子さん。
(取材者)どこがよかったんですか?そうですね。
勝子の好意を雅義は喜びます。
昭和5年1月2人は結婚。
間もなく雅義はある任務に抜てきされます。
昭和7年大阪で行われた陸軍特別大演習。
そこで「供奉」という任務を命じられたのです。
戦史を研究する…それは名誉な事だったといいます。
ここに出てくるって事はね。
雅義は5人目の子供に恵まれます。
その後雅義は中国大陸に派遣されます。
北京の西300キロにある大同で治安維持に当たりました。
憲兵隊の中でも雅義の生真面目さは知られていました。
戦後部下が書いた手紙の中に雅義に関する記述を見つけました。
いつも任務に忠実な雅義の姿を面白おかしくまねしたら叱られ配置換えになったというのです。
間もなく終戦。
大同には数千人の日本人が暮らしていました。
そこで雅義たち憲兵は取り残された住民を引き連れ鉄道で天津へ向かいます。
当時大同に住んでいた…そして昭和21年5月雅義は帰国します。
戦地での過酷な生活で胸の病に侵されていました。
雅義45歳。
入退院を繰り返し働く事ができません。
家には成人していない5人の子供。
末っ子の征二はまだ4歳でした。
妻勝子は瀬戸物屋を始めます。
しかしそれだけでは食べていけず着物を食糧に換えました。
雅義は自分に代わって家計を支える妻勝子の姿を黙って見ているしかありませんでした。
雅義は家族を支える事もできず無念さをかみしめていました。
いや…いやなんか…ただその…坂口憲二さんの父征二さんは現在73歳。
これまでプロレスラーになる前の事は家族にもほとんど語ってきませんでした。
坂口征二は南薫小学校に入学します。
体は大きいものの目立たない少年でした。
同級生だった…
(取材者)そんな大きいんですか。
ものすごい大きい。
中学生になると身長は更に伸び180センチを超えます。
中学時代の親友葉山泉さん。
征二が所属していたのは意外な部活でした。
(取材者)工作部?葉さんには忘れられない思い出があります。
遊んでいて木から落ち気を失った時征二が2キロ離れた自宅まで背負って運んでくれたのです。
ある日事件が起こります。
同級生たちがとりわけ体が大きな征二と柔道部員を戦わせてみようと言いだしたのです。
征二は断りきれず勝負する事になりました。
すると結果は征二があっけなく投げられ惨敗。
それから間もなくして征二の家にある人物が訪ねてきます。
地元南筑高校の柔道部の監督でした。
「その体を生かして柔道をやらないか?」。
昭和33年征二は南筑高校に進学。
柔道部の練習は容赦ない厳しさでした。
当時の柔道部員…征二の頑張りを覚えています。
恵まれた体を生かし征二はみるみる力をつけていきます。
同級生の…征二の変貌ぶりに驚いたといいます。
南筑高校は全国大会に出場します。
団体戦での戦い。
2年生で副将を務めた征二の活躍もあり決勝に駒を進めます。
当時の貴重な映像が残されていました。
相手は広島の盈進商業。
圧倒的な体格を生かした荒っぽい攻めが当時の征二の柔道でした。
この一戦を制し南筑高校は初の全国制覇を成し遂げたのです。
それまで無名だった坂口征二の名は一躍全国にとどろきました。
征二の大活躍を知った地元の同級生は皆驚きました。
まさかというふうにですね…。
周囲に一目置かれる存在になっても征二はおごる事はありませんでした。
高校の3年間征二の担任だった柏原二夫さん92歳。
そして昭和36年征二は明治大学に進学します。
柔道界の名門で征二は先輩たちの胸を借ります。
よく稽古をつけてくれたのが大学OBで全日本選手権を制している神永昭夫でした。
征二は技術的にもそして精神的にも磨かれていきます。
征二の同期…征二は全国各地で開かれる大会に出場するようになります。
そこで困ったのが遠征費をいかにして工面するかでした。
当時費用の一部は自己負担。
久留米の実家に頼るしかありませんでした。
しかし父雅義は入退院を繰り返す生活。
母勝子が何とかやりくりして費用を捻出してくれました。
昭和37年。
2年生で団体戦のメンバーに選ばれた征二は全日本学生柔道優勝大会に挑みます。
征二が得意としていたのは194センチの長身を生かした払腰。
明治大学は見事優勝を飾りました。
その後征二は目覚ましい活躍を続けます。
そして東京オリンピックを目前に控え代表候補者レースのトップに躍り出たのです。
東京オリンピックまであと半年に迫った昭和39年4月。
最終選考会を兼ねた全日本選手権が開かれました。
今回の取材で当時の貴重な映像が見つかりました。
「大きいのにですね…」。
大きいな!征二は準決勝で前年の優勝者と対戦します。
うわ!強い!神永昭夫と共に日本の柔道界をけん引していた選手です。
序盤から積極的に攻めた征二は僅差の判定勝ちを収めます。
そして決勝の相手は明治大学の先輩神永昭夫でした。
「この15分間で全てを決する事になっております」。
しかし征二にいつもの勢いがありません。
あら。
そして…終了3秒前一瞬の出来事でした。
征二のオリンピック出場の夢は断たれました。
決勝戦をそばで見ていた…南筑高校明治大学の後輩です。
神永の相手はオランダ代表アントン・ヘーシンク。
身長198センチ体重120キロ。
この5年間国際大会で負けた事がない絶対的な金メダル候補でした。
「パッと抱きつかれたこれが怖い!」。
征二はこの一戦をすぐそばで見ていました。
「あっのしかかられました抑え込み。
あと1秒…。
ついに神永破る!」。
試合終了直後のヘーシンクの態度が今も目に焼き付いているといいます。
「神永さんの敵は俺がとる」。
征二は新たな目標を見つけます。
東京オリンピックの翌年征二は大学を卒業します。
実業団入りし迎えた全日本柔道選手権。
「必ず優勝してヘーシンクと戦う」。
実はこの年世界選手権が開かれる事になっていました。
征二は初優勝を飾ります。
優勝者に贈られる天皇杯。
柔道を始めて僅か7年。
征二は日本一の称号と世界選手権への切符を手にしました。
そして10月リオデジャネイロでの世界選手権。
征二は3回戦でついにヘーシンクと対戦します。
当時観客の一人が撮影した貴重なフィルムを入手しました。
征二がいくら技をかけても決め手に欠けました。
そして結果は僅差の判定負け。
「次こそは勝ってみせる」。
ところがこの直後ヘーシンクが現役引退を発表します。
更に悪いニュースが続きます。
次のメキシコオリンピックで柔道が正式種目から外れたのです。
征二は途方に暮れました。
「この先何を目標に戦えばいいんだ」。
それから間もなく…思わぬ誘いが舞い込みます。
「プロレスに転向しないか」。
このころプロレスはジャイアント馬場アントニオ猪木の活躍で大人気でした。
目標を失っていた征二の心は揺れます。
「柔道を続けるか。
それともプロレスに転向するか」。
それを知った柔道界は騒然となります。
悩んだ征二は久しぶりに里帰りします。
そして父雅義に相談しました。
すると父からこう言われたのです。
昭和42年2月征二はプロレス入りを決意します。
その3か月後の5月26日。
征二の新たな出発を見届けた父雅義は66歳でこの世を去りました。
プロレス入りした征二。
しかし柔道の癖が抜けきれず試行錯誤をしていました。
当時を知る米良明久さん。
ザ・グレート・カブキとして活躍。
征二とタッグを組んでいました。
そしてプロレス入りして5年目征二は結婚します。
相手は木村利子。
東宝ニューフェースの女優でした。
翌年長男征夫が誕生。
2年後には次男憲二が生まれます。
家庭も充実し征二は自分のスタイルを確立していきます。
柔道仕込みの豪快な技で「世界の荒鷲」と呼ばれるようになったのです。
そして平成2年3月48歳で現役を引退します。
その後新日本プロレスの社長として手腕を発揮します。
当時プロレス人気は低迷し会社は十数億円の負債を抱えていました。
そこで才能ある若手にチャンスを与え更に選手と裏方との間に緊密な関係を築いていきました。
すると業績は好転。
7年後には全ての負債を完済する事ができたのです。
征二が売り出した若手レスラーの一人…現在も第一線で活躍する武藤さん。
当時をこう振り返ります。
明治大学で同期の…征二は柔道で身につけた教えをずっと守ったのだといいます。
征二は73歳になった今も新日本プロレスの相談役として後進の指導に当たっています。
いやぁ…。
すみません…。
きっと…やっぱりこう…坂口征二さんの引退試合の写真です。
父に花束を贈った憲二さん。
この時の経験が俳優としての原点だったといいます。
高校卒業後ハワイの大学に留学していた憲二さんは帰国後父征二さんに自分の思いを打ち明けます。
「俳優になりたい」。
征二さんはこう言いました。
プロレス入りを迷っていた時父雅義さんからもらった言葉を憲二さんに贈ったのです。
柔道からプロレスへと歩んだ半生。
征二さんが自宅で唯一飾っているのが柔道で全日本を制した時の天皇杯です。
プロレス入り後征二さんは関係がこじれた柔道界の先輩たちに挨拶に行きました。
征二さんの活躍はふるさと久留米の同級生たちにも大きな影響を与えていました。
小学校の教師をしていた当時子供たちによく征二さんの事を話しました。
そして中学の工作部で一緒だった葉山泉さん。
後に医者となり現在も大学教授として教壇に立っています。
(鈴の音)久留米にある征二さんの実家。
最近姉利子さんが仏壇の引き出しの中から父雅義さんの遺言状を見つけました。
憲兵だった雅義さん。
戦後は病気のため満足に働く事ができませんでした。
雅義さんは子供たちに宛てこんな遺言を残していました。
「征二へ病身で貧乏であった父を許してもらいたい。
お前の将来にはしあわせがあると信じている。
業務に精励し真面目な信用がある社会人となってくれ」。
遺言状を征二さんに見てもらいました。
坂口憲二さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには激動の時代を真面目にそしてひたむきに生きた家族の歳月がありました。
いやぁ…いやぁ…。
いつか自分の息子が相談しに来たら僕も同じ事言ってあげようと思います。
2016/01/09(土) 16:49〜17:37
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「坂口憲二〜父の覚悟 見つかった祖父の遺書〜」[字]

父はプロレスラー坂口征二さん。幼い頃の事は、家族にも語らなかった。同級生たちが語る真実。そして見つかった祖父の遺書。祖父の思いに、憲二さんは涙が止まらなかった。

詳細情報
番組内容
俳優・坂口憲二さん。父は伝説のプロレスラー坂口征二さん。プロレス転向前の柔道時代のことは、これまで家族にも語ってこなかった。征二さんの意外な少年時代。そして、東京オリンピック代表を争った一戦。惜しくも敗れた背景には、知られざる思いがあった。また、見つかった亡き祖父の遺書。そこには、息子・征二さんにあてた秘めた思いがつづられていた。憲二さんは、祖父や父の生きざまを知って涙を抑えることができなかった。
出演者
【出演】坂口憲二,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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