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津軽藩士殉難慰霊の碑

住所 斜里郡斜里町本町49番地2 町民公園内

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
国道244号線と道道92号斜里停車場線の交差点から約900mの交差点を右折、約750mほどに斜里町立知床博物館館の駐車場があり、徒歩で町民公園へ、公園内に碑がある。
この供養碑は、1807(文化4)年の冬におきた津軽藩士殉難者の慰霊のために、1812(文化9)年、前田久太郎、尾本太吉、惣番人中を施主として下町に建立されたもので2基ある。
碑の一体は1894(明治27)年に皆月寺(後の西念寺)に安置、その後、1952(昭和27)年に町民公園に供養碑を移した。
もう一体は、大正年代の初期(年代は不明)に、当時、下町にあった禅龍寺に安置、その後、1917(大正6)年に朱円の日蓮宗説教所境内に移され、1923(大正12)年に日照寺へ再移設され津軽藩士死没者の供養碑 がある。花崗岩で出来ており、高さ1.24m、巾48cm、奥行33cm。1982(昭和57)年7月1日斜里町指定文化財に指定された。
この慰霊碑のデザインは、斜里町郷土研究会高桑華夷治会長の作によるもので、縦5m、横6m、高さ45cmの台座の上面はオホーツク海を表している。
本碑の根部には、藩士の警備区域であった地域より集めた100個の石のうち72個を中心に配し、手前の石は青森県より寄贈されたもの。よって「百石の碑」として後世に語り継ぐものである。
1973(昭和48)年7月に建立された。近くには有坂赤光車句碑もある。

碑文
北方の風雲急を告げる文化四年
(西暦一八〇七年)当地方は津軽
藩の警備地域となり同年七月より
翌文化五年六月まで津軽藩士百名
が僻地のこの地に駐留して蝦夷地
の守備に任じた。
 朔北辺境の気候風土は耐え難く
加えて厳しい越冬期間中衣服食糧
共に乏しく水腫病のまんえんする
ところとなりこの病による陣没者
相次ぎ国許津軽へ帰還した者わず
か十七名に過ぎずその多くは斜里
場所創成期の礎石と化した
 尓来悠久百六十余年藩命とはい
え北海道開拓の先駆者としてわが
町に果てた津軽藩士の幽魂を弔い
ゆかりの丘に慰霊の碑を建立する
昭和四十八年七月
青森県及び北海道の協力を得て
北海道斜里町長 藤谷豊
之を建てる。
(碑文の裏面には、津軽藩士殉難者氏名が刻まれている。)


説明板
斜里町指定有形文化財 津軽藩士死没者の供養碑
この碑は文化四年(1807)の北辺警備において、
当地に死没された津軽藩士供養のため文化九年に当
時のシャリ場所関係者によって建立された供養碑ニ
基のうちの一基である。
(他の一基は日照寺境内に設置)
(津軽藩士の墓所は西方向六十五米に設置)
昭和五十七年七月一日指定
北海道斜里郡 斜里町

供養碑からほど近くには、津軽藩士墓所跡がある。
1987(昭和62)年7月1日に斜里町の史蹟に指定された。


1806(文化3)年〜1807(文化7)年にかけて、ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発していた。
そのため幕府は襲撃に備えるよう、1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄(天領)とされ、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。
このとき南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵され、それぞれ警備についた。この頃択捉島を襲ったロシアの船が現れ、日本商船を襲って貨物を奪い船を焼き払うという事件も起っている。
このために宗谷、オホーツクの警備を強化するべく、すでにサハラ・エトロフに勤番所を設けていた津軽藩にも増員が掛けられ、さらに330名の津軽藩士が宗谷警備に送られ、うち100名が斜里警備の為送られてきた。
このとき、警備隊の一員に加わり、生きて帰った隊員の一人が斉藤勝利で、彼が残した「松前詰合日記」はそのときの状況を詳しく残している。
彼は、一度宗谷まで赴いたが、12日かけ7月29日斜里に一番隊が到着し、警備兵は漁場にあった三間、九間の魚小屋を仮の宿舎にして番屋を設け警備に当たった。
第一陣に次いで8月朔日、着替えなどは船でなくアイヌを人夫にして30人が到着。
次いで8月11日には、第三陣23名が到着。この隊は、国後警備に当たった藩士達で、この中には津軽藩の医者もいた。

 仮陣屋を建てる為、8月7日から準備をし、上長屋は、三間に十二間で、これを建てる用材は松前で切組んだものを運び建てた。屋根も松前から柾を持ってきて葺いた。
中長屋は、三間に十間で上長屋と同じように松前から持ってきた柾屋根であるが、用材は斜里で伐り出したトドマツ材を用い、土台石は朱円付近から持ってきた。
下長屋は、三間に十間の長屋で、用材は山から伐り出した生木で、屋根は萱葺きと堀立小屋式のものだったようだ。
以上の小屋の他にも武器や食糧など、国元から送られてきた運送品を入れる二間半に五間の倉庫が、下長屋と同じ形式で作られ、更に剣道の稽古場一ヶ所も作られ、それぞれ11月中頃までには出来上がり引越しも終わり越冬の用意をしていた。

初めての僻地での越冬ということもあり、あらかじめ医者も附添し、10月26日には松前から飛脚が幕府の医学館製の「加味平胃散」が一人五服づつあたえられたそうだ。
一・山嵐不正之気を除く、一・脾胃を調ふ、一・水土を伏せずして泄瀉等あるによし
このような効能書が添えられていたが、現在の仁丹程度だったといわれている。

しかし、寒地の越冬に慣れていないこともあり、冬の間の栄養の補給ということはあまり深く考えられていなかったようである。
そのうえ、吹雪、寒さ、井戸が無く川水を使っていたが、海水が逆流し使えなくなり、海が凍り流氷が押し寄せた。
このような厳しい寒さに対し、布団などの用意も十分ではなかったようで、各藩が入り込んだ事もあり夜具は必要の二割程度しかなかったことも一つの要因である。
こうしたこともあり、「冬はロシア船もこないだろうから、春まで宗谷を引き上げてはどうか、このまま冬越したのではほとんど死絶えてしまい、よしんば生き残るものがあったとしても、とても春になっていざというときに役に立たないだろう」と言う進言もしている。

こうして夜具が宗谷に到着したのは、旧暦の十月中旬、現在の11月頃と思われ、そこより遠い斜里はそれ以上掛かったのであろう。
このような準備不足と11月中旬から寒さと栄養不足により警備兵のほとんどが浮腫病になり、帰国して養生したいと願い出るも、雪の中、国に帰る事も容易でないこともあり、現地で治療受けるも、11月25日最初の犠牲者がでる。
この日から次々と死者が続出し、雪の中宗谷へ向った一行も途中で全滅。年の暮れには、トドマツの枝と笹の葉をもって正月を向え、元日の挨拶に会所に出向かなければならないのだが多くは病気のため年始すら出ることが出来なかったという。「病人共も気力を失ひ殊に物不自由成る事申不及ともに哀れを催し候」という悲惨な状態だった。
この悲惨な越冬のなかこともほか元気だったのは、幕府詰合の最上徳内だったという。
ここに住んでいる蝦夷たちは冬期間はここには住まないようである。
では、どこに行くのかと尋ねると、斜里から東海岸へ向って山合を隔てたクスリ(クスリとは「薬」もしくは「温泉」と言う意味、クスリ湖(クッチャロ湖の原名)を水源とするクスリ川(釧路川)、その河口にあるコタンをクスリという。)という所まで七里あるそうだ。
そのクスリまで、引越し、翌年四月まで斜里には帰ってこないんだそうだ。
そうとも知らず、このような場所に、御人数を配備したのだから、病死者が続出するのも当然のことであった。

 3月に入り、雪も解けはじめ、国に帰りたいという希望を抱き斜里を出発するも、どれも皆途中まで行っては亡くなっている。
実に、72名の藩士が死亡してしまったが警備を続けた。1808(文化5)年6月24日、沖合いに帆掛け船がやってくる。やっと帰れるのだ。
千歳丸という帆掛け船に武器や諸道具を積み込み後始末を済ませ風待ちした。
この日和待ちのときに、桧で高さニ間、七寸角一本の墓標を工藤茂兵衛が削りたて、斉藤文吉が病死者七十二名の俗名を席次順に書き記し、工藤茂兵衛、斉藤文吉、ならびに郷夫二人の四人で墓所に参り、この地に果てた人々の合同の碑を建てた。
6月26日会所支配人に陣屋等を引き渡し、103人のうち72人はこの地に還り、13人の引揚者があり、無事に帰還した藩士は17名であったが、この中には越年していない医者とその従者がいたので、越冬者は15名だった。
こうして17人を乗せた千歳丸は、7月2日宗谷の沖合いに出たが、風にあおられ樺太の久春古丹(クシュンコタン)沖合いまで流された。
そこから利尻にでて、3日に上陸、島の蝦夷人と魚類を交易し、飲料水も積み込んだ。
6日の朝利尻を出発し、神威岬を廻ろうとするも風で吹き戻され積丹に船を付ける。
7日積丹を出帆、8日には大風で碇を下ろすも船は損傷、船尾を大破し、9日昼過ぎに忍路(おしょろ)に着くことができた。
 この忍路にも会所があり、一同上陸し、ここから三里ほど東の高島に、津軽藩御馬廻組頭 森岡金吾と350人ほどの藩士と警備していると会所で聞き、田中才八郎と工藤茂兵衛が郷夫二人を従え、高島に出向いた。
「斜里詰は皆死んだと聞いてゐたが、一人でも二人でも生きてゐたとは・・・・・・」といって喜ばれた。
14日には忍路から高島に移り、16日に高島を出立、石狩に陸路で出て、17日石狩川を遡り仮小屋に泊まる。
対雁(ついしかり、現・江別市)で昼食を取り、千歳川を遡り、千歳の運上屋へ泊まる。
19日千歳出立、美々で昼食をとり勇払にでて会所で泊まる。
20日勇払出立の際、馬を雇い太平洋側を陸路歩き九里進んで白老で泊まる。
21日出立、七里七町で幌別に泊まる。
22日出立、五里で室蘭に泊まる。23日は滞在する。
24日出立、六里半で有珠会所に泊まる。
25日出立、五里半で礼文華の会所に泊まる。
26日出立、六里半で長万部に泊まる。
27日出立、八里半で山越内(現・二海郡八雲町山越)に泊まる。
28日出立、五里で鷲野木(現。森町)に泊まる。
29日出立、八里半で大野村(現・北斗市)に泊まる。
8月朔日出立、三里に亀田村があり、昼食を取る。二里で箱館に着く、が松前城下までの手帳を紛失する。
5日松前城下に到着。しばらく滞留する。
10日出立、御飛脚船にて松前表を9時に出船、14時過ぎに三馬屋表(現・青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩)に到着。
11日出立、蟹田町(現・青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田)に泊まる。
12日出立、青森町に泊まる。13日は滞留。
14日出立、浪岡に泊まる。
15日弘前城下に入り、御鷹部屋へ預かった鷲駕籠を渡し、頭方に到着の挨拶を申し上げた。
16日、青森表に千歳丸が到着したので、弘前に荷物の輸送をするように御用命があり、17日に青森に着いた。
20日、自宅へ帰宅。(陽暦の10月9日)

松前詰合日記とは、「松前詰合一条」の表題で日記に記したもので、斉藤勝利という22歳の若い藩士で、津軽藩の下級武士。禄高16石の諸手足軽(鉄砲隊隊員)であった。
日記は永らく門外不出とされたため、昭和29年に偶然発見されるまで誰もその存在を知らなかった。
その日記は斜里場所において藩士が次々と亡くなっていくという過酷で悲惨な実態を克明に綴ったもので、幕府ご公儀役人の言動なども書かれている。門外不出とされた理由は、かろうじて生き延びた斉藤勝利が藩に帰還したとき、藩は日記を公開することは津軽藩の恥であるとして公開厳禁としたようで、藩士が死んだことは闇から闇へ葬られようとしていた。
このとき斉藤は、「他見無用永く子孫江伝」と書いた。
「松前詰合日記」が発見されたのは1954(昭和29)年、北大教授の高倉新一郎氏が偶然、東京の古本屋で見つけた。
「シャリ場所死亡人控」は、1953(昭和28)年、町内の曹洞宗禅龍寺から発見され、「松前詰合日記」の人名と照合した結果よく一致することから、この事件の直後に作成された津軽藩士死没者過去帳と判明。和紙二つ折り7枚とじ、戒名・俗名併記の津軽藩士70人、同松前藩士1人、同シャリ場所従事者4人、俗名のみの藤野家2人。現在は、津軽藩士死没者の過去帳として知床斜里博物館に複製が展示されている。
この過去帳は、1898(明治31)年、禅龍寺が開山した際に、藤野家支配人から寺院に依託されたものだが、その後住職の移動などでこのことがうやむやになっていた。
過去帳の裏表紙には、1809(文化6)年7月、斜里の詰合が施主になって、それまでに斜里で死亡した津軽家人数をはじめ、松前家中、場所支配人・番人の菩提のため宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て、様似等樹院法印の回向をうけた、陀羅尼百巻を地蔵尊戒名塔の中に納め、その冥福を祈った。
さらに毎年7月の盆中には、志しある者は、この供養塔に水を手向けてくれるよう頼む、と書き添えてあるそうだ。

1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史・松前詰合日記参考
水腫病(すいしゅびょう)身体の組織の間に、リンパ液などが多量にたまった状態になり、悪くなると水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみ死ぬという奇病は、アイヌ人にはほとんど見られなかったことから、北辺の地の生活に不慣れな和人特有の病であったと伝えられている。

最上徳内(もがみとくない)とは、、1754(宝暦4)年 - 1836(天保7)年9月5日(10月14日)、探検家であり江戸幕府普請役。蝦夷を調査して回った。
出羽国村山郡楯岡村(現・山形県村山市楯岡)出身。
実家は農家で、長男であるにもかかわらず学問を志して家を弟たちに任せて奉公の身の上となる。
1781(天明元)年には江戸へ出府。奉公先で学問を積んだ後、1784(天明4)年、本多利明の音羽塾に入門する。
本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるも、利明は病のため徳内を代役に推薦する。
山口鉄五郎隊に人夫として属し、師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行した。
釧路から厚岸、根室まで探索し、地理やアイヌの生活や風俗などを調査し、千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。
1786(天明6)年、徳内は蝦夷地での活躍を認められ単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡り、アイヌを仲介にロシア人と交友してロシア事情を学び江戸へ帰還する。
1787(天明7)年、再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺(現在は松前藩主松前家墓所がある)に住み込みで入門するも、正体が発覚して蝦夷地を追放される。その後も挑戦するが失敗している。
1788(天明8)年、酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。
1789(寛政元)年、蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、真相調査のため青島は徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となる。騒動は収まっており、宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を廻り調査している。
その後、江戸へ戻った青島は調査書を提出。
幕府は青島らの蝦夷地での職務を離れた行動・アイヌとの交流を問題視する。
青島は背任を疑われ、徳内とともに罪人として受牢する。青島は牢内で病死、徳内も病に冒されたが、師の利明らの運動もあり釈放され、1790(寛政2)年に無罪となる。
1792(寛政4)年、樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査した。
1793(寛政5)年、河川を通行する川船に課税する深川の川船役所への出仕を命じられる。水系地図を作成し、効率化に務め、山林御用に命じられる。
1798(寛政10)年、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
1804(文化元)年、再び山林御用を務める。
1805(文化2)年、遠山景晋のもと蝦夷に上陸する。
1808(文化5)年、2月徳内は樺太詰を命ぜられ、4月に宗谷から渡樺。シラヌシ(本斗郡好仁村白主)からクシュンコタン(大泊郡大泊町)に向う。6月クシュンコタン(大泊)を発ち東海岸沿いに南下、樺太最南端・西能登呂岬を回って西岸を北上しトンナイ(真岡郡真岡町)に上陸。7月に会津藩兵の一行とともに樺太を離れた。
1826(文政9)年、ドイツ人医師シーボルトが江戸へ参府する。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換をする。
1828(文政11)年、シーボルトが帰国する際、国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追及を免れた。
晩年は江戸の浅草に住んでいた。

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)江戸時代後期の幕臣で探検家。
間宮林蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
江戸駒込(現・東京都文京区本駒込付近)に生まれる。山本北山に儒学を習い、17歳で私塾「白山義学」を開くなど幼児の頃から神童と言われた。
生涯書いた著作は、60余種1500余巻にものぼるという。
1798(寛政10)年、松前蝦夷地御用取扱となり4度蝦夷地(北海道)へ赴いている。
最上徳内と千島列島、択捉島を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事し、高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させている。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷に上陸。利尻島や現在の札幌市周辺を踏査している。

国道244号線とは、網走市から斜里郡斜里町を経由して根室市に至る一般国道で、総距離は153.9km。

道道92号斜里停車場線とは、斜里郡斜里町内を結ぶ主要道道で、総距離は2.0km。

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