斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
序
斎藤文吉は、江戸時代中期に生まれた弘前藩(津軽藩)の下級武士である。禄高16石の諸手足軽(鉄砲隊隊員)であった。文化4年(1807年)、エトロフ島をロシア船が襲撃する事件(露寇、丁卯の変)が起こり、その直後、弘前藩蝦夷地派兵隊の一員として北海道斜里町へ派遣された。当時22歳だった斎藤文吉は、対露北辺警備についての記録(松前詰合日記)を書き残した。日記には、弘前から遠く離れた斜里までの往復と現地での詰合(警備)活動が詳細に記されている。
日記には、管理職名での武芸稽古の通知、薪作りの指示、蝦夷人家屋の戸数、村落間の距離などの業務的な記録および現地での苦労と悲惨な浮腫病の状況が淡々と描かれている。これらに加え、理由は定かではないが、文吉の日記には隊員(武士だけでなく町大工、鳶、郷夫など全員)の個人名と死亡日が詳しく書かれている。今日、斜里で死亡した弘前隊の名前が確認できるのも、この日記が存在するからに他ならない。斜里での交戦を想定した場合、弘前藩は論功行賞や死亡者家族への対応など、事後に予想される様々な事態に備える必要があっただろう。断言はできないが、日記は派遣記録としての公的な役割も持っていたと考えてよいのではないだろうか。
斎藤文吉の日記は永らく門外不出とされたため、昭和29年に偶然発見されるまで誰もその存在を知らなかった。門外不出とされた理由は、斜里での悲劇の詳細を公表できない何らかの事情が弘前藩内に生じたからであろう。日記には、幕府ご公儀役人の言動や、禁じられていたアイヌからの生鮭購入のことも書かれている。これらが不適切な記述と判断されたのかも知れない。当時、幕府は蝦夷地の海防強化を遂行中であった。1807年には松前藩を陸奥柳川へ転封して蝦夷地を直轄化し、更に弘前藩領内でも、外ヶ浜地区を上知して直轄幕領化する計画があった(北国郡代構想)。先の読めない状況下にあって、北辺警備に動員された諸藩は、蝦夷地での情報収集と江戸での対幕閣ロビー活動の両方に苦心が絶えなかったに違いない。
弘前に限らず、各地の武士、医師、商人などが蝦夷地警備に動員され、日記や報告書を残している。例えば、エトロフへ派遣された医師、久保田見達が残した「北地日記」には、ロシア船襲撃の様子の他、諸事に纏わる筆者の個人的見解が滔々と述べられており、エトロフに勤務していた幕吏の弱気さや、同じくエトロフに派遣されていた盛岡・弘前(南部・津軽)両藩士の仲の悪さなどが皮肉を込めて赤裸々に書かれている。北地日記とは対照的に、文吉の日記は淡々と冷静に書かれている。そのため、緊張感がより強く行間から伝わってくる。他にも、エトロフでロシアの捕虜となり、抑留と苦闘の末に帰国した中川五郎冶の「五郎冶申し上げあらまし」、エトロフに駐留していた南部藩士千葉政之進の「筆記」、文化4年3月に幕府からウルップ島調査を命じられた御雇医師新楽閑そうの「閑そう記」(ウルップ島へ行く途中、厚岸沖で高田屋の御雇船寛厚丸から露寇の報を聞き、関そうらは目的地を国後に変更した)、多くの露寇関係文書を編纂した「休明光記」などがある。文吉の日記は露寇に関係する多くの文書の一つに過ぎないが、そこに記録された犠牲は際立っている。
蝦夷地派兵の功績により、4万6千石だった外様小藩・弘前藩は、1808年、10万石に加増された。桜の名所として知られる弘前城の辰巳櫓(天守閣)は、この昇進を記念して1810年に建造されたものである。しかし、名目上の家格は上がっても、藩の実収入が増えることはなかった。
日記が書かれたのは200年以上前のことであるが、青森が津軽海峡を臨む交通の要所であることは今も昔も変わらない。この地理的特徴から派生する諸問題(Geopolitics)には、時代を越えて現在にも通じる点があるだろう。辰巳櫓の建築からちょうど200年後の2010年、東北新幹線が青森まで延伸され、新青森駅が開業する。この機会に、改めて松前詰合日記原文を読み、文吉の足跡を再現して、いろいろと考えてみることにした。日記には、個人的な経験・感想も少し書かれている。斜里でのアイヌ青年との交流と青年から聞き出したアイヌの冬村(ウルハコタン)の存在を語っている個所は、この日記のハイライトである。少ない情報から、文吉の人柄や日記が秘匿された経緯についても大胆に推定してみる。本文中、素朴な疑問から生じた脱線気味の内容も多々見られるがご容赦願いたい。
松前詰合日記には、防寒具などの装備、蝦夷地先住民アイヌとの交渉、他藩との交流、住居(陣屋)の構造、食料、お手当金及び武器に関する情報が書かれている。史料としての分析は専門家に委ねるとして、ここでは日記に書かれたことだけでなく、書かれなかったこと、更に、それらの背景事情を今日的な視点から考察してみることにした。考察に際して、下記リストにある文献を参照した。なるべく正確な引用を心がけたが、素人の俄か仕事ゆえに断定的に書き過ぎているところがあるかもしれない。尚、日記引用部分は、松前詰合日記の発見者である高倉新一郎先生による原文読解と田中最勝氏の現代語訳(参考文献3)をそのまま転記した。
実は、弘前藩にとって、これが2度目の蝦夷地出兵であった(幕末戊辰の役を含めれば、江戸時代に合計3回出兵したことになる)。弘前藩は、文吉の時代を140年ほど遡る1669年、松前藩と衝突した蝦夷地アイヌ(寛文蝦夷蜂起、別名シャクシャインの乱)を鎮圧するために出兵している。この時は、弘前藩だけが派兵し、盛岡(南部)藩を含む他藩、および幕府役人が蝦夷地へ出向くことはなかった。1669年当時、ハバロフらロシア人探検家はアムール川沿いを探索中で、日本はまだ「発見」されていなかった。文吉の時代の蝦夷地派兵には、弘前藩だけでなく、盛岡藩、仙台藩、会津藩、久保田藩、庄内藩も参加している。そして、相手が大国ロシアであったため、幕府は様々な対応策を講じて警備を固めた。結局、幸運にもロシア船が再び来襲することはなかった。理由は、日本を諦めたからではなく、ナポレオンのモスクワ遠征(1812年)や対トルコ戦争(1828年)などのため、極東へ振り向ける余力が足りなくなったからだった。
参考にした文献
1.「弘前藩」長谷川成一、 2004年 吉川弘文館 日本歴史叢書
2.「青森県の歴史」長谷川成一、村越潔、小口雅史、斎藤利男、小岩信竹、2000年 山川出版社
3.「松前詰合日記」斎藤勝利、 高倉新一郎 原文解読 1973年 津軽藩士殉難慰霊碑を守る会
4.「幕末海防史の研究」原 剛、1988年 名著出版
5.「北方史史料集成」第5巻 秋月俊幸 翻刻・解説、1994年北海道出版企画センター
6.「ロシア人の日本発見―北太平洋における航海と地図の歴史―」S.ズナメンスキー
1929年、秋月俊幸 訳 1979年、北海道大学図書刊行会
7.「アイヌ民族の軌跡」 浪川健治、2004年 山川出版社
8.「エトロフ島 −つくられた国境−」 菊地勇夫、1999年 吉川弘文館
9.「北の人 文化と宗教」大林太良、1997年 第一書房
10.「和船 I」、「和船 II」石井謙治、1995年、法政大学出版局
11.「続々 弘前今昔」荒井清明、1989年、北方新社
12.「民族衝突の記憶−「津軽一統志」巻第10収載の寛文蝦夷蜂起関連資料と叙述の継承−」 市毛幹幸、2009年、弘前大学国史研究 第126号
13.「ネコに殺されそうになった友人を助けた男の話」大谷洋一、2005年 北海道立アイヌ民族文化研究センター
14.「青森市町内盛衰記」肴倉弥八、1976年、歴史図書社
15.「新青森市史 資料編3近世(1)」2002年、青森市史編纂委員会、青森市
16.「江戸300藩最後の藩主」八幡和郎、2004年、光文社
17.「北海道の歴史」田端宏一、桑原真人、船津功一、関口明、2000年、山川出版社
18.「青森県の歴史散歩」青森県高等学校地方史研究会編、2007年、山川出版社
19.「津軽」太宰 治、1951年、新潮文庫
20.「奥羽・津軽一族」白川 亨、2000年、新人物往来社
21.「千島アイヌの軌跡」ザヨンツ・マウゴジャータ、2009年、草風館
22.「安東氏−下国家四百年ものがたり−」森山嘉蔵、2006年、無明舎出版
23.「日本語・アイヌ語辞典」魚井一由 編著、2005年、国学院短期大学コミュニティーセンター
此一冊は 他見無用 松前詰合日記 永く子孫江と伝
(この一冊は他人に見せてはならない、松前詰合いのことを書いた日記である。子孫へ永く伝える)
文化4年(1807年) 陰暦5月24日〜26日
幕府ご公儀役人と此方様御人数(弘前藩軍勢)が松前函館、さらに奥地のエトロフ島に詰合(警備)していたところ、4月29日ロシア船が渡来し、エトロフ島の陣屋を鉄砲で焼き払い、上陸した。その時、わが軍勢は見苦しい状況で退却し松前へ引き上げたらしい。その後もロシア船はクナシリ島や方々を乗り回し、ところによっては上陸して味噌などを乱暴の上盗み取った旨、蝦夷地からの御注進が数度におよび、更に函館沖にも外国船が出没との不確定情報もあって、「松前勤番人数(蝦夷地警備軍勢)の増派」の幕命が出た。急な命令により明後日26日明け六つ半(午前7時)に出発し、諸手物頭・蝦名彦左衛門の組へ加わることになった。25日夜9時過ぎに群奉行所で諸手足軽勤務お手当て金3両2分を支給されたが、急なことで身支度も十分出来ないまま、朝7時ころ蛯名彦左衛門宅へ出勤した。その屋敷は笹森町の西側、亀甲町の裏側にある。
他の組員も出勤してきたが、一昨日の命令ということもあって予定が遅れ、各自自宅へいったん帰って昼食を取ろうとしていたところ、近所の長柄奉行・馬場種次郎方から握り飯を進上したいと申し出があり、組員30人がお礼を申し上げて昼食をとった。そうこうしているうちに、ようやく午後4時になって当地弘前を出発、夜8時ころ藤崎村で弁当をつかい、夜中かけて行軍し、明け方になって青森へ到着した。
蛯名彦左衛門の屋敷は現在の弘前中央高校と弘前第一中学校の間、あるいは「津軽藩ねぷた村」がある辺りだったろう。どちらにしても弘前城東門から徒歩数分の距離にあったと思われる。中央高校の位置には弘前藩家老・大道寺宇左衛門の屋敷があった。ちなみに現在、そのすぐ近くにみちのく銀行(注)亀甲町支店がある。付近には百石町(百石は住人の禄高を示す)、徒町、若党町、鉄砲町など城下町らしい町名が並ぶ。斜里詰め弘前藩士隊員は3隊に分かれて派遣され、合計100名ほどであった。内訳は、勘定人3名(管理職に相当、各隊の隊長)、大組(足軽、大筒、警護など)9名、足軽(持筒、諸手、御城附)16名、長柄、槍持ち7名、御大工2名、御医者2名、そして武士階級以外の町大工、郷夫、掃除人、鳶などが加わった。諸手物頭は弓・鉄砲隊隊長に相当する役職で、諸手足軽は平隊員である。この中で郷夫が最も多く50名弱であった。尚、文吉らに握り飯を進呈した馬場種次郎は第2次派遣隊(交代要員)を率いる予定であった。
函館奉行(江戸幕府の蝦夷地警備担当責任者)はエトロフ露寇事件の報告を受けた日(5月18日)、即日函館詰合中の弘前藩関係者へ出兵を下命し、弘前城下へは4日後の22日にその命令書が届いた。その後、準備期間2日だけで勘定人、足軽、大工、郷夫などからなる一隊が編成されているところを見ると、ご下命以前から対応策が用意されていたのであろう。武士でない町人・農民を徴用するためには、封建時代であってもそれなりの手続きが必要だったと考えられる。町区や業種ごとに動員数が割り当てられていたのだろうか?参加者の中には、「モジワラキヘラレタ、モツケ、エンゾチサイッテマッタ」、と周囲から言われた郷夫・農民がいたかも知れない。
ここで時代背景を簡単にまとめておく。
18世紀中頃以降、アイヌの叛乱とロシア船・イギリス船の相次ぐ来訪によって、北海道状勢は不安定化していた。江戸幕府からの要請を受け、既に弘前藩軍勢は1793年に281人が松前へ、1797年にはイギリス船の根室来航に対応して500人が函館へ派遣されていた。日記冒頭で触れられている敗走部隊は、更に1799年からエトロフに派遣されていた1隊である。江戸幕府は、1797年、自ら国後・エトロフを調査し、東蝦夷地(北海道の東南側半分、函館からエトロフまで)を直轄領とした。その上で、国境防衛を強化するために、東蝦夷地の要所を弘前藩と盛岡藩に警備させることにした。動員数は両藩ともに管理職2,3名と足軽500人であった。弘前藩は、砂原、浦河、エトロフを、盛岡藩は、根室、国後、エトロフを担当した。エトロフでは、仲が良くないことで有名な弘前津軽と盛岡南部の両方が警備に当たった(つまり、文吉一行はエトロフ勤番の此方様御人数(弘前藩軍勢)敗走に対処するための増派部隊であった)。幕府はようやく1802年に函館奉行(蝦夷地奉行)を創設し、現地責任者を任命した。しかし、直接統治が行われたわけではなく、にわかには信じがたいことだが、この文化4年の露寇の直前には、北海道全体(東西蝦夷地)を直轄し、東蝦夷地を盛岡藩に、西蝦夷地を弘前藩に担当させる無謀と思える計画があったらしい。ご下命後2日で即応部隊を編成できたのは、このような事情があったからである。
装備についての詳細は記されていない。役職名に大筒(大砲)があるが、大筒といっても当時弘前藩が持っていたのは1貫目の木砲が主で、3貫目以上の鉄製の大筒は鰺ヶ沢と深浦にそれぞれ1台あったのみである。大筒は実装されていなかったか、装備されていたとしても自走できる小型であっただろう。
ところで、斜里詰め弘前藩士隊の記録には、船頭や水夫がいない。しかし、日記には「三厩から函館へ5艘の軍船で渡海した」、「千石丸で帰国せよ、との知らせが届いた」等の記載がある。また、現地でアイヌと交渉するための通詞も参加していたはずである。海運関係者と通詞(おそらく蝦夷地アイヌの中の語学達者な者)は、すでに函館その他の弘前藩勤番地へ先遣されていた可能性がある。彼らは、弘前藩の行政組織には組み込まれていない臨時雇いであったため日記に記載されなかったのだろうか。
それにしても、夜通しかけて弘前から藤崎経由で青森まで歩く、現在の国道7号線を使ってもその距離約40キロメートル。健脚である。この時代、弘前から青森へ至る道筋は、浪岡−大釈迦−新城−岡町−油川港を経由した。つまり、新城から先は国道7号線からはずれ、新城川に沿って岡町地区の低地を進んで青森湾へ抜け、油川港から海沿いに青森へ向う遠回りなルートである。
新城から石江地区を経由して青森中心部へ向かう直通道路は明治3年(1870年)に開通した。この時、荒野であった今の石江地区(新青森駅付近)が江渡茂吉によって開拓され、新しい村が建設されている。旧国道7号線に沿って青森市中心街から新城方面へ向うと、スイミングスクールがある西滝あたりから登りが続き、石江一帯が確かに高台になっていることがわかる。そこから新城へは逆にゆるい下り坂になり、新城川沿いの小さな谷間に、西部市民センター(少し前まで、ここは市営バス路線の西ターミナル、西部営業所だった)とJR新城駅がある。当初、新しい村は江渡の名前をとって「江渡村」とされていたが、近くの石神村と統合された時に石江村となった。その後約140年を経て、この場所に新青森駅ができた。先駆者江渡の功績は大きい。
文化4年(1807年) 陰暦5月27日〜6月4日
5月26日、一番手大将御馬廻り組頭、竹内源太夫殿もご出立、諸手物頭蛯名彦左衛門、貴田十郎植右衛門、お目付け田中太郎五郎、その他平侍与力10人、諸組足軽、御持槍、掃除小人、郷夫など総勢750人が青森へ集結、禅寺常光寺を本陣と決め、付近の町家にも同勢が落ち着いた。
翌27日は滞在の予定であったが、午後2時ごろ御使い番の成田求馬が早打ちで駆けつけ、早々に三厩から松前表へ渡海せよとの命令の使者で、お召し馬に乗って来てこれを伝えた。 よって翌28日青森出立となったが、折からの雨天で一同は難儀した。途中平舘で一泊、翌29日に三厩に到着して日和待ちとなった。6月2日には青森表から軍船5艘が三厩に到着した。同4日になって風向きがよろしいように見えたので、その5艘へ一同の着替え荷物を詰め入れることになり、その作業が明け方へかけて賑やかに行われたが、だんだん順風になるとのことで、一同が乗船したのは朝8時頃であった。
こうして三厩を出帆したが、途中何事もなく午後2時ごろ函館表へ着船した。そこでとりあえず町家を借りあげて少憩する間もなく、御行列を組んで函館の高龍寺にいたり、これを借り上げて落ち着いた。他に近所の小寺も借り上げ、当分これらの寺に滞在した。前年から詰合いの弘前藩兵は函館陣屋に400人余りおり、勘定奉行高屋吾助が物頭代として去年の秋から在勤しているとのことである。
総勢750人の蝦夷地増派隊が青森表へ集結した(派遣先の内訳は、江差200人、宗谷230人、松前333人、斜里100名で合計863人、文献4より)。当時の青森周辺の人口は7000人ほどである。大騒ぎであったに違いない。常光寺(曹洞宗)は今も本町1丁目、柳町通りと新町通りの交差点にある(現存の常光寺は1945年の戦災後に再興されたもの)。寺町、鍛治町、大工町、博労町、蜆(しじみ)貝町など青森市の旧町名の多くは、「住居表示に関する法律(1968年)」の施行により整理され、代わって、本町、青柳、中央などの新町名が導入された。一方で、安方、古川など旧町名がそのまま残った例もある。常光寺は寺町の1番寺である。隣には順に正覚寺、蓮心寺、蓮華寺が並び、堤川へ至る。
文吉がどこに宿泊したのか定かでない。本陣であろうか?
文化8年(1811年)の青森記(の複製)および文政9年(1826年)の青森町絵図(牧野家文書)を見ると、寺町に4寺が並び鍛治町に続いている。昭和28年(1953年)の青森市街図でも同様である。安方と堤川の位置関係が不変であるとすると、常光寺の敷地は文化4年当時も100メートル四方程度だったと考えられる。詰め込めば200名程度は宿泊できそうである。日記中に名前の挙がった管理職と与力、加えて足軽の一部が常光寺に宿泊しただろう。文吉は本陣又は、そのすぐ近くの町家に滞在し、弘前からの伝令、成田求馬を間近に見ることができた。お召し馬(殿様の馬)で駆けつける、すなわち、藩主に代わって命ずること。現在から見れば、大げさで、わざとらしく、仰々しい、しかし、士気高揚効果があったに違いない。日記の行間を読むと、総責任者竹内源太夫殿以下管理職は前日の26日中に馬で青森に先着し、遅れて出発した足軽は夜通し歩いて27日早朝に到着、休む間もなく翌日移動したことがわかる。
三厩までは松前街道である。陸奥湾沿いを北上し、平舘海峡を右手に見ながら津軽半島を左周りに半周する。一帯は古くから外が浜と呼ばれる。
途中、一行は再び油川港を通過する。当時の油川港は日本海側の鰺ヶ沢と並ぶ弘前藩の重要港であった。陸奥湾一の商業港であり、蝦夷地、田名部(下北半島)への米・酒の輸出港として発展した。油川では、今も人気の銘柄酒が造られている(西田三郎右衛門が油川で酒造業を始めたのは正徳年間(1711年頃)と伝えられている)。
米の収穫がほとんどない蝦夷地では酒の相場が高い。高価であるだけでなく絶対数も不足していたと思われる。文吉が酒好きであったかわからないが、しばらく飲めないことを心配して油川でお手当金を使った者がいたに違いない(支給された3両2分のお手当金の現在価値は20〜30万円程度と考えられる)。油川港では米・穀類・酒が出荷され、大阪・北陸方面から木綿・砂糖・紙・雑貨類が千石船(弁財船)で運び込まれた。ただし、善知鳥の青森港は江戸時代以降に弘前藩が作った官営港であり、江戸への米の廻船には青森港が使われた。
油川、今は静かな材木港。石江村が開拓された明治時代以降、弘前―青森間の輸送経路から外れ、鉄道と青函連絡船の開業後は、陸奥湾一の地位を官営青森港に譲った。油川港にもう少し寄り道。
文吉の時代から、300年ほど遡れば、油川港の主要な交易品には、豊穣な津軽平野の米と先進地域である大阪の工芸品以外に、もうひとつ重要な品物があった。それは海獣(ラッコ、オットセイ、トドなど)やヒグマの毛皮である。「日本書記」には、津軽地方へ派遣された安倍比羅夫が津軽エミシ(夷俘、蝦夷の別称)を助けて、粛慎(アシハセ、実体不明、大陸系の人か?)を討ち、ヒグマの皮70枚を朝廷に献上したとある(658年)。また、10世紀初め頃の行政規則集「延喜式」には、陸奥国の交易品としてアシカ皮、ドッカン皮(ヒグマ?トド?)、昆布、砂金が指定されている。また、1596年、イエズス会は「蝦夷人は魚類、皮革、海草などを津軽へ売りに来て、津軽から武器や布類、食糧を購入している」と記録している。下って元和年間(1615−1624年)、イエズス会の宣教師ジェロニモ・アンジェリスは、東はメシナ地方(根室付近)、西は天塩地方までの各地のアイヌがラッコの皮、中国製絹織物(蝦夷錦)をもって松前城下で交易を行っている、メシナのアイヌ船だけで100艘に及ぶと記録した。
文吉の時代は、高田屋嘉兵衛によってエトロフ島への商業航路が開拓された頃である。それまで蝦夷船に頼っていた北海道沿岸の物流が和人の支配下に入り、毛皮類の交易地点は松前から更に遠方の北海道東部(厚岸など)へ移動していた。
少々強引だが、海獣・ヒグマの皮、その他、昆布や鮭、鯡などの海産物を交易の主力品とし、農耕に従事することはなかった集団をアイヌとしよう。本来アイヌは操船が巧みで、かつては本州北部にも活動拠点を持ち、北海道、千島列島、樺太を往来する蝦夷交易(毛皮貿易)の直接の担い手であった。ところが、すでに1730年代には悪名高い松前藩の「場所請負制」がアイヌ世界に浸透し、南部、津軽、出羽、そして近江の商人が蝦夷村を請け負い、運上金を松前藩に支払っていた。文吉の時代には、松前付近のアイヌは交易相手ではなく安い労働力(荷役など)として扱われていた。
一方、米が栽培されていた津軽平野を含む現在の青森県および秋田・岩手県北部地域は、元々は蝦夷の住む蝦夷地であった。農耕もする半農半猟の津軽蝦夷の中に次第に有力な豪族が形成され、北海道アイヌとの海上交易をしながら勢力を拡大した。一方、鎌倉期以前の中央政府は、“蝦夷にもいろいろな種類がある”と認識していた。鎌倉期以降、豪族の中から優勢な一派が現れて、それが安藤氏に連なる系譜の元になったと思われる。安藤氏は、鎌倉幕府から地頭代理の官職(名目上の地頭職は鎌倉近辺に在住した)を得て、京都や鎌倉で逮捕された罪人の蝦夷地流刑も担当するようになった。北からアイヌが運び込む毛皮を米・酒と交換、それを京都・大阪へ高値で転売する。その資金で上方の木綿や紙、工芸品を買い、もどって米や酒と交換、それを再び毛皮と交換して、転売する・・・、こうして十三湊に日本海交易の拠点を作って安藤氏は繁栄した。おそらく、気候が厳しい冬期を除けば、十三湊に日本海を南北に往来する船が絶えることはなかっただろう。その後、安藤氏の系譜は様々な運命をたどったが、一部は秋田氏として残り大名になった(秋田氏は水戸の佐竹氏との国替えで茨城県笠間に移封された後、福島県三春藩5万石として明治維新まで存続)。安藤氏は地元に根をおろした豪族であり、自らを津軽エミシあるいは蝦夷の代弁者であると任じていた。十三湊が繁栄した時代には、油川は注目されることのないアイヌと和人の混住の地であった。
十三湊は、1442年、南部氏の攻撃によって陥落、焼失し廃墟となった。油川が商業港として重要性を増したのは十三湊陥落の後である。
鎌倉幕府滅亡(1333年)の混乱期に建武新政府の勢力が相次いで派遣された。その代表格は陸奥守北畠顕家によって糠部郡(現在の青森県の西半分)の郡奉行として送り込まれた南部師行である。八戸に“北の鎌倉”を建設した南部氏は清和源氏義光氏の末裔で頼朝公御家人甲斐国波木郷の人、由緒正しき系統である。出所不明の安藤氏とは比較できない。南部氏の入植によって、常滑や瀬戸の陶器が東海地方からもたらされ、糠部郡の名馬が多数、甲斐・東海地方へ運ばれた。
史書によれば、南北朝時代(−1392年)、安藤氏は北朝、南部氏は南朝であったと言う。この時代に中央政界から新勢力が送り込まれ、南朝側に擁立された北畠氏系の波岡北畠氏が油川を含む外が浜を所領した。南北朝統合後、安藤氏は十三湊安藤氏(下国安藤氏)と秋田湊安藤氏(湊安藤氏)に分かれ、地元代理職ポストから中央直属の蝦夷管領職に出世して、蝦夷地政策を益々独占できるようになった。その頃南部氏は少しずつ南津軽地方に勢力圏を広げていた。安藤、南部、北畠の3勢力は、それぞれ南北朝の混乱期を乗り切ったが、アイヌの勢力圏は縮小していったと思われる。
出発地の常光寺から平館まで約40キロメートル。日記には書かれていないが、途中、蟹田の観蘭山あたりで弁当を使ったかもしれない。ところで、太宰は小説「津軽」の中で、蟹田−平舘−今別−三厩と続く松前街道と安藤氏伝承について薀蓄(うんちく)を語っている。その冒頭部に書かれているように、“弘前城下の人々にとって津軽半島突端の三厩や今別、そこへ至る外が浜は近くて遠い存在”である。津軽平野北部生まれの太宰も30歳を過ぎてから初めて津軽半島1周旅行をして「津軽」を書いた。文吉にとっても、函館・北海道はもちろん外が浜も初めての土地であった可能性は高い。小説「津軽」の中で、太宰は蟹田のS氏から津軽人らしい“疾風怒濤のごとく熱い接待”を受ける。もし遠方から客人を迎えて接待する機会があるならば、この場面描写は大いに参考(反省?)になる。是非読んでほしい。文吉の時代に、太宰が蟹田で堪能した卵味噌のカヤキがあったかどうかはわからないが、干し鱈は文吉も食べたに違いない。そして、宿営地の平舘では、うに、なまこ、カニなど陸奥湾の海産物が振舞われたと想像できる。
文吉らが蝦夷地へ派遣された直後、蟹田に大筒台場が設置された。油川と平舘、三厩の番所には鉄砲が備えられた。後年(1848年)、平舘に西洋式の砲台が作られた。
蟹田付近には、安藤氏ゆかりと伝えられる尻八館跡や波岡北畠氏系譜奥瀬氏の居城と伝えられる蓬田城跡がある。帰省時によく利用する新城川沿いのタラポッキ温泉には炭焼き安藤太伝説が伝えられている。
南部氏との継続的な抗争に敗れた十三湊安藤氏は、十三湊陥落後、夷が島(北海道南部、函館付近)へ逃れ、破壊された十三湊と安藤氏政庁がその後再興することはなかった。十三湖が遠浅であることも影響して、十三湊の海運業は次第に小型船による地域内輸送に限られるようになった。その結果、アイヌと和人の交易地は外が浜の油川付近に移った。
6月4日(続き)
午後4時ごろ、佐竹様(秋田藩)の軍船6艘が揃って函館へ着陣、軍勢・軍馬ともに上陸し、海浜で少憩ののち、夕方、行列で函館郊外の亀田という所に仮陣屋を急造してその夜を過ごし、翌日から本陣屋設営の手配をされた。そのとき、津軽方からいろいろな品物を贈られた。当日の御行列は拝観した。
6月6日
南部様(南部藩)の軍勢が軍船4艘で到着した。そのあと庄内酒井左衛門様、仙台様(仙台藩)、会津様(会津藩)の軍勢も追々着船したが、せいぜい家数千軒の場所へ1万4千人余の軍勢が駐屯することになり、函館付近の広野へ仮陣屋を建設して駐留された。ところが、町家の者どもはその物々しさに恐れをなしたか、店を開くものもなく、商売をやめて戸を閉めきっていた。
函館表には公儀御役人がお詰合になっているので、諸家様から使者をもって到着の申告をされた。いずれも陣羽織着用と見受けた。
2010年現在、松前町の人口は約1万人、函館市の人口は約29万人である。松前詰合日記が書かれた頃の松前城下の人口は6000〜7000人、函館は2000〜3000人だったと推定されている。松前藩の和人は全部で世帯数8800、人口31700人。そこへ集まった軍勢は、弘前藩 863人、盛岡藩1242人、久保田(秋田)藩591人、鶴岡(庄内)藩318人。仙台藩、会津藩の主力は半年ほど後にエトロフ、カラフトなどの担当地域へ派遣されたが、それぞれ2000人、1600人。総数で7000人ほどである。弘前・盛岡両藩はすでに10年以上にわたって蝦夷地警備を担当し、1793年に弘前藩281名(松前)、盛岡藩379名(松前)、1798年に弘前藩500名(函館)、1799年に弘前藩500名(砂原、浦河、エトロフ)、盛岡藩500名(根室、国後、エトロフ)が蝦夷地に配置されていた。
秋田藩が仮陣屋を築いた亀田は函館市亀田港町、JR五稜郭駅付近と思われる。そうすると、文吉一行が借り上げた函館山の高龍寺(函館市船見町)からの距離6キロメートルを、仮陣屋の設営を見届けて贈答品を渡すために往復したものと思われる。日記によると付近の小寺にも滞在したということなので、実行寺、称名寺、善福寺など高龍寺に隣接する寺々が使われたと思われる。高龍寺、称名寺は戊辰戦争時に土方歳三ら新撰組残党を含む旧幕軍の宿営地となっていたことで有名である。文吉らが宿営したのはその60年前だった。動員された諸藩は、そろって函館表の幕府ご公儀役人に到着の申告をした。ご公儀役人は、函館奉行・羽太正養である。
ところで、ご近所付き合いで秋田藩へ挨拶に行ったようだが、秋田藩だけだったのだろうか?南部・盛岡藩とはやはり仲が悪かったのか?日記からはわからない。
1590年(天正18年)に豊臣政権から領地安堵された弘前藩祖・津軽為信は、南部氏一族である。しかし、このことは弘前藩のタブーであり、否定されるべきことだった。通説では、南部系譜が隠された理由は、南部側が「津軽氏は南部の謀反人であり、秀吉の全国停戦命令(惣無事令)に違反する処罰対象」と訴えたため、と言われている。しかし、天下人の意向は謀反人如何のみで決まったわけではない。小田原へ直参することの方が重要だっただろう。下剋上がまかり通っていた戦国時代のことである。本当の理由は別にあったと考えたほうが賢明だろう。津軽為信の中央政界での評判は余り良くなかったようだが、秀吉は朝鮮へ攻め込む準備に忙しかった。“田舎の面倒な同族争いだが、勢力均衡しているようだ。為信は鷹などたくさん贈り物をくれた、まあ、認めてやろう。その代わり、太閤蔵入り地を多めに設定して年貢をたくさん頂く。再度争いを起こしたら取り潰す”、これが天下人の本音だったに違いない。
弘前藩の公式歴史書「津軽一統志」(1731年頃成立)をはじめ、幕府官選系譜「寛永諸家系図伝」、明治初期の「陸奥弘前津軽家譜」では、“津軽氏初代は、前関白・近衛尚通が外が浜を暦覧した際に大浜(青森市油川)に居住し、その後大浦光信の娘との間に生まれた子政信、津軽氏の本姓は奥州藤原氏であり、政信の孫が為信である”とされている。近衛家ご落胤の初代津軽氏が油川で生まれている(生まれた事にしている)。油川が津軽家にとって重要な土地であったこと、そして、油川に信頼できる係累があり、ご落胤伝承の反証を突きつけられる心配がなかったことを示唆している。とは言え、近衛氏のご落胤・政信は架空の人物である。津軽氏は、秀吉没後の政治的混乱期を乗り切るために近衛の家系図を獲得し、京都および上方、宮廷の情報収集に利用した。戦国大名の公式家系図では、津軽氏のような強引な権威付けが示されている例は珍しくない。
一方、安藤氏の家系図では「安日」がその開祖に位置付けられている。安日は神武東征の際に滅ぼされた神話上の人物で、神武天皇に敗れて外が浜へ追放されて蝦夷になったとされる。系図には、他にも朝敵とされる「高丸(アテルイか?)」、前9年の役で源頼義・義家勢に討伐された「安倍氏」などが連なっている。安藤氏の場合も、家系図は後から作られたものであり真実ではない。しかし、自らに朝敵・反逆のイメージを植え付けている点で異端である。
津軽氏が作り上げた系譜は、「安倍」に連なる奥州藤原氏の土着性と宮廷の権威をブレンドしたものである。南部血統の否定は、安日、安倍、安藤が共有する土着性と関係がありそうである。
南部氏一族で久慈出身の大浦為信が、いかにして南部支配への悲劇の抵抗者(「津軽一統志」では津軽氏先祖は南部守行によって幽閉されたことになっている)の末裔・津軽為信へと転化を遂げたのだろうか?津軽氏・弘前藩と南部氏・盛岡藩は、共に蛎崎氏・松前藩の成立に決定的な影響を与え、その後も蝦夷地警備に深く関わった藩閥である。勤番地のエトロフでさえ、その仲の悪さを揶揄された遺恨の原因を(日記の主題から少々外れるが)、掘り下げてみたくなった。
15世紀中ごろ南部家当主・南部守行は3人の子息の末弟である家光を金沢城(現在の弘前市)に置き、津軽穀倉地帯の支配を目論んだ。南部氏の統治は、年貢米で領国経営を賄う重農主義的な支配体制(米本位主義)であった。そのため、太平洋側の八戸に入植以来、豊穣な津軽平野の穀倉地帯は垂涎の的だった。通常、支配層が入れ替わっても農民の置かれた立場は基本的に変わらない。厳しい年貢の取り立てか、もっと厳しい取立てかの違いである。しかし、「安藤」から「南部」への支配層移行は農民・漁民の暮らしに相当な変化をもたらしたと想像できる。安藤氏は十三湊商品交換所での手数料を基盤にした重商主義的な支配体制を敷いたと推察できる。蝦夷地⇔十三湊⇔上方の三角貿易の交換レートを適当に調節して収入を確保したのである。年貢に似た仕組みもあっただろうが、交換レートを有利に維持するために米の供給過剰を控えただろう。津軽平野産の米・酒をなるべく高値でアイヌの毛皮と交換し、アイヌの毛皮をなるべく高値で上方に売り、利ざやで上方の木綿などの工芸品と銭を得るのが要点である。農民側も(悪いレートの時もあっただろうが)、紙や砂糖、木綿と交換できる(交換したい)量の米を提供したと想像できる。
1442年十三湊は陥落した。しかし、陥落後まもなくして、南部家光は土着民の叛乱により金沢城で自害した(南部家光自害の正確な年代は今も不明である。この“金沢城事件”は、津軽氏、南部氏双方にとって非常に都合の悪い事実であるため、両家の記憶から抹消されている)。津軽平野での急な統治システム変更が上手く行くはずがなく、安藤氏残党と背後の津軽蝦夷・蝦夷地アイヌ勢力の影響力を完全に排除することが困難だったと思われる。結局、南部氏は安藤一族の中から外が浜の潮潟安藤師季を選び、形式的に安藤家を継がせて傀儡政権を敷くことにした。一方、宗家・十三湊安藤氏の康季・義季父子は松前へ逃れた。松前で態勢を立て直した2人は、津軽奪回戦を挑み内陸部まで侵攻したが、奮闘むなしく花輪郡大浦郷で南部の大軍に囲まれた末に滅亡した(1453年)。
しかし、安藤の逆襲はこれで終わらなかった。(つづく)
6月11日〜7月9日
露船がこのほど西蝦夷地へ乗り廻し乱暴を働いている旨、蝦夷どもから注進があったということで、わが藩はソウヤ(宗谷)という場所へ,諸手物頭貴田十郎右衛門指揮下の200名余名が、先月から順次函館を出立していた。ところが、さらに増派の命令が出て、6月11日、急に百人の増派が決まり、32,3人ずつ3度に分けて出発することになり、陸路宗谷へ向った。そのとき勘定人加勢田中才八郎が道中の責任者となり、拙者もこの隊に加わって行軍した。大組足軽、諸手御持筒足軽、御城付足軽、長柄の者、御持槍、掃除小人まで合計32人で出発したが、道中日数26日ぶり7月9日(陽暦8月12日)宗谷へ到着した。
函館へ到着して6日後に宗谷への移動が決まった。6月4日の日記に書かれているように、この間、ご公儀や近隣藩へのご挨拶や宿営地の営繕などで忙しかった。西蝦夷地を乗り回し乱暴を働いたのはロシアのフォストフ等で、この年の4月末にエトロフを襲撃したのと同一船隊である。5月21日から22日にかけて樺太南部の町クシュンコタン、ウルタカ等を襲い、29日には礼文島で商船積荷を掠奪、6月2日には利尻島の番所を焼き払い、5日退却した。宗谷への増派はこの事件に呼応した行動であった。
北海道縦断、26日間。簡単に書かれているが、毎日40キロメートルを20日間以上、歩くのは、現在の陸上自衛隊員にとっても厳しい行程である。しかも、クッションの利いたゴム製の靴など無かった時代のことである。武士も郷夫も、よほど普段から長時間歩くことに慣れていたと思われる。私の場合、歩いて観光するのが好きだが、1日5時間x3日間が限度である。それ以上続けると、毎度膝が痛くなって足を引きずることになる。
ところで、ロシア船隊の本来の目的は攻撃ではなく、ロシア皇帝の命により鎖国日本と通商関係を結ぶことだった。ロシア人は遥か遠くのヨーロッパから、北海道へどうやって到達したのだろうか。文献6によると、大よそこんな展開だったそうだ。
[文献6の要約] 津軽平野で安藤氏が南部氏に追い詰められていた頃、モスクワでは、モスクワ大公国がモンゴル(タタール)の支配から独立を果たした(1480年)。周辺地域を吸収したモスクワ大公国はやがてロシア帝国となり、16世紀後半から東進(東部シベリアへの領土拡大)を始めた。そして、わずか100年程で北太平洋岸に達した。ロシア極東第2の都市・ハバロフスクに名前が残るハバロフがアムール川の下流域を探検し(1649年―1652年)、カムチャツカ半島にアトラーソフが到達したのが1697年、コズイレフスキーが、カムチャツカ半島の南にクリル第1島(シュムシュ島)を発見したのは1711年だった。シベリアの気候の厳しさ、交通の不便さ、先住者との闘争などを考えると、驚くべき速さであり、先住民への圧政以外については、正しく探検家の偉業と言える。
17世紀中頃には、ロシア支配層と探検家は日本列島の存在に気が付いていた。彼等は、コロンブスが西回りインド航路を開拓しようとしたのと同じ理屈と動機で北回り(シベリア経由)日本航路を開拓しようとした。ロシア皇帝が、シベリア経由日本ルート開拓を命じたのは、実に、1702年(ピョートル1世)のことで、文吉の時代の100年も前だった。
シベリアを横断して太平洋に到達したアトラーソフやコズイレフスキーらロシア探検家は、2つの困難に直面した。1つは海水で、もう一つは大清国だった。陸路で南へ行けば、朝鮮王国と日本へ到達できることはわかっている。しかし、アムール河口域およびアムール川以南が清国勢力圏であったため、安易に南ルートを取ることは出来なかった。たびたび強引な命令を出すモスクワの支配層も大清国を刺激することは恐れていた(ネルチンスク条約)。また、10世紀のバイキング並のシーチク舟では、クリル第2島(パラシムル島)より遠方へ進むことが出来なかったのである。
海水が行く手を阻み、探検の進行速度は極端に遅くなった。しかし、航路開拓の情熱が冷めることはなかった。遠洋航海を可能にするために、大型帆船建造施設と要塞がシベリア極東のオホーツクに建設され(1716年)、次いで同様の造船施設がカムチャッカ半島南部のボリシェレツクやペドロハバロフスクにも建設された。1716年に大型帆船(全長約20メートル)をオホーツクで建造したコレソフ、その新造大型船でクリル第6島まで到達したモシコフら、探検の主役は遠洋航海士が担うことになった。1725年には、ベーリングが自らカムチャツカ川河口で大型船2隻を建造し、ついに1733年、彼はシュスタコフらと共にアラスカに到達した。
ベーリングの成果は北太平洋探検の学術的かつ経済的価値をモスクワの支配層・エリート層に確信させるに十分なものであったので、より大規模な探検隊を編成することは困難ではなかった。ベーリングを隊長として、科学アカデミー教授3名と学生6名を含む総勢約600名の北方大探検隊(第2次ベーリング隊)が結成された。北方大探検隊は、1733年ペテルブルクを出発、翌年、極東シベリアの州都ヤクーツクへ到着、1736年末にオホーツクに到着した。北方大探検隊の目的は3つあった。
1.北アメリカ太平洋岸の発見(と権益確保)
2.クリル諸島から日本への航路開拓(と通商関係の樹立)
3.白海からベーリング海峡を経てカムチャツカ半島へ至る北極航路の開発 (遠大な北極航路開発計画は、現在も進行中である)
1737年、オホーツクでブルガンチン船1隻、ダブル・スループ船1隻が建造され、それぞれ北アメリカ太平洋岸、日本を目指して出航した。1740年には、砲14門を備えたバケットボートが追加建造されベーリング率いる北米ルートへ投入された。日本航路開拓はベーリングの部下シパンベルクに任された。(つづく)
7月10日〜7月13日
宗谷に先着のわが藩兵は陣屋を2棟建てていたが、さらに2棟を建設することになり、到着早々翌日から直ちに手伝うよう命ぜられ、材木運搬の人夫がわりや野芦の刈り取りに着手、あるいは井戸掘りの手伝い、大工の助手など、まるで土木工事の人夫代わりとして毎日出勤した。雨天となっても雨具がないので、ことに一同は難儀した。山働きをするにも仕事着を持参していないので、ほとほと困った。諸組足軽以下小人にいたるまで働いたが、郷夫は重労働を主として派遣されたものであるから、これらは山中に入って薪炭材の伐り出しに従事した。
宗谷詰の公儀御役人は調役鈴木甚内様、下役衆3人、そのほか家来、会所支配人・通詞・番人とも12人ほど駐在しているようであった。その会所は芦ぶきの横長屋が1棟、板蔵2箇所、木部屋のような小屋2箇所と、蝦夷の家が8軒ある。いずれも屋根は芦ぶきである。
津軽陣屋は追々建設が進んで5棟が出来上がり、前記の貴田十郎右衛門が総頭役で、その下役は勘定小頭山崎半蔵、勘定人伊東友衛・斎藤久司、ほかに大筒役2人、足軽目付け成田勝右衛門、以下大組御持筒、諸手御城付長柄、ならびに御持槍、掃除小人、杖突、鳶の者、御大工、町大工、郷夫など200人余りのところへ増援の100人が駐屯したのである。
宗谷に到着して早々に陣屋の建設作業である。「材木運搬の人夫代わり、まるで土木工事の人夫代わり」と、この日記の中では珍しく不満そうな記述がみえる。総勢2,3百人が5日で陣屋を2棟(最終的に5棟できているので、新規建設は3棟か?)建てた。1棟に50人ほどが滞在する規模の建造物を、ホークリフトも電動ノコもドリルもない時代に建設するのは、重労働だったろう。釘、鎹など最低限の建設資材は用意されていたのだろうか?日記の記述からは詳しいことはわからないが、鳶職と杖突(測量士)、町大工が同行していることから、建設作業は事前に計画されていたと考えられる。陣屋建設の主力となったのは、やはり動員されたこれら職人、農民だっただろう。士族階級の文吉は不満が言えるだけましな境遇だった。
宗谷のご公儀調役とは函館奉行直属の配下のことである。函館奉行は、フォストフらの礼文島、カラフト南部およびエトロフ島での蛮行に対抗して、諸藩に派兵を命じた。函館(盛岡藩342人、久保田藩591人)、砂原(盛岡藩30人)、浦河(盛岡藩100人)、厚岸(盛岡藩130人)、根室(盛岡藩130人)、国後(盛岡藩380人)、松前(盛岡藩130人、弘前藩333人、鶴岡藩318人)、江差(弘前藩200人)、宗谷(弘前藩230人)、斜里(弘前藩100人)。宗谷の陣容は、幕府12名+弘前藩200余名。
江戸時代を通じて、東北地方北部では稲作の冷害が頻繁に発生した。この年、冷害は特に広範囲に影響し、南の仙台藩でも窮民救済のために米の払い下げが行われた。飢饉でたびたび餓死者を出す貧乏藩にとって、北方警備(対露、対英)は不相応なくらい荷が重い。斎藤家の養子となった文吉が生まれた頃、津軽平野では天明の飢饉があった(1784年)。養子になった年齢や経緯はわからないが、天明の飢饉と何か関係があるように思えてならない。
−(前述の続き)松前へ逃れた宗家・十三湊安藤氏の康季・義季父子は1453年に津軽奪回戦に挑み、内陸部まで侵攻した後、奮闘むなしく花輪郡大浦郷で南部の大軍に囲まれた末に滅亡した。
しかし、安藤の逆襲がこれで終わることはなかった。−
宗家の壮絶な戦いに触発されたのか、翌年、安藤師季は下北の蛎崎氏と共に各地の浪人らと決起し、南部氏から逃れ松前へ渡った。その後、秋田湊安藤氏の支援を受け、1456年までに男鹿半島、河北郡、さらに深浦、小泊など西津軽・北津軽の港湾を勢力下に置き、海上ルートを確保することに成功した。つまり、かつての繁栄の方程式(=十三湊安藤氏)は部分的にではあるが復活した。更に師季は、1468年、津軽半島内陸部から陸奥湾岸の外が浜、下北半島北部に至る旧安藤領の回復を願って津軽奪還戦を開始した。しかし、内陸部を制することは出来ず、秋田県北部に新領地を得ただけであった。
安藤師季が秋田北部に去った後、松前では、海運商人出の武田氏と下北土着豪族蛎崎氏の間で勢力争いが発生し、結局、蛎崎氏を血縁相続した武田氏が優勢となって松前氏の元祖となった。蛎崎氏は、その統治の正当性を安藤氏から任命された守護職に置いていた。そのため、秋田北部に居住する宗家・安藤氏と蠣崎氏は主従関係にあった。松前を去った後も、安藤氏は松前領内へ入湊する船への徴税権を所有した。ちなみに、この徴税権が安藤氏から蠣崎氏に完全に移ったのは、蠣崎氏が豊臣大名として認知された後であった。以上の背景を踏まえると、安藤の名前は残らなかったが、松前藩は安藤氏の系譜であると言える。実際、天正6年(1579年)、秋田湊・安藤愛季と南部勢が平賀郡で戦った時、安藤愛季は蠣崎氏に動員を求め、蛎崎氏はそれに呼応して外が浜側から加勢した。(つづく)
7月14日
宗谷に松前藩の家老松前将監が大将で150人ほど、先日到着したということで出張しており、魚小屋に滞留していた。ところが、カラフト島の沖合に当たって鉄砲の響が遥かに聞こえたので、急に小船に飛び乗り、7月14日朝大筒を積み込み、カラフト島めがけ8,9艘で馳せつけた。朝7時ごろであったので、その乗船行列を見物した。
この事件につき公儀役人衆からお達しがあったので、わが方では小高い丘に遠見番所を築造、沖合間近へ大筒を備えつけ、非常の手配を固めた。そうしているうちに沖合で大筒の響が聞こえたので、わが方でも大筒を発射させた。しかし、翌日昼頃には砲声もとだえた。遠見場所へ昼夜とも交代で勤務した。そのほか風廻り、夜回りなど、この4日間は昼夜とも武装して勤務した。
松前藩の一行は、カラフト島へ駆けつけたが外国船は見えなかったので、それから松前へ帰ったという。もっともそのころ松前家の国替え命令が発せられた旨の連絡があったので、カラフト行きの一行は松前表へ引き上げたのだそうである。
安藤氏系譜の蛎崎氏松前藩はお家存亡の危機にあった。幕府が、松前藩を転封し、蝦夷地を直轄する方針を固めたからである。
江戸時代、松前藩の参勤交代は6年に一度に減免されている(通常は毎年)。これほど参勤交代が減免されている例は他に無く、次は対馬藩の3年に一度であった。減免の第一の理由は地理的な配慮だったと思われるが、石高(表高)0の財務状況も考慮されていたのかも知れない。石高は幕藩体制を支える重要な米本位制経済統計であり、政治的にも影響力が大きい基準だった。ご承知のとおり、大名が江戸で将軍に謁見する際の席順(将軍までの距離)から、下級武士の地位、給与まで石高で規定されていた。文吉の禄は30俵2人扶持外10俵であったらしい。1俵60kg、1石150kgとして、12石+4石=16石。末端の平侍であることがよくわかる石高である。世襲制度が透徹していた江戸時代だが、文吉の実父のことはよくわかっていない。斎藤家の養子となり、藩学校の小使いから武士としてのキャリアーが始まったらしい。達筆な日記原文から推察して、おそらく文吉も通ったであろう藩学校での成績の良さを買われて、学校関係職に採用されたのだろう。残念なことに、藩学校稽古館の経費は、幕府からエトロフ島を含む東蝦夷地の警備を命じられた1799年に6分の1に減額されている。教育事業の縮小に伴って藩学校勤めから足軽諸組に配置換えになったのかも知れない。
和船(千石船、弁財船、北前船など)による長距離航海術は、すでに江戸時代初期に江戸―蝦夷地間の直接貿易を技術的には可能にしていた(参考文献10.「和船 I」、「和船 II」石井謙治、1995年、法政大学出版局)。実際1688年、水戸藩は快風丸で石狩まで航行し、塩引鮭を作り、江戸へ運んで販売している。しかし、その後積極的な北海道開拓が進むことなかった。蝦夷地経営が松前藩に一括委託され、その松前藩には開拓を進められるだけの資力と食糧生産力が無かったからである。
日記に書かれているように、松前藩は国替え命令により陸奥の国梁川(福島県北部)へ転封された。松前藩は、江戸幕府の支配力が直接及ばない蝦夷地の管轄権を藩経営の原資としていた。江戸の影響が及ばない独自の世界を経営していた点で、琉球との密貿易から利を得た薩摩藩及び朝鮮王国と幕府の双方と通じて利権を確保した対馬藩は、松前藩に似ている。しかし、政治的状況は似ていても、経済的には松前藩が最も貧しかった。薩摩藩あるいは対馬藩の場合、琉球・朝鮮との交易、交渉の背景に、清国が存在した。自藩と清国、江戸(あるいは大阪)、この3つの世界の差異を利潤の源泉とすることができた。松前藩の場合も、清国北部との間で、そのような3角交易が可能であった(交易品の一つだった蝦夷錦(中国産の絹織物)が本州最北部や北海道内に多数現存している)。しかし、交易の原資となるべき松前藩の自力生産力がほぼゼロだったため、南の琉球・朝鮮ルートと比べ交易規模は遥かに小さいまま停滞した。松前藩の収入は蝦夷地での商権、特に漁業権の販売に依存していた。請負業者の飛騨屋などに漁業権を販売することによって、米を含む消費材購入費、城閣の維持費、更に江戸での生活・交際経費を賄っていた。飛騨屋からの貸し付けは右肩上がりで増えつづけ、他方、松前藩の財政の自由度はなくなっていった。飛騨屋は貸し倒れ倒産することなく経営を続け、松前藩は借金を返すために借金を繰り返すことができた。これは、一見おかしなことである。借金まみれの松前武士と彼等に貸し続けた飛騨屋の2者両立は、蝦夷地の豊富な漁業資源とアイヌの安い労働力(の使い捨て)によって成立していたのである。松前藩の存立は、秀吉に認めさせた蝦夷地交易の独占権(出入りする船に税金をかけること)に完全に頼り切っていた。もし松前・蛎崎氏が、中世の安藤氏のように津軽・下北および能代地方と一体化した勢力圏を持っていたら、加賀など北陸の大名には遠く及ばなくとも、一定の余剰生産力を持って(対露・対清)密貿易を盛んにやったに違いない。しかし、それは出来なかった。元々、石高0の松前藩に輸送船などの生産財を作る原資はなかった。しかも、大名の格式を守るため諸々の品々を上方から購入しなければならず、常に現金の必要に迫られていた。
幕府高官で最も積極的な蝦夷地政策をとったのは老中、田沼であったらしい。開墾可能性を議論し、580万石と試算した。一石150キログラムとして、87万トン。品種改良と育苗技術、害虫防除、化学肥料、灌漑設備などが発達した現在、北海道の米の生産量は約60万トンである。減反分を加味し、畑作を含めた耕作可能面積を表現すれば、田沼の試算は妥当な数値といえる。1785年、田沼は、〆粕、魚油の直接交易にも乗り出した。2000両(約2億円)をかけて850石の帆走弁財船を2隻(神通丸、五社丸)建造し、1年で800両の利益が出たという。
船の大きさを示す石単位は計算が少々難しい。石は米の一定量(10斗=100升)を言う。従って、石は、米をどれだけ積めるかという重量トン単位である。米1石は40貫で、約150キログラム。実際に米で重さを測定するのは大変なので、換算式(石数=船底の長さ x 舟の横幅 x 舟の深さ÷1石の容積 x 係数)が利用されていた。係数は舟の型によって0.6−0.9の値になる。田沼が蝦夷交易に使った弁財船850石はおよそ128トン、全長20〜25メートルの大きさに相当する。
田沼の失脚によって中断した蝦夷地開拓は、東蝦夷地が直轄領化された1799年に再開された。
弘前藩と盛岡藩に蝦夷地警備を任せた幕府であったが、エトロフ航路の開拓と海産物交易については、意外にスマートな方法を取った。ヘッドハンティング。高田屋嘉兵衛は、まだ30歳前後の持ち船のない雇われ船頭であった。元は淡路の漁師であったが、樽廻船(上方と江戸を往復する商船)の水夫になり、実力を認められて、雇われ船頭に出世し、北前航路(日本海航路)の買積み船経営で資力を蓄えていた。幕府に能吏が居たようで、蝦夷地経営のための御用船の建造・運航と交易の実務を行う担当者として、高田屋嘉兵衛を採用した。採用条件は「3人扶持手当金27両、苗字帯刀御免」であったそうだ。幕府水軍の軍船乗組み員の指導も要請されている。幕府は更に、資金を拠出して1500石の辰悦丸を買い取り、嘉兵衛の持ち舟第1号として使わせた模様である。次第に経営規模を拡大した嘉兵衛は、弘前藩、南部藩にそれぞれ1艘ずつ軍船を提供している。文吉が函館へ赴任したとき、あるいは帰国時に利用した船は、高田屋嘉兵衛が提供したものかもしれない。エトロフ航路が高田屋らによって開拓される以前、和人の船は釧路・厚岸あたりでアイヌと交易するのが通例で、それより遠方は専らアイヌの蝦夷船による物流に頼っていた。
交易推進の他、伊能忠敬による蝦夷地の測量、厚岸での国営寺院(国泰寺)の建立、間宮林蔵によるカラフト探検などが、いずれもこの時代に政策パッケージとして行われている。幕府が露寇騒動の顛末を記録した休明光記によれば、1803年頃のエトロフ島人口は1100人ほどで、エトロフ島周辺での漁業規模は5万石に相当したらしい。エトロフのシャナ(遮那)には、弘前藩と盛岡藩の陣屋勤番兵の他、会所支配人、通詞、帳役、番人、大工、木挽き、船大工、鍛冶、酒造人等が居住していた。同島南部のナイボ(内保)には番小屋があった。
7月16日〜7月29日
7月16日、急にシャリ(斜里)という場所を100人で警備する命令が出たが、その人員は宗谷詰合のうちから派遣するとのことで、その準備を仰せつけられ、一番立ちは7月18日と決まりまたも勘定人加勢田中才八郎を隊長として1隊30人が宗谷を出立、宗谷から77里も奥地の斜里へ向うことになった。そのとき拙者は道中小頭役を仰せつけられた。1番隊の人数は次のとおりである。
大組足軽:工藤茂兵衛、福士長十郎、藤田伊三郎、小笠原小太郎
御持筒足軽:高橋 兵司、神 藤吾
諸手足軽:藤田 茂八、対馬治吉郎
御城附足軽:成田 栄次郎
御持槍:土岐 専司、葛西 善弥
御大工:小笠原茂八郎、吉村次郎兵衛
鳶:団六、巻八、乙右衛門
町大工:忠助、兵七
郷夫:藤崎村酉之助、飯詰村善右衛門、同村次郎八、鼻和村次左衛門、広田村万次郎、長峰村万五郎、尾上村長助、中泉村五兵衛、十三町喜助、同藤三郎、同石五郎、金井沢伊助
合計30人、着替荷物をそれぞれ包みにし、各自の名前を書いた木札をつけ、藩船八幡丸に御武器のほか米、味噌や酒も少々積め入れて廻送した。なお、宗谷から斜里までの宿泊については、先触れに蝦夷人夫を雇いあげて派遣したが、道中12日ぶりで、7月29日(陽暦9月1日)、斜里という場所へ到着したのである。
工藤、福士、神、成田、葛西など、今も青森・弘前方面でよく見かける苗字である。第1隊の30人には含まれていないが、最終的に斜里へ派遣されたおよそ100名の中には、花田、鳴海、佐々木などの名前も見られる。7月9日に宗谷到着、宗谷で陣屋を建設した直後の18日に斜里へ出発している。「急に命令が出た」と日記に書かれているが、予め日程が組まれていたとしか言いようのないスケジュールの詰まり方である。藩船の八幡丸が都合よく就航していることも、斜里への派遣が最初から計画されていたことを窺わせる。日記に「宗谷から77里も奥地の斜里」と書かれているように、当時の地理認識では、斜里は蝦夷地最奥の地であった。なぜならば、松前・函館から東廻りで行っても、西廻りで行っても、同じように最も遠方にあったからである。偶然かもしれないが、文吉は斜里への行軍中に小頭役に昇任している(係長級と思われる)。このタイミングを狙っての昇任は人心掌握のための人事とも考えられ、関係者の苦労がいろいろと想像できる。
日記に「米、味噌に加えて酒も少々廻送した」とある。米、味噌は十分な量が確保されていたのだろう、そうでなければ酒を送る余裕などなかったはずである。食糧のカロリー(熱量)は足りていた。斜里越冬隊の多くはビタミン欠乏症(壊血病)で死んだのだ。
現地アイヌを雇用して、宿泊場所の予約業務を依頼している。宗谷の通詞を介して、アイヌへの業務依頼、通貨の支払いが行われたことを示す。寛文の蝦夷蜂起(1669年)の時、弘前藩は自領内のアイヌの中から通詞を選抜して準備した。その後130年を経て、本州アイヌは和人への同化が進み、おそらく通詞ができないほど言語も和人化していたのであろう。
寛文蝦夷蜂起・シャクシャインの乱(1669年):松前藩は弘前藩に協力を求め、弘前藩は積極的に対応した。弘前藩と松前藩とは江戸藩邸で事前交渉を行う一方で、幕府の指示を根拠とした派兵とする手筈を整えた(江戸での交渉中、情報収集のため松前城下へ弘前藩先遣隊が送り込まれた)。幕府は「軍勢を松前氏一族の旗本指揮下に組み込み、必要なときには秋田、盛岡藩にも加勢させる」決定を下した。弘前藩援軍を形式的に幕府指揮下に置き、(おそらく)弘前藩の独走を抑えるために秋田・盛岡藩の追加派兵に含みを持たせたのだろう。ここで、時間を遡って十三湊陥落の頃に戻る。
−(前述)1454年、南部氏傀儡の安藤師季は下北土着の豪族・蛎崎氏、各地の浪人らと決起して、松前へ渡り、十三湊安藤氏(下国安藤氏)を復活させた。そして、秋田湊安藤氏と協力して男鹿半島、河北郡、さらに深浦、小泊など西津軽・北津軽の港湾を勢力下におくことに成功した。これは、海上ルートの確保による、かつての繁栄の方程式の部分的な復活であった。−
下北土着の豪族・蛎崎氏の素性は安藤氏以上によくわからない。正にどこの馬の骨かわからん、という類である。ただ、安藤師季が松前へ逃れたのと同じ頃、蛎崎氏の勢力圏であった田名部地方が南部氏によって攻略されている。従って、この2人は似た境遇に置かれた者同士であった。十三湊陥落後、玉突き衝突のように混乱は松前へ転移し、そこに住むアイヌの強力な反発と抵抗闘争を引き起こした。混乱の末、下北半島に交易に訪れていた若狭の商人出と伝えられる武田信広がアイヌ勢掃討に成功し、安藤師季の娘婿となった。その後、信広は(おそらくライバルを蹴落として)松前氏の始祖(蛎崎信広)となることを安藤宗家に認めさせることに成功する。蠣崎・松前氏の登場により、蝦夷地の南端にアイヌを排除した“和人地”が出現することになった。そして、和人とアイヌの主要交易地(和人地の北端とアイヌ勢力圏の南端が接するところ)は徐々に松前・函館地方へ移動していった。しかしながら、和人の松前進出に抵抗するアイヌの騒乱(コシャマインの乱)は1530年頃まで北海道南部で断続的に約70年間続き、松前・函館周辺の和人商館はたびたび攻撃を受けた。
1669年、松前藩は、本来なら旧宗家に当たる秋田安藤氏に援軍を頼みたいところだっただろう。しかし、既に秋田湊安藤氏は水戸の佐竹氏との交換によって関東地方へ転封されていた。意外なことに、安藤の宿敵・南部氏一族である津軽氏・弘前藩は遠い存在ではなく、蛎崎氏が内々に相談できる相手であったようだ。
弘前藩側は純粋に援軍を送るだけでなく、この騒乱に乗じて蝦夷地への勢力拡大も画策していたものと思われる。松前藩側も弘前側の過剰援軍を警戒していた。救援部隊派遣後、弘前側は、和人地を越境して蝦夷地内部へ進軍することを再三要請したが、松前藩はこれを頑なに了承しなかったそうだ。弘前藩が幕命を拝して蝦夷地に派遣した人数は500人程であった。しかし、弘前藩内では、杉山八衛隊、津軽喜左衛門隊、津軽左内・大道寺宇左衛門隊、総勢1600人余りを用意し、更に、藩主信政自ら旗本を引率して出陣する準備をしていた。松前藩を丸ごと吸収合併するか、松前藩の影響がまだ及んでいない奥蝦夷地へ独自の勢力圏(密貿易圏)を構築することを目論んでいた可能性がある。仮に越境掃討戦によって戦線が拡大すれば、これら本隊が派遣された可能性があり、北海道の歴史は変わっていたかも知れない。寛文蝦夷蜂起の際に、弘前藩が松前藩に貸与した鉄砲50丁の貸出契約書が弘前城辰巳櫓(天主閣)に展示されている。複製だが、一見の価値がある資料だと思う。(つづく)
8月1日〜8月11日
斜里には、公儀御役人調役下役最上徳内殿、金井泉蔵殿の両人が在勤しており、その会所が設置されていると、下役の者から知らせがあったので、津軽家人数到着の旨を報告のため、田中才八郎が上下四人で参上した。ただちに支配人ということで町人風の者が二人出て来て、海岸にある漁小屋2ヶ所を片付け、三間に九間(27坪)の小屋、ここに落ち着かれるようにというので、真っ先に小屋に入ってみたところ、急に板を打ち付けて作ったもののように見え、莚を敷きつめてあった。午後2時ごろのことであった。まずはわれわれ当分の住居になるのだろうと話し合っているところへ、八幡丸入港の知らせがあったので、直ちに海岸にいた同勢が出かけ、まず各自の着替え荷物を先に陸揚げし、それから飯の支度にかかり、鍋釜・米・味噌・桶鉢の類を取り出し、ようやく宿泊の段取りとなったが、行灯がないので、公儀会所から蝋燭を借り上げてこの夜を凌いだ。翌日になり廻送品の置き場所がないので、また漁小屋1ヶ所を借りあげ、そこに入れておいた。船中の上乗りは作事杖突大沢伝八と鳶の又八、嵯峨八の3人であった。荷物を全部陸揚げしてから八幡丸は宗谷へ帰航した。
八月1日、宗谷出立の先触れとして蝦夷人夫から知らせがあったが、2番立ちの頭分は勘定人笹森寛蔵で、佐々木直八(専右衛門長男)、鳴海八弥(又右衛門次男)、この3人は大筒方同役で、次に大組警固野呂周作、大組足軽三上幸助、諸手足軽佐々木孫市、角田太左衛門、御城付足軽花田源太郎・同石沢六之丈・神山弥三冶、長柄の者中田惣十郎・三浦勝平、掃除小人久助・織三郎・清之岱村安太郎、郷夫藤崎村幸助・高杉村弥兵衛・廻関村甚八・真上村安右エ門・舞戸村長太・和徳村清太郎・岩崎村藤七・藤崎村又助・野木村佐五兵衛・悪戸村佐兵衛・大曲村紋三郎・柏木村文次郎・中野村巳之助、町大工清助・同金三郎の合計35人が到着したので、漁小屋を借り上げてそこに落ち着かせた。
8月7日から急に仮陣屋を建設する計画で、敷地の認可、木材の切組めに着手するようお達しがあったので、一同集合のうえ協議の結果、宗谷のときと同じく、諸組以下が人夫がわりに働くことに決定、その準備に着手した。
8月10日、またも先触れが到着したので、公儀御役人へ報告、物置所一ヶ所を借り上げて、御武器ならびに米、味噌、酒、漬物などの廻送品を漁小屋からこれに移し、その空いた漁小屋へ到着の人数を入れるよう手配した。そして翌11日午後四時頃、道中の頭分は作事受払い役工藤文作で、藩医石井隆仙以下、御持筒足軽木村堅蔵、諸手足軽小田桐源次・福士孫太郎・工藤専太郎・羽賀定次郎、長栖の者佐藤市右衛門・三上市郎、御持槍宮川定吉・下藤善次郎・三上熊次郎、掃除小人館岡村喜六、郷夫赤石村多吉・木作村三助・田舎館村宋次郎・沖館村助次郎・石野村久太郎・三千石村善七・高杉村寅右衛門・藤代村権之丈・大鰐村富蔵・福山村七三郎・高瀬村孫七・藤崎村忠助、以上の人数が東蝦夷地から回って来た。東地の国後という場所から西蝦夷地へ抜けるには、山中・川筋を通って7日かかるが、泊まり宿は蝦夷小屋しかないから、7日分の食糧・塩。味噌・漬物、酒肴から草鞋の類まで携行せねば通行できないので、それを蝦夷人夫に背負わせ、7日ぶりに11日午後四時ごろ到着したのである。よってこの旨を公儀役人衆へお届けした。
斜里詰公儀御役人は最上徳内殿・金井泉蔵殿の両人で、その会所は平地より一段と小高いところにあり、藁葺きで4間に9間半(38坪)のもの1棟、ほかに板蔵2ヶ所、小屋2ヶ所、柴垣を両側にめぐらせ、東西に門柱だけ建ててあり、表の方に車井戸が1ヶ所ある。
3隊に分かれて派遣された斜里詰め部隊が続々と集結した。最後に到着した工藤文作以下は、宗谷経路ではなく函館から東回り、国後経由で到着した。国後は島なので、工藤隊は船を利用したはずである。そして、この船は、エトロフに勤番し4月末の露寇で国後へ敗走した80名ほどの弘前藩部隊の回収を行ったに違いない。エトロフでは、弘前藩隊、南部藩隊の他、ご公儀役人、交易支配人など300人が3つの会所に分かれて詰めていた。露寇後、ほぼ全員が国後へ退避した。
最上徳内殿は、田沼時代の1785年に幕府が派遣した蝦夷地調査隊の一員であり、蝦夷地開墾可能性を580万石とはじき出したメンバーの一人である。その後も蝦夷地の開拓・海防をライフワークとして取り組んだ気骨ある人物と思われる。記録では、斜里の陣屋はオホーツク海に面した海辺の砂地に建設されている。露船監視のためには適した位置だが、流氷を運ぶ北東風を直接受ける場所である。宿営地の選択に、もう少し配慮があっても良かっただろう。蝦夷地生活をよく知る徳内であれば、冬の厳しさも当然予期していたと思われるだけに、残念である。やはり、即応態勢を求める幕命のプレッシャーは相当に強かったのだろう。エトロフで敗走した幕府側役人のトップ戸田又太夫の自害が斜里へも伝わっていただろう。
8月11日〜9月3日
8月11日、陣屋建設の敷地は、公儀御役人が出張検分のうえお渡しになったので、材木の伐採、木炭製造には郷夫たちを差し向けた。およそ1里半から2里くらいのところまで出かけ、雑木を伐採させた。出材すると筏に組み、海岸を引き回し、陸上げされたところで諸組の連中が出かけていって運搬した。薪炭用の流木の分は蝦夷船を雇って積み込み、陸上げしだい諸組面々が担いで運搬した。材木は松前トドという木で、ニ葉松と同様で軟らかい木である。しかし、生木であるから運搬には苦労した。
陣屋の敷地は、西表口は400間、東裏行き150間、南側30間、それから先は湿地で山に続いている。西北海岸は表通り、見通しは樺太島に当たっている。南東の日の射す方は裏にあたり、陣屋の後ろ100間くらいから湿地で、それから大笹や茨山が続き、樹木が繁茂して日射を妨げ、日差しが薄く、柏の木立となっている。何といっても陰湿な土地であり、朝は明け方遅く、日暮れは早く、いつもどんより曇っているように見える。
上長屋は3間に12間(36坪)で、用材は松前で切り組みのうえ廻送したもの、柾屋根である。
中長屋は幅3間に10間(30坪)で柾屋根、丸太の柱で、斜里で切り組んだ。屋根柾だけは廻送品を使った。土台石は、斜里から2里ぐらいのところに石浜があるので、それを蝦夷船で廻送した。
下長屋は幅3間に長さ10間(30坪)、斜里の山から伐り出したトドという木で一棟、すべて生木をもって出来上がったときに萱で屋根をふいた。
御武器・御運送品を入れて置くところ一棟、2間半に5間(12坪)、その用材は斜里の山から出した生木で、萱で屋根をふいて出来あがった。
剣術稽古所1ヶ所、表門の脇に作り、11月7日から訓練が始まった。
以上のように建設は着々と進み、連日一同が手伝いに出て、それぞれの手配を定め、8月12日から11月15日までの間にすべて完了した。なお上長屋の雪囲いは、芦や笹を刈り取って出来あがった。雪空の下での労働にはいずれも難儀した。
9月3日、宗谷詰公儀衆調役鈴木甚内殿が当地にお出でになるというので、お達しにより先払い2人を差し出した。同5日お帰りのときは先払い2人をトコロ(常呂)というところまで派遣、お滞在中は陣屋前に見張番2人をつけておいた。
30坪の陣屋3棟と武器庫、訓練施設(稽古所)をおよそ3ヶ月かけて建設した。上長屋、中長屋、下長屋はグレード別に、屋根のタイプ(柾屋根、萱ぶき)、建材の質(松前で用意された廻送品、現地で伐採した生木・丸太)に差をつけて建築されている。上長屋だけ雪囲いもされている。しかし、入居は地位と序列に従って決められたわけではなく、3隊に分かれて派遣された部隊毎に到着順にまとまって上・中・下長屋に入ったようである。中・下長屋に使われた生木は建材として扱いにくいだけでなく、乾燥して変形したり、余分な水分が凍結したりして隙間ができる。冬場は風雪の流れ込みに難儀したことだろう。それでも薪炭材を2里(8キロメートル)ほどの範囲で探したようなので、寒さを凌ぐ最低限の暖房は用意されていたと思われる。ご公儀役人の詰め所は上長屋より一つグレードが高く、柴垣をめぐらせている。無論、ご公儀役人より立派な施設建設は立場上無理だった。松前から建設資材が廻送されたり、蝦夷船を雇って薪炭材を輸送させている。こうした準備は弘前藩が執り行ったものだろう。蝦夷地警備を命ぜられた南部、秋田、仙台、会津などの他藩も同じく抜かりないよう準備したと思われる。
9月3日付の記載がある一方で、陣屋の建設は11月15日までにすべて完了したともある。9月時点で陣屋の完成日時はわからないはずである。従って、メモ書きの日記草稿を清書する際に編集が加えられたと見てよいだろう。この編集作業は帰国後に行われたのかもしれない。
宗谷から来た鈴木甚内殿は何のために斜里までやってきたのだろう? 2泊3日の滞在で、その間、先払いと見張り番を付けている。日記には書かれていないので詳細はわからないが、特別な用務はなかったと思わる。次の9月8日付け日記を見ても、ご公儀役人と藩詰所・陣屋間の連携、指揮系統関係がよくわからない。
9月8日〜10月5日
9月8日、宗谷陣屋詰から急御用状が到着、外国船が宗谷沖に見えたので出張警戒している、もし斜里あたりへも廻航するかも知れないから、警備の用意をするようにと云って来たので、このことを公儀衆にも報告し、斜里の弁天堂山上に4坪ほどの遠見番所を設け、昼夜番人を付けておいた。ところが公儀衆の方には幡・幕の用意がないとのことで、急ぎ黒・白の木綿で幡・幕ともに出来あがったということである。もっとも5,6日間も見張っていたが、沖合いに外国船は見えなかったので、その旨宗谷へ報告しておいた。
斜里詰最上徳内殿から、毎月3回ずつ的場打ちの訓練をするように達せられたので3日・13日・23日の3回を定日と決め、諸組のうちから12人ずつ順番に出士することとした。的場は会所の広庭に設けてあったので、そこへ出勤したのである。ただし平服であった。その節は勘定人笹森寛蔵・田中才八郎ら上下3人ずつが肩衣(かみしも)で臨席した。
長柄奉行馬場種次郎が斜里詰合を仰せつけられたが、すでに冬季に向かい通行も困難なので明春になって赴任すると通知して来た。それまでの間は勘定人が詰合御人数を指揮するようにと申して来たので、このことを一同に伝えた。
10月5日、漁小屋に入っていた人数が下長屋へ移転した。そのとき賄役両人を上席とし、諸組の分は席次順をもって席を占め、郷夫の方は年齢順をもって席割りとするよう決定した。
宗谷陣屋からの急報で、外国船が宗谷沖に現れたことを知らされる。ご公儀衆にも報告し、昼夜見張りを置くこととなった。仕事をするときが来たようだ。中央集権の現在から考えると、「ご公儀(幕府)が情報を収集し、藩兵を指揮する」と当然のように想像される。しかし、そうではなかったらしい。文吉自身も、ご公儀に陣幕の準備がないことに驚いたと書いている。こうした戦闘態勢の不備は、エトロフでも露呈していた。エトロフでは、ご公儀と藩兵(弘前藩+盛岡藩)の指揮系統がはっきりせず、両者は戦術も決められないまま、ずるずると逃亡した。この経験によって、海防に関する幕藩体制の欠陥が身分の上下を問わず強く認識されたに違いない。
急報を耳にした徳内殿は早速、訓練を強化した。的打はさすがに弓ではなく鉄砲だったろう。しかし、部隊の維持強化のためには、この時期にヒグマを撃って毛皮と干し肉を手に入れておくべきだったかもしれない。
馬場種次郎は、弘前出発直前に亀甲町の蛯名彦左衛門宅で握り飯を振舞った人である。第2次斜里派遣隊を率いることになっていた。この知らせを聞いて、望郷の念は一段と強くなったはずである。斜里の南に標高1547メートルの斜里岳がある。陣屋のあった海岸からもよく見える。斜里岳は、弘前の岩木山(標高1625メートル)と同じく単独峰で、両山の稜線はよく似ている。すでに、出発から4ヶ月以上経過した。斜里岳を眺めては、城下の生活を思い出したことだろう。岩木山の次に目に浮かんだのは、高さ30メートルを超える大円寺の五重塔(1660年頃建造)だったかもしれない。まだ天守閣がなかった(初代の天守閣は1627年に焼失し、その後は再建されなかった)弘前城よりも高く、城下一の高層建築だった。五重塔は現在も弘前高校近くの最勝院境内にある。この寺は、藩から300石を支給され、藩政に関わる業務を行っていた。蝦夷地派兵の際も、安全祈願の祈祷がここで行われたと思われる。公式行事としての祈祷だけでなく、個人的にお参りした隊員もいたことだろう。弘前出立が5月末だったので、この年は「ねぷた」も見られなかった。
ところで、弘前城下およびその周辺には、江戸時代の文化遺産が比較的良い状態で多数保存されている。理由は、米軍が空爆しなかったこと、戊辰戦争の影響が直接及ばなかったこと、重化学工業の発達がなかったこと、急激な人口増が無かったために強引な宅地開発が行われなかったこと、弘前市をはじめ関係機関・個人が文化財保護に取り組んだこと、などである。文化遺産・文化財が保存されている弘前は、津軽地方の旧市街と言えるかもしれない。維新後、青森市が新たな県都となり、鉄道、港湾、空港などのインフラ整備が進むにつれ、青森市の人口は弘前市のそれを追い越した。弘前を旧市街とすれば、青森は新市街と言える。荒井清明氏著「弘前今昔」(北方新社)には、弘前市に残る史跡・遺構、市史に纏わる様々なエピソードが載っている。興味のある方は、是非ご一読を。ここに書いた五重塔のことも「弘前今昔」の受け売りである。
日記に、漁小屋に仮住まいしていた人達が下長屋に入ったとある。下長屋には、一番遅れて到着した30余名の、管理職の賄役、諸組、郷夫が一緒に入った。漁小屋よりはマシだったろうが、管理職なのに上・中長屋へ入れなかったと思われる工藤文作は不満だったことだろう。下長屋の構造は上・中長屋と比べて粗末だった。しかし、隊員の死亡率は3つの長屋いずれとも高く、違いはなかった。死因が、防寒上の問題ではなく、栄養の問題だったことを示唆する。
10月7日〜10月26日
10月7日、郷夫の大鰐村富蔵が病気になったが、すぐには回復しそうにも見えないので、函館まで下って養生したいとの願い出があったが、それほどの難病とも思えぬということで、この土地で養生することに決まった。斜里詰の医者石井隆仙というのは松前生まれで、弘前の古郡道作の弟子になり、六、七年道作方で修行していた。そんなわけでこんど藩の雇医となり、当地詰合となったのである。
10月15日(陽暦11月14日)から寒気がいよいよ厳しくなり、朝夕はとくに冷えこむ。お国表の弘前とは格段の相違である。この様子では日増しに寒気・冷え方が強まるがどうしたらよいかと一同は動揺している。毎日少しずつ雪が降り、東風が吹き荒れて、難儀した。
10月26日、松前表から御飛脚が参着した。そして公儀から医学館製の加味平胃散というお薬を、一人につき5袋ずつ下し置かれ、そのほか詰合御人数一同に重い御口達書をもって、御酒一升・御肴料37文、計167文を、一人ずつに下賜された。
1.山嵐不正の気を除く
1.脾胃を調ふ
1.水土を伏せずして泄吐するによし
お薬上包みの効能書きにはこのように書かれていた。よって上役のところへ参りお礼を申し上げた。
大鰐の富蔵の具合が悪くなった。雇医の見立てでは、それほどの難病とも思えない(しかし、富蔵は約1ヶ月後に亡くなった)。日増しに寒さが厳しくなり、一同の不安は高まるばかり。そんな中、松前から来た飛脚はご公儀の使いだった。漢方薬5包と酒一升が各人に配られた。酒は有り難かっただろう。3日に一度1合飲めば1カ月分になる。臨時の給与167文(1両=4000文)も一同に支給された。郷夫も支給対象に含まれたと思われるが、こんな状況下、銭はあまり役に立たない。現物支給に限る。できれば給金を減らしてでも、酒の支給を増やしてほしいものである。水土は「新しい環境」の意。新しい土地の水が体質に合わず、嘔吐した場合に効くという薬が配られた。加味平胃散は、なんと現在(2010年)も市販され、楽天市場でネット購入できる(松浦漢方株式会社)。成分は、蒼ジュツ4g、厚朴4g、陳皮3g、大そう2g、甘草1g、生キョウ0.5〜1g、神麹2〜3g、麦芽2〜3g、山査子2〜3gで、胃のもたれ、食欲不振に効く。
11月11日〜11月22日
11月11日、公儀御役人最上徳内殿から、武芸を検分したい旨のお達しがあったので、13日に公儀会議所へ出仕した。
11月14日(陽暦12月12日)から吹雪がつよく、寒気もいよいよ厳しくなったので、外出を禁止した。しかし、井戸がないので川水を使用しているが、大荒れになったので浪高く、川口に潮水が混入し、水汲みの者どもは非常に難儀した。また陣屋内で話合いをしても、浪音が高くて言葉も聞き取りかねた。その上寒気が強く、弘前よりは綿入れ2枚ぐらい重ねたいほどの寒さとなったので、一同いずれも困惑した。ところが日に日に大海一面に氷が張り出したので、一同は海が凍るということは全く知らないところから、不審に思い会所の下役どもに問い合わせたところ、去年も今ごろはこうなった、これからますます寒くなるだろうと答えたので、これまた難儀なことだと口々に騒ぎ立てた。そのとおり、日増しに氷が張り、その上へ氷が押し上げられて大山のようになった。皆はただ驚き入るばかりであった。
当地詰合いのことは、外国船から国を守るための勤番を命ぜられたわけであり、とくに明春にいたるまでの間に異変など起こらぬともかぎらないので、武芸のことは、御給人一同は大いに精励するべきはもちろんであるが、新たに組に加わった者でも、希望の者は精々訓練に励むようにとの御申達があるであろう旨申し渡された。
明23日、武芸検分に出場する者たちは、午前8時うちに揃って出仕するよう御申達があった。以上。
11月22日
作事請け払い役 工藤文作
勘定人加勢 田中才八郎
勘定人 笹森寛蔵
三御長屋賄方 御中
尚、切組帳早々に申し出られるよう。以上。
覚
1.克己守格太刀 表一本 土岐専司 同ニ本目 葛西善弥
同三本目 藤田伊三郎 同四本目・五本目 斎藤文吉
右打方 田中才八郎
右はこのたびご検分につき出仕する者の名前である。以上。
11月22日
宗谷表で野呂周作、三上幸助、工藤茂兵衛、斎藤文吉、工藤専太郎、佐々木孫市、小田桐源冶、以上七人が詰合中賄役ならびに道中小頭役として、御人数の取り締まりに当たるよう命ぜられた。
11月(陽暦12月)の半ばも過ぎ、弘前では経験したことのない寒さがやってきた。陣屋が海岸部に建設されたため、遮るもののない北風を受けて、体感温度はいっそう低くなったに違いない。斜里から30キロメートルほど西にある網走地方気象台の海氷観測データ(1946年-2009年)を見ると、流氷の最も早い到達日は、12月27日(1953年と2002年の2回)である。1807年は、少なくとも陽暦12月20日の時点で、流氷が山のように重なるほど多く押し寄せていたことになる。幕吏下役によれば、前年(1806年)も同様の経過をたどったらしい。流氷の漂着時期が現在よりも早かったと推定でき、当時の斜里は、現代よりも寒冷な気候だったと考えられる(気候学者は、13世紀〜18世紀の間、地球は寒冷期にあったと考えている)。
本来業務である武芸訓練の様子が、極簡単にではあるが書かれている。
克己守格太刀(己に打ち克ち家格を守るための太刀、の意味か?強そうである)を、田中才八郎の号令の下、4人が順に打ち下ろす。文吉は4、5本目の2本を一人で任されている。武芸の心得もあったようだ。鉄砲・大筒が実戦配備されていたはずだが、鉄砲等の訓練については何も書かれていない。弾薬・火薬は貴重品であったので、訓練では使用されなかったかも知れない。
当時、10万石クラス城主の通常兵力は、法度によって2000人程度に限定されていた。また、各地に分散する“旗本8万人”と評された幕府直轄部隊は、国内対応を目的とする存在であり、国外勢に対処するため互いに連携する機能は持たなかった。その上、天下泰平の時代が長く続いたので、実戦経験のある人間はどこにも居なかった。流氷の山、そして、その遥か沖合からやってくる露船をイメージしながら、不安を振り払うように1太刀、2太刀、振り下ろしたのだろう。
日記の11月22日後半部分は、3名の管理職名で長屋賄役宛てに書かれた業務命令書のように見える。日記に書かれてあるように、“外国船から国を守るための勤番を命ぜられた”わけであるから、御公儀の命による武芸検分は、正に本来業務である。文吉自身が、陣屋建設や薪炭作りとは区別して記録すべきと判断したか、あるいは、田中才八郎他の上役に業務記録を残すよう指示されたのかも知れない。
文吉と同時に7名が小頭役兼詰合中賄役に就任した。この中で無事帰国できたのは3名、また、武芸検分で太刀を振った4名中、生きて帰ることができたのは文吉一人だけであった。
1737年、オホーツク町の第二次ベーリング探検隊:
―(前述)1737年、オホーツクでブルガンチン船1隻、ダブル・スループ船1隻が建造され、北アメリカ太平洋岸、日本をそれぞれ目指して出航した。1740年には、砲14門を備えたバケットボートが追加建造されベーリング率いる北米ルートへ投入された。そして、日本航路開拓はベーリングの部下シパンベルクらに任された。―
シパンベルク、ウォールトン、シェルチングら161名は3隻に分乗し、1738年6月にオホータ河口(オホーツク)を出発、オホーツク海を横断して、翌7月カムチャツカ半島のボリシェレツクに到着した。そこから千島列島を南下し、8月3日、シパンベルクはウルップ島を発見した。しかし、それ以上進まずに、いったんボリシェレツクへ帰港した。その理由は、仲間2隻を見失い、航海継続困難と判断したためと言われている。単独行動の危険性(鎖国日本から攻撃を受ける可能性も考慮されていた)を考慮したシパンベルクは慎重な男だったのだろう。
オホーツクからほぼ真南へ直進すれば、北海道へ到達する。しかし、ロシア探検隊は、常にオホーツク→オホーツク海横断→カムチャツカ半島→千島列島南下のルートを取った。ロシア探検隊が千島ルートに拘った理由は、アムール河以南の清国領へ入ることが出来なかったこと以外に、2つあった。
1. カムチャッカ半島と北海道は陸続き、又は、離れていても極近いと考えていた。
2. カムチャツカ半島南端に近接するクリル第1島および第2島で、現地人が日本製と考えられる陶器類を所持していた。また、両島で日本人漂流民と遭遇し、松前島(北海道)が近いと想像できた。
まさか、クリルが第19島(エトロフ)まであり、総延長が1000キロメートル!もあるとは予想だにしてなかったのである。
S.ズナメンスキーの「日本を探して(邦題:ロシア人の日本発見)」(秋月俊幸訳)には、こう書かれている。
“長い間、日本はロシア人にとって、いつも彼方には見えているが、それに近づくと消え去ってしまう蜃気楼のようなものであった。カムチャツカの征服者アトラーソフは、すでにカムチャツカの沿岸から海の彼方に陸地らしいものを認めた。原住民たちがこの陸地について彼に語ったところによれば、そこからは陶器がもたらされ、着物を身に付けた文字を知る人がやって来るということであった。しかし、コズイレフスキーがクリル第1島、さらに第2島へ行っても、それは日本とはまったく違っており、蜃気楼はさらに遠く、長い列島の彼方に見えた。シパンベルクとウォールトンによって蜃気楼は実在のものとなり、彼らは日本沿岸に到達するとともにその土地において本物の日本人を見た。”
一旦、ボリシェレツクへ戻ったシパンベルクは翌1739年、再びボリシェレツクを出発し、同6月、ついに仙台領に到達、更に安房の国に上陸した(1739年の航海では、当時のヨーロッパ諸国が三陸海岸沖に存在すると信じていた幻の大陸コンパニース・ラント(別名ガマ・ランド)を探すため、南側に寄った進路が取られた。そのため、蝦夷地や南部領より南の仙台領に先に到達した)。シパンベルクらは、同年10月にボリシェレツクに帰還した。ついに日本航路が開拓され、カムチャツカ半島から千島列島を経て北海道へ至るルートの全容を示す海図が完成した。1739年のシパンベルク隊には病死者が多かったという。栄養失調が原因と思われる。しかし、シパンベルクの努力にも関わらず、ロシア政府とモスクワの支配層の投資余力は、すぐに投下資本を回収できる北太平洋(主にアリューシャン列島)での毛皮貿易に振り向けられた。一方、千島(クリル)列島では、ベーリングが帯同した学術調査隊(ロシア・科学アカデミー会員のミューラーとその後継者クラシェニンニコフ)によって、自然地理および人文地理についてかなり詳細な調査記録がまとめられた(「カムチャツカ誌」1755年、刊行)。 そして、この本の出版によって北太平洋諸島が西欧に広く知られるところなった。クリル経由の日本航路は、探検の時代から、開拓と貿易可能性調査の時代へ移行した。毛皮を求める商業資本は北千島へも入り始め、シベリアのロシア政庁はクリル(千島)へ税務官(毛皮貢税徴収人)を派遣した。ヤサークと呼ばれた10分の1税を徴収するためである。
ロシア商業資本「米露商会」はイギリス・オランダ「東インド会社」のロシア版のような存在である。アリューシャン列島がラッコやオットセイ、黒狐の絶好の猟場であることがわかると、毛皮を目的にロシアの大小商業資本が北太平洋へ進出し、ロシアの商圏・勢力圏はベーリング海を横切って北米大陸へ到達した。しかし、アラスカまで広がったロシアの北太平洋勢力圏は寒冷で穀物生産に適さなかった。そのため、ロシア人は、食料・薪炭の補給および日本との交易を求めて千島列島を再び南下することになった。
よく知られているように、千島列島をふくむ北太平洋沿岸には日本人でもロシア人でもない人々が住んでいた。彼ら自身がその名称を使用していたかどうかは大いに疑問であるが、地域によってアイヌ、ウイルタ、アリュート、カムチャダール、オロチなどの名称で呼ばれている。
十三湊陥落後に安藤氏・蛎崎氏が松前に移動して以来、およそ300年で和人の勢力圏は松前からほぼ北海道を横切って厚岸あたりまで到達した。毛皮交易の視点から見れば、この間に、日本製品とラッコ毛皮の交換地点は、十三湊・油川→松前・函館→釧路・厚岸へと移動した。斎藤文吉の時代は、更に遠方の、エトロフ直行の商業航路が開拓された頃だった。同じことをアイヌ側から見れば、ラッコ産地(千島列島のウルップ島周辺)と日本とを結ぶ貿易仲介業の利幅が逓減し、廃業寸前に追い込まれていたと言える。文吉の時代には、一部の有力者を除くアイヌのほとんどが和人に雇われ、低賃金で漁労(〆粕作り、ニシンの魚油採取)に従事するよう仕向けられていた。なぜなら、松前藩はアイヌの生存権を一顧だにせずに北海道沿岸各地に漁業権を勝手に設定し、藩の財務状況が悪化するたびに、それをずるずると商人に売ったからである。日本人の圧政にアイヌが抵抗した事件は、主要なものだけでも、コシャマインの乱(15世紀末、函館近辺)、シャクシャインの乱(1669年、静内・新冠〜道央)、国後・メシナの乱(1789年、国後〜道東)と続いた。
毛皮を求めるロシア資本(プロトジャーコノフ商会)のクリル南下は、1771年、ウルップ島で一時停止した。
「ロシア人の好遇とよき秩序の見本を示し、何物も力づくで強奪したり、強要したりしてはならない。ヤサーク(毛皮貢税)を求めるときは、何人に対しても私的な交易は許されず、いかなる不法行為もしてはならない」。これは、1766年、カムチャツカ長官・イズベーコフが、クリル諸島獲得(ロシア領への編入)のために派遣したコサック(国境警備隊)百人長イワン・チョーヌルイに下した訓辞である。クリル全域をロシアの新領土とするために奮闘したチョーヌルイは、長官から禁じられたこと全てを行った。そして、過酷な遠征を成功させるため、千島アイヌだけでなく、同じロシア人である部下をも鞭と脅しで支配した。この圧政は少なからざる抵抗を受けながらも南部千島へ浸透し、シムシル島までは半ば成功した。しかし、ウルップ島では、エトロフ周辺を勢力圏とするアイヌの反撃を受けたのであった。1770-71年:ウルップ島に出漁中のアイヌの漁小屋がコサック(ロシア国境警備隊)に小銃で襲撃され、長老が殺害された。逆襲によってロシア側も21人が殺害された。(つづく)
11月25日〜12月12日
長柄の者佐藤市右衛門と大鰐村富蔵の病態が日増しに悪化しているので、帰国のうえ養生したいとの願い出があり、公儀御役人衆へ申達したところ、詰会医者石井隆仙にお尋ねのうえ、公儀衆からもお薬を下されるので、雪中の帰国は難儀するであろうから、当地において養生するよう仰せつけられた。
11月25日(陽暦12月23日)郷夫の者大鰐村富蔵、同26日飯詰村善右衛門、同29日藤代村権之丈、12月塑日大組足軽福士長十郎、同5日同役小笠原小太郎、同8日同役藤田伊三郎、御長柄佐藤市右衛門、掃除小人富田村久助の計8人、浮腫病(壊血病)にかかり病死したのでこれを上役へ報告したところ、足軽目付桜庭又吉ならびに同役の者どもが立会いのうえ、死者の所持品を点検して帳面に記し、目付の者が封印して荷物とし、物置所へ保管した。
11月中旬から詰合御人数の大部分が浮腫病を患い、それぞれ病気届をしたが、三御長屋とも水汲み、飯炊き、薪作りなど雑役の者に差し支え、止むを得ないことであるから、役分に関係なく健康な者は働くこととし、郷夫の者あるいは掃除小人、大工や鳶の者どもも飯炊き、水汲み、薪作りに勤めることとなった。
12月9日、本日から飯炊き、水汲み、薪作りの者ばかりでなく、そのほかの者も病気になってほとんど作業に差し支えるようになったので、止むをえず軽症の者も手伝うこととし、飯炊き、水汲み、薪作りを当番制として、本日の昼から御城附足軽花田源太郎、御持槍葛西善弥・宮川定吉、御長柄三浦勝平、小人の織太郎の5人で当番することになったのだが、さてさて哀れなことになったものである。
諸手足軽三上熊次郎・角田田左衛門が重態となったので、同役の藤田茂八が付き添い看病することになった。
このごろ三御長屋詰め御人数一同は浮腫病のため、毎日の飯炊き、水汲み、薪作りとも差し支える状態となり、止むなく三御長屋賄方で当番制をとるとの申し出のとおり、何分にもこのような場合がらをわきまえ、当分の間、間に合わせるようよくよく申し合わせられたり。以上。
12月9日 笹森 寛蔵
田中 才八郎
工藤 文作
三長屋賄方中
なお、明日は賄方のうち一人、薪作りへ出勤されたい。以上
12月10日、郷夫高樋村孫七、大工金三郎病死。
諸手足軽角田太左衛門、鳶の嵯峨八、大工兵七、病気のところ、宗谷へ引越して養生したいとの願いが聞き届けとなり、明後日12日当地を出立、道中付添いに御持槍宮川定吉が命ぜられて出発した。
明13日は武芸稽古の検分日であるが、来る16日に日延べすると達せられた。この旨それぞれ申達されたい。以上。
12月12日 笹森 寛蔵
田中才八郎
工藤茂兵衛殿
斎藤文吉殿
病人続出で水汲みにも困るようになり、身分に関係なく当番制(原文では、役分に関係なく健康な者は働く)となった。中間管理職(賄役)になった文吉も、この頃から水汲み、飯炊き、薪作りの作業に加わったと思われる。武芸訓練どころではなくなり、御公儀から延期が伝えられた。ことの次第を記した後に、その裏付けとなる指示文書らしきものが、管理職名で付け加えられている。この部分は、業務命令書のようでもあり、指示を受け取るべき者の名前が殿付で書かれている。自分自身(斎藤文吉)にも殿を付けていることから、第3者の視点で客観的に記したものと考えられる。日記中に、このような業務命令を残したのはなぜだろうか?、おそらく、事後に齟齬を来たさぬための配慮であったと考える。つまり、“言った、言わない”ので揉めないためだったのだろう。あるいは、田中才八郎ら管理職が、文吉に記録を残しておくよう依頼した可能性もある。“死亡者の所持品を帳面に記し、目付け(監察係)がそれを保管した”、と書かれてあるので、この日記とは別に記録用の帳面が用意されていたようではある。しかし、肝心の目付け自身が、後日、病死してしまう。日記中の田中才八郎らの名が自筆署名であれば、日記が准公文書的な目的で作られていたことを示す証左となる。
文吉日記の現物は、北海道大学北方関係資料総合目録に収録されている。現在、インターネット経由で、誰でも日記の全ページを閲覧することが可能である(北方関係資料総合目録)。そこで、日記の12月12日の部分の実物を見てみた。残念ながら、笹森寛蔵、田中才八郎らの名前は、前後の文章と同一の筆跡で書かれていた。自筆署名ではないようだ。この業務命令書的記述の真相が気になる。
ここまでに8名の死亡者が出た。本当のところ、食糧事情はどうだったのだろうか。
日記には、浮腫病と書かれている。おそらく斜里へ同行した藩医の石井隆仙の診断であろう。現在、病気の実態が、ビタミン不足による栄養失調であったと考える人は多い。冬になって患者が急増した理由は、寒さのために体力が奪われて病気の進行が早くなったのかもしれないが、むしろ、食べられる野草や根曲がり竹、山菜の類が手に入らなくなったことが原因だろう。
斜里に一行が到着したのが7月29日(陽暦9月1日)、最初の死亡者が出たのが11月25日(陽暦12月21日)で、その後、死亡者が続出、3月15日(陽暦4月10日)には、ほぼ全員が病人という状態に至っている。4月2日(陽暦4月27日)付の日記に“7か月間、生魚を見たこともない”とあることから、斜里へ到着してから間もなく生魚を食べられなくなったことがわかる。これ以外には食糧のことはほとんど書かれていない。水汲みや薪作りの苦労は書かれているが、メニューや調理法は書かれていない。例えば「今日も米を炊き、味噌を湯に溶かして、食事とした。大根の漬物は、残り少なくなってしまった」、といった記載は見当たらない。久保田見達の「北地日記」の中に、ほぼ同時期に弘前・盛岡藩兵が駐留したエトロフでの兵糧に関する記述がある。この年(1807年)の4月23−25日にエトロフ南部のナイボ(内保)を襲撃したロシア船は、次いで4月29日−5月1日に同島中部のシャナ(遮那)へ転戦した。この間、シャナの陣屋に勤番していた弘前・盛岡両藩部隊は、ご公儀の会所へ集結し久保田らと合流している。
・・・4月28日、両家(弘前藩・盛岡藩)人数会所へ引越し、飯米不足の談も之有りしにや、津軽家より白米200俵差出可申し由にて、80俵ほど会所新普請の所へ積み入れ、津軽家無人故人足さへお借り下され候らわば、300俵は差出可との事なり。津軽は米国故、白米にて沢山廻し有りと之見ゆ。この米も赤人の国へみやげものとなりしは残念・・・(北地日記より)
(4月28日、弘前藩・盛岡藩両家が会所へ引越してた。米不足のことを相談していると、津軽家より白米300俵を供出できると申し出があったが、人手が足りないので、とりあえず80俵を運び込んだ。津軽は米の国だから白米で廻送したものが沢山あるようだ。その米も、結局、ロシア人に奪われてしまったのは残念である。)
1俵60キロとして、300俵は18000キロに相当する、およそ150人が1年間十分に食べられる量である。北地日記の記述から、斜里でも米と味噌は十分量確保されていたと思われる。食事のカロリーは足りていただろう。やはり、不足したのはビタミン類と思われる。1日の食事を、米を2合(300グラム)、味噌(10グラム)、主采を干し鱈(100グラム)、副采をたくあん漬(20グラム)、はくさい塩漬(30グラム)と仮定すると、補給できるビタミン類は下表のようになる(単位ミリグラム、ただしA、D、K、B12、葉酸はマイクログラム)。
ビタミン 米 味噌 干し鱈 たくあん はくさい 合計 1日必要量
(7分つき) (塩漬) (充足率 %)
A 0 0 0 0 0.7 0.7 600 (0.12)
B1 0.72 0.003 0.2 0.04 0.01 0.964 1.1 (87.6)
B2 0.09 0.01 0.3 0.006 0.01 0.326 1.2 (27.2)
B6 0.60 0.01 0.34 0.04 0.04 0.985 1.6 (61.6)
B12 0 0.01 8.6 0 0 8.61 2.4 (359)
C 0 0 0 2.4 8.0 10.4 100 (10.4)
D 0 0 6.0 0 0 6.0 2.5 (240)
E 1.5 0.13 0.3 0 0.07 2.00 10 (20.0)
K 0 1.1 0 0.04 19.0 20.14 60 (33.6)
ナイアシン 5.1 0.15 4.0 0.32 0.1 9.67 16 (60.4)
葉酸 45 6.8 22 9.4 28 111.2 200 (55.6)
パントテン酸 2.5 0 1.37 0.14 0.07 4.11 5 (82.2)
(出展:食品成分表 2002年)
献立と少し厳しくし過ぎたかも知れないが、B12とD以外全て不足している。日記に、酒や漢方薬がご公儀から下されたとあるように、干し魚と漬物以外の食材も多少食べられただろう。また、腸内細菌が合成してくれるビタミンもある。腸内細菌が合成するB6、K、上の表で必要量の半分以上の数値を示すパントテン酸、ナイアシン、B1、葉酸を除外する。不足しているのは、A、B2、C、Eで、特に欠乏が著しいのは、AとCである。
たくあんと白菜塩漬けには、緑黄野菜から主に摂取されるビタミンAはほとんど含まれない。一方、ビタミンAは葉物の漬物にはある程度含まれる(20グラムのカブ葉の塩漬には、ビタミンAが42マイクログラム、ビタミンCが8.8ミリグラム含まれている)。仮に必要量をカブ葉の塩漬から摂取するとした場合、1日当たり300グラム必要となり、100名が10月‐3月までの半年を過ごすには、0.3 x 100 x 180 = 5400キログラム(5.4トン)必要である。5.4 トンは弘前藩所有の千石船(八幡丸、約100トン)での廻送が十分可能な数値であるから、葉物の漬物を大量に廻送しておけば惨事は防げたかもしれない。あるいは、斜里に到着してすぐに昆布・ワカメなどの海草類を大量に干して貯蔵しておけば、ビタミンA、Cの補給源として利用することができた。20グラムの素干し長昆布には、26マイクログラムのビタミンAと4ミリグラムのビタミンCが含まれる。
浮腫病がビタミンAとCの不足による栄養失調と仮定すると、症状は、
ビタミンA欠乏症:夜盲症、乾燥眼炎、皮膚・粘膜の角化、感染への抵抗力低下
ビタミンC欠乏症:壊血病、皮下出血、貧血、歯肉色素沈着症
ところで、弘前藩は宗谷とエトロフにも派兵していた。宗谷、エトロフともに冬季の気候は斜里に劣らず厳しい。また、弘前藩が廻送した食糧は、3か所とも同じ内容であったと考えてよいだろう。しかし、宗谷とエトロフで浮腫病者が続出した様子はない。よく考えると、そもそも派遣元の弘前でさえ、冬季に生野菜を入手することは困難であったのだから、ビタミンの知識は無くとも、必要な食材に関する経験的知恵は持っていただろう。弘前では、雪室で保存した大根・菜っ葉や干し昆布などを食べて凌いでいたと思われる。
斜里で死者が続出した決定的な要因は流氷だったのではないだろうか。宗谷海峡には弱いながらも対馬暖流が流れ込むため、宗谷海峡を越えて流氷が西進することはない。また、エトロフ島北側のオホーツク海に面する海岸は流氷に覆われるが、南側に流氷は来ない。千島列島を越えて流氷が南進することはないのである。文吉の日記には、「宗谷から斜里までの海は不毛である」、「昆布の類は全く見当たらない」、との記述がある。宗谷やエトロフでは、冬季でも海岸に打ち上げられた昆布類や流れ藻を採取できるが、斜里近辺では流氷接岸のため、それは到底無理であったと、言いたかったのかもしれない。
12月14日〜12月大晦日
12月14日郷夫の者沖館助次郎病死。同15日諸手足軽角田太左衛門、鳶の団六、町大工兵七病死。ただし、太左衛門・兵七は、去る12日宗谷で養生したいとの願いにより出発したが、途中モンベツ(紋別)という所で病死したとの知らせがあったのである。
紋別というところは、宗谷と斜里の中間で、ここにも公儀の会所があり、紋別川では鱒・鮭の漁獲があり、船付き場所でもある。蝦夷家は35、6軒ある。
12月17日、御持槍下藤善次郎、宗谷へ引越し病気療養したいとの願いが聞き届けられて出発したが、途中アバシリ(網走)といところで病死した旨の知らせがあった。ここは斜里から9里離れている。蝦夷家は30軒ある。ここに甲岩があり、小廻船の停泊するところである。12月18日郷夫の鼻和村次左衛門・飯詰村次郎八病死。
12月23日、鳶の嵯峨八、さきごろ宗谷へ引越し養生したいとの願いのとおり聞き届けられて出発したが、途中で病死したとの知らせがあった。
斜里詰合公儀金井泉蔵殿が病死したとの知らせがあった。
12月25日諸手足軽佐々木孫二郎病死、同26日長柄の者中田惣十郎が病死した。
12月28日。松飾の日となったが、雪中のこととて松・竹・ゆずり葉・海老の類はないので、松のかわりにトドの木に笹の飾りをつけて、ともかくも大晦日の年越しをした。別段料理ごともなかった。
12月の後半2週間で、10人(幕吏の金井良蔵を入れれば11名)が病死した。死亡者の階級は、武士(足軽、長柄、持槍)4人、武士以外(郷夫・鳶・町大工)6人。病状の悪化した隊員の中には、宗谷で養生することを望んだ者が少なからずいたようだ。7月16日の日記にあるように、「斜里は宗谷より更に77里の奥蝦夷地」と認識されていた。知床半島から、阿寒岳−屈斜路湖−藻琴山−摩周湖−斜里岳へ至るの山脈が北海道を東西2つの蝦夷地に分ける要害となり、斜里は西蝦夷地の最奥の地だったのである。宗谷(稚内気象台)と斜里(網走気象台)、青森の気候を比べると、
日最高気温の月別平均値 (理科年表より、1961年−1990年の平均値)
12月 1月 2月 3月
網走 0.7 −3.2 −3.6 0.8
稚内 0.1 −3.4 −3.4 0.9
青森 4.2 1.1 1.7 5.5
日最低気温の月別平均値 (理科年表より、1961年−1990年の平均値)
12月 1月 2月 3月
網走 −5.9 −10.3 −11.4 −6.4
稚内 −4.4 −7.7 −8.2 −4.2
青森 −2.2 −5.0 −5.2 −2.4
網走の最低気温は、冬季を通して稚内より2−3度低い。日本海の暖流が流れ込んでくる宗谷より、流氷で埋まるオホーツク海に面した斜里の方が厳しい気候なのである。宗谷と斜里の間に位置する網走と紋別に蝦夷村があり、そこから病死者の知らせが届いた。おそらく、宗谷と紋別、斜里の間に連絡網があったのだろう。9月8日の日記にも、宗谷から届いた御用状云々という記載がある。連絡便は蝦夷人夫の仕事の一つだったのかも知れない。この日記には、”蝦夷人を使って先触れを出した”と書かれている個所がいくつかある。紋別や網走の蝦夷アイヌは、人夫仕事で得た貨幣で日本人から米や酒、雑貨類を買っていたと思われる。
−(前述)1739年、ついに日本航路が開拓され、カムチャツカ半島から北海道へ至るルートの全容を示す海図がシパンベルクによって完成された。しかし、シパンベルクの努力にも関わらず、日露交易は全く進展しなかった。−
シパンベルクは慎重な男だったようだ。日本の鎖国令のことを知っていたので、日本に到達したことを確信した後も、日本側からの攻撃を心配して船から出ようとはしなかった。それでも、日本の漁民や役人と全く接触がなかったわけでない。興味本位で露船に接触した漁民が、鎖国令違反を問われないよう(多分、役人と結託して)「偶然にも露船に遭遇したが、余りの空腹に耐え兼ねて助けを求めた」という内容の始末書を提出した記録が残っている。役人は職務としてシパンベルクに接見した。シパンベルクが日本の役人達に海図を見せると、役人らはたちまち自分達の国を理解し此れをニホンと呼び、松前島(北海道)と佐渡を見分け、竜飛岬と能登半島を指で示したらしい (参考文献6)。シパンベルクの初訪日から60年以上経過した文吉の時代には、既に日本人・ロシア人の双方が、お互いの存在をよく知っていた。しかしながら、日本では、啓蒙家や積極経済派の意見は主流とならず、受身の姿勢と鎖国が継続された。一方、ロシア側では、慎重且つ勇敢な航海士・探検家は少数派で、むしろヤクーツクにあった極東シベリア司令部はラフな乱暴者の巣窟と言える状況だった。多くの場合、現司令官は、叛乱によって前任者を追放した人物で、毛皮権益(ヤサーク)を独占し、且つ、モスクワの指令に従わなかった。(つづく)
文化5年(1808年)1月1日(陽暦1月28日)〜1月29日
文化5年辰年となった。
辰の正月元日(陽暦1月28日)となり、めでたく挨拶の遣い初めをして祝儀は整った。それから公儀御役人衆へ年始のお祝いとして、笹森寛蔵、田中才八郎および医者石井隆仙が参上した。その他の大筒役黒石三郎兵衛・鳴海八弥・佐々木直八、作事受払役工藤文作ら主だった者は病気のため同行できなかった。さて三御長屋諸組の者どもは、上御長屋へ平服で御祝に参上、それからほかの御長屋にも挨拶に回った。
正月元日、御城附足軽花田源太郎、同2日同神山弥三冶、同3日御長柄三浦勝平、同4日御大工吉村次郎兵衛、郷夫大曲村紋三郎の計5人が病死した。
正月4日、松飾を引き締め、これでお祝儀は済んだ。
1月6日、鳶の巻八、同7日郷夫の高杉村寅右衛門、同8日同田舎館村定次郎、同三千石村善七、同9日御持槍葛西善弥、郷夫広田村万太郎、同長峯村次郎八、同10日御持槍三上熊次郎、同12日、御持槍土岐専司、同13日大筒方大組与力黒石三郎兵衛、同16日郷夫尾上村長助、同17日鳶の乙右衛門、郷夫中泉村五兵衛、同19日郷夫木作村三助、同20日郷夫石野村久三郎、同23日掃除小人館岡村喜六、郷夫藤枝村酉之助、同23日同悪戸村佐兵衛、町大工忠助、同28日大組警固野呂周作、同足軽三上幸助、同29日大筒役鳴海弥八、この弥八は鳴海又右衛門の二男である。以上、合計22人が正月4日から同29日までに病死したので、残りの病人たちも気力を失い、ことに物の不自由なことは申すにおよばず、ともに哀れを催したことであった。
1ヶ月の出来事がわかりやすくまとめて書かれている。日記が再編集・清書されたことを示す。3隊に分かれて派遣された斜里部隊の管理職3名が、年始の挨拶でご公儀に参上した。挨拶を受けた側も年末に病死者(金井泉蔵)を出している。3長屋の住人もお互いに年始の挨拶に出向いたようである。礼節を守る気力はかろうじて保たれていた。
2月1日〜3月6日
2月になっても新しい暦がないので、月の大小もわからないが、本日を2月塑日と定めた。2月塑日、郷夫十三町の喜助、同4日作事請払い役工藤文作、郷夫野木村佐五右衛門が病死した。
2月6日、公儀御役人岩間哲蔵殿、宗谷から斜里へ転勤ということで、午後2時ごろ到着された。
2月10日、最上徳内殿は引継ぎを済ませて松前へお帰りになられるというお知らせがあったので、先払いの者両人を途中の網走まで差し出した。ところが、徳内殿は、途中紋別から氷海を渡って樺太島へ行かれるということで、鍋釜・小道具・食糧・塩味噌から燃料の果てまで蝦夷人夫どもに背負わせ、およそ6,7日間の用意をしていかれるということである。紋別というところは、前にも書いたとおり、宗谷と斜里との中ほどで、公儀会所があり、蝦夷家も30軒ある場所で、そこから樺太島まで海上およそ50里余もあろうかということである。その樺太島を経由して宗谷へ帰られるとのことである。
2月7日、諸手足軽石沢六之丈、同15日町大工清蔵、同16日郷夫宮館村藤七、藤崎村又助、同18日郷夫神山村佐五右衛門、同19日同豊岡村善右衛門、同21日諸手足軽藤田茂八、同24日郷夫和徳村清太郎、同25日御持筒足軽高橋兵司、同26日郷夫舞戸村長太、同28日同廻関村甚八の合計11人が病死した。
3月2日、郷夫高杉村弥兵衛が宗谷へ引越し養生したいとの願いが聞き届けられて出発したが、途中網走というところで病死したと云って来た。同4日郷夫藤崎村幸吉、同日大筒役佐々木直八は松前へ帰って養生したいとの願いが聞き届けられて出発したが、途中常呂という所で病死した旨の知らせがあった。この直八は佐々木専右衛門の二男である。同6日諸手足軽小田桐源次、同日掃除小人織太郎、鳶の又八、郷夫真土村安右衛門、同中野村巳之助の計8人が病死した。ただす、中野村の巳之助は、宗谷へ引越し養生したいとの願いが聞き届けられて出発したのであるが、途中紋別というところで病死したとの知らせがあったのである。
前年10月、函館奉行は松前奉行に改組された。幕府は、弘前・盛岡両藩だけでは蝦夷地警備に不十分と判断し、翌11月には大藩の仙台藩、12月には徳川親藩・御一門の会津藩にも出兵を求めた。日記に登場した最上徳内は、樺太に到着予定の会津兵700名を督励するために渡海したのである。会津藩担当地は、カラフトの他に松前(300人)と斜里(600人)、仙台藩担当地は、函館(800人)、エトロフ(700人)、国後(500人)とされた。両藩の加勢によって、弘前藩の体制は、天塩・増毛に各50名、熊石に100名とすることになり、同様に盛岡藩は、幌泉(50人)、砂原(100名)を担当することが決まった。こうして、仙台、会津の両藩の登場で弘前藩の負担は一旦軽減されることになった。しかし、同年末(文化5年、1808年末)には、会津、仙台の蝦夷地出兵は解除され、再び、弘前・盛岡藩による警備体制となった。警備の内訳は、弘前藩450名(西蝦夷地:松前、江差、宗谷、利尻、樺太)、盛岡藩650名(東蝦夷地:函館、根室、国後、エトロフ)であった。
3月15日〜4月2日
3月15日、三御長屋御人数残らず病気となり、病死の者も多く出たので、なんとなく物淋しくなり、なおまた食事の世話をする者、水汲みの者もなくなり、枕を並べて寝伏している有様は、見るからに哀れな光景となった。仕方がないので、男夷一人を雇い、飯炊き、水汲み、薪作りなどに使ったが、蝦夷言葉が分からぬのでまことに困った。もっとも、病人ばかりのことで特別の用事を頼むこともなく、湯水・食事の世話だけであり、5,6日もしたらだいぶ馴れ、言葉使いも自然と分かるようになった。しかし、物によっては間違いも多く、時には大笑いするようなことがあった。この蝦夷の名は弁慶といい、21,2歳の若者である。だいぶたつと蝦夷言葉も分かり、蝦夷通詞のようになった。
4月2日(陽暦4月27日)になって大海の氷が解け始めたので、やがて船も通うようになるだろうと喜び合った。それにしても、生魚は去年の9月に食べてから現在まで口にしていない。7ヶ月間いっさい食べず、その姿すらみたこともない。宗谷から当斜里まで77里の間に、中ほどに紋別という所があって、公儀会所が1軒、ここに人間(和人)4,5人がいるが、男ばかりである。ほかに和人は全くいない。さて宗谷・紋別・斜里、この3箇所に川があって、春秋には鱒・鮭の漁獲があるだけで、その他の水産物は一切ない。宗谷川、紋別川、斜里川、いずれも水量は相当ある。すべて蝦夷言葉では川のことをペッというのである。
ついに全員が病気となってしまった。水汲み・飯炊きの当番制は崩壊し、病人どうしが助けあう状況となった。炊事の手伝いに雇った“弁慶”こと蝦夷アイヌの青年は、これまでに荷役や先触道案内役として何度か登場した蝦夷人夫集団の一員であろう。文吉自身も当時22歳だったので、弁慶は同年代だった。勘違いから、大笑いするようなことがあったらしい。このアイヌ青年・弁慶との交流を通じて、簡単な蝦夷言葉は理解できるようになったようだ。例として、蝦夷言葉で「ペッ」が「川」を意味することが挙げられている。北海道には○○別という地名が多い。川の名称だけでも、尻別川、後志利別川、然別川、利別川、音別川、西別川、湧別川、頓別川などがある。ペッ→別。
現在、河川名の英語表記は、Tonegawa-river, Iwakigawa-river, Ishikarigawa-riverという具合になっている。英語圏の学生ならば「日本の川の名前には-gawaあるいはkawaが語尾に付く場合が多い。これは、日本語でriverのことをkawaと呼んだ名残である。」と、学習するに違いない。紋別川の場合、英語では、Monbetsugawa-riverであるが、本来、この川固有の名前として使われていたのは、Monだけなので、これでは、Mon+川+川+川となり、とても滑稽である。
宗谷から斜里の間に大きな川が3つあり、それぞれ鱒・鮭の漁獲があるが、その他の水産物は一切無いと、記録している。しかし、一切無い、と言い切れるほど調査した様子はない。
4月28日〜5月18日
4月28日、御持筒足軽木村賢蔵・同神藤吾、諸手足軽工藤専太郎・同芳賀定次郎・同福士熊次郎、作事杖突大沢伝八、郷夫神山村七三郎・赤石村多吉・小友村吉三郎、以上9人は病気のため帰国願いが許され、当地を出立していった。
5月塑日、御医者石井隆仙は、病気についき松前へ帰りたいとの願いが許され、十三町の郷夫石五郎を付き添いとして出立した。
5月2日、松前城下から御飛脚として諸手足軽外崎清右衛門、郷夫岩崎村市五郎の両人が到着し、松前城下の様子などを語り合ったが、久しぶりのこととて非常に珍しく感ぜられ、楽しかった。
5月6日、御飛脚外崎清右衛門は、当所詰合いの郷夫袋井村勘次郎と組になって出発した。岩崎村の市五郎は病人に付き添いのため残留した。
6月11日、藩医中村本川、斜里詰合に病人の多いことを聞き及び、お見舞いとして、松前箱館詰めのところ同地を出立、掃除小人川倉村伝十郎、郷夫今井ヶ沢忠助と上下3人で到着したが、まだ元気な者も残っていたので、互いに喜び合った。この医者から新暦を写し取ったところ閏6月があり、大小の月日も判明した。
5月18日、御城付足軽成田栄次郎が病死した。
松前から、飛脚が到着した。箱館から斜里まで、文吉らは約2ヶ月かけて徒歩で移動した。飛脚が陸路で来たとすると、一般人の3倍の速さで移動したとして、外崎らが松前をでたのは4月下旬(陽暦の5月下旬)と思われる。厳しい冬が終わり、経済活動がようやく再開したのである。斜里からも、帰国希望者の出発が続いた。6月には、医者とその従者3名が到着した。「楽しかった」「喜んだ」などの表現に、ようやく一息ついた安堵感が見受けられる。
6月10日〜閏6月13日(陽暦8月4日)
斜里の漁業は、6月中は鱒漁ばかり、7,8月は鮭漁ばかりで、小魚の類や昆布のようなものは一切無い場所である。
昨年、6月中は綿入、朝夕は袷を重ね着して凌いだ。7,8,9月のころになると、時には単衣を着用することもあったが、9月に入って単衣を着たのは2日だけであった。とにかく奥地勤務の場合は単衣はさほど必要がない。夏羽織など、これまた着ることがない。蝦夷地全体について言えることで、四季の差別にかかわりはないのである。
閏6月13日(陽暦8月4日)、足軽目付桜庭又吉が病死した。郷夫藤崎村の忠助が脱走したらしく、捜索したが発見できなかったので、その旨上役に報告した。
5月下旬になると、午前10時ごろまで霧がかかり、閏6月に入っても霧の止むことなく、細雨のように衣類を濡らし、毎日傘をさして諸用をたした。雨天などの場合はとくに強く、6,7間も離れると衣類の縞目もわからない。まことに番地の気候で、病人も多くでたはずである。
閏6月10日ごろから袷を着用するほどの暖かさとなったので、残った者たちは喜び合った。しかしなお朝夕は綿入れを着て凌がねばならなかった。
再び「小魚や昆布のようなものは一切無い」とある。裏を返せば、それらを強く求めていたことの現れであろう。文吉は賄役小頭に昇任したため、多数の死者が出たことに対する責任の一端を負うことになった。藩から事情聴取を受けることを想定して、このように漁業事情を記したのかもしれない。また、衣服などの事前準備が斜里の実情と合わなかったことも強調されている。この頃から、日記には業務改善に向けた提言が増える。そんな中、死亡者の遺品を管理していた足軽目付の桜庭又吉が病死し、これが斜里越冬隊の最後の病死者となった。日記には書かれていないが、これから先、帰国までの文吉の行動を見ると、目付が所持していた死亡者に関する記録簿を受け継ぐよう命じられたものと推定できる。
閏6月24日
当斜里場所は、冬期間の寒気はすこぶる強く、とても越年などは出来そうにない所と、前々から決まっているそうである。それなれば、ここに住んでいる蝦夷たちは冬季間どこへ行くのかと尋ねたところ、斜里から東海岸へ向って山合を隔てクスリという所まで7里ほどあるそうだ、このクスリまで山沢を通って引越し、翌年4月ごろまで斜里には帰って来ないのだそうだ。飯炊き蝦夷の弁慶がこのように言うのである。それとも知らず、このような場所へ御人数を配備したのであるから、病死者の多く出たのも当然のことである。今後は、秋9月から翌年4月までは、東地へ移動させて冬季を過ごすよう仰せ付けられたいものである。
蝦夷言葉に、古くから住居、越年するところをウルハコタンと言う。ウルハは古いところを言う。コタンとは住居の里を言うのである、と子供蝦夷は言っている。ウルハコタンへ行くので、しばらくはお目にかかれませんと言って、10月初め頃までに当地を引き払うのだそうである。
飯炊きの手伝いに雇った蝦夷アイヌの弁慶や子供蝦夷の話から、アイヌの冬村「ウルハコタン」のことを知った。ウルハコタンが“古い住居”を意味するとも書かれている。文吉は、弁慶と接するうちに蝦夷言葉も少しわかるようになった、と少し得意気に記している(3月15日付)。しかし、日常生活にかかわることならば身振り手振りで理解できるとしても、冬村「ウルハコタン」へ移動する「日時」や「古い」、「東」などの概念的な蝦夷言葉を簡単に理解できただろうか?アイヌ語で東は「チュプカ」と言い、チュプ(太陽)+カ(上)から成り、「東へ」は「エチュプカウン」である。実態は、蝦夷アイヌの弁慶や彼らの子供の方が、先に日本語に馴れていたと考えられる。そもそも「弁慶」などと日本風に名乗っていることからも、アイヌ世界に日本語が広まっていたことがわかる。また、日記全体を通じて、荷役として雇用される蝦夷アイヌが頻繁に登場する。日本製の鉄器、工芸品、酒などの加工食品は、すでに蝦夷アイヌの生活に浸透し、通詞役以外にも日本語を理解する蝦夷アイヌは少なくなかっただろう。興味深いことに、ほぼ同様の事情が、北千島アイヌとロシア製品、ロシア語の関係にも見られる(参考文献21)。
アイヌの冬村「ウルハコタン」は何処にあったのか?
弁慶曰く、―斜里から東海岸を行き、山沢を抜けた7里ほど離れたクスリにある―。高倉新一郎先生の日記訳文注釈に、クスリは釧路川上流の屈斜路湖周辺を指す、とある。距離的に一致し、クスリ、クシロ、クッシャロの発音もよく似ている。知床半島から白糠まで伸びる山脈を越えた屈斜路湖周辺には、温泉が豊富にある。冬季を過ごすのに適した場所である。
“このような場所へ御人数を配備したのであるから、病死者の多く出たのも当然のことである。今後は、秋9月から翌年4月までは、東地へ移動させて冬季を過ごすよう仰せ付けられたいものである。”この文章は、藩への抗議と改善策の提言である。「昆布などの漁獲は全く期待できないため、食糧事情の改善は難しい。冬季を温暖な地区で過ごせるようご配慮願いたい」。日記のこの部分は、斜里派兵が将来も継続して行われることを想定している(実際に、馬場種次郎らの第2次派遣隊は、文吉が弘前を発った時点で、すでに用意されていた)。文面から、文吉本人の建白の姿勢は読み取れるが、支配層の大名家一族や家老、有力士族、出先機関である江戸屋敷、知識層の藩学校、お庭番その他にこの意見が伝達されて情報が共有されたかどうか疑問である。いずれにしても、無事帰国できた15名の生存者から、斜里での出来事はあっという間に弘前城下・藩内に知れ渡ったに違いない。
閏6月24日
閏6月の末になっても交代の模様が分からず、どうなることかと案じていたところ、同24日の昼過ぎ、当地の沖合いに帆掛船が現れ、こちらへ近寄って来るように見えたので、一同が小高い所へ登って見物していると、いよいよ湾内に近づいてきた。それで交代船かもしれないと一同が喜んでいると、間もなく小船に3,4人が乗り移って上陸し、わが陣営へ参り、御用状持参の旨を申し出た。そして、当初引き払い命令が出たので、450石積み千歳丸到着しだい引き揚げよとのことで、これを皆々に伝えたところ大いに喜び、このことを公儀御役人衆へ報告し、それから準備に着手した。まず御武器ならびに御運送残品の調査にかかり、たちまち作業を終わった。ただし、御陣屋3ヶ所、物置所ならびに稽古所はすべてそのままにしておくよう仰せつけられたので、これらを会所支配人に引継ぎ、また米・味噌・塩の類は公儀でお買い上げの予定なので、その値段を取り決め、それぞれ計量して支配人に渡し、その代金57両・銭1貫530文の受取証文を当所詰合岩間哲蔵へ提出した。
御武器ならびに諸道具を千歳丸に積み入れのため、蝦夷人夫を雇いあげてとりかからせ、御人数着替え荷物を合わせて総数486個を引き渡した。それで日より待ちとなったので、これまでに死亡した御人数の墓所に、桧で高さ2間・7寸角1本の墓標を工藤茂兵衛が削りたて、形よろしく出来上がったので、斎藤文吉が病死者72名の俗名を席次順に書き記し、それを郷夫2人に持たせ、工藤茂兵衛・斎藤文吉ならびに郷夫2人の4人連れで墓所へ参り、その上の方に持参の角柱を建て、それから墓所の土を少しずつ死者の数だけ紙に包み、名前を書き記して箱に入れ、それを七島莚(むしろ)で包み、帰国のさい斎藤文吉の宿元へ持参のうえ、各自の宿元へ届けることにした。なお、この墓所は御陣屋の後方5町ぐらいの奥、平地の山合いにある。さて墓標に向い、日和待ちについき、当所警固の人数は引き払いを仰せつけられ、迎えとして千歳丸450石がこのほど参着したので、風順しだい出立する旨を申し唱え、各自へ水を供えたのであるが、思わず涙にむせんだのである。
帰国に際して、残った米・味噌をご公儀に買い上げてもらった。その金額は57両余り。米・味噌の類は、この時点でまだ十分な量が残っていたのである。57両が現在の400-500万円ほどに相当するとして、おおざっぱであるが、米に換算して200俵以上残っていたのだろう。死亡者続出のために消費量が落ち込んだことは確かであるが、米の備蓄が十分量あったことが示唆される。
交代船千歳丸450石(およそ65トン)がようやく到着した。交代船と書かれているが、交代要員はなく、第2次斜里派兵が中止されたので、実際は撤収船であった。蝦夷人夫を雇って、斜里に運び込んだ武器や道具類を積み込んだ。蝦夷人夫の雇用者数、賃金、通訳などに関することは書かれていない。都合よく、必要な人員が確保できたのだろうか。出来たとすれば、その蝦夷人夫はどこから来たのか?蝦夷地に派兵した他藩も同様に蝦夷人夫を雇用したのだろうか?荷役請負ブローカーが存在したのか?疑問は尽きない。
斜里を離れる直前、工藤茂兵衛と斎藤文吉の2人は、郷夫2名を伴って病死者72名の墓標を建てた。この4人の健康状態は心身ともに比較的良好だったと思われる。死者が続出して以降の弘前隊の中で、4名は心理的支柱になっていたと思われる。ところで、死者の名前が漏れなく記されている一方、墓標を運んだ郷夫2名の名前は書かれていない。ここだけ書き忘れたのではなく、生存中の郷夫の名前を士族と並記するのが憚られたのだろう。しかしながら、この2名は、十三町の藤三郎および金井沢の伊助だったと推定できる。なぜなら、工藤茂兵衛、斎藤文吉と同じ一番隊に所属する郷夫の生き残りは、この2名だけだからである。三番隊まで含めた全体でも、生きて帰郷できた郷夫は4名しかいない。墓所の土を持ち帰る手筈を整えた。土を遺骨代わりとして家族の元へ届け、証人として惨事を伝える文吉の決意が読み取れる。
閏6月26日〜7月6日
閏6月26日(陽暦8月17日)、千歳丸の船頭が言うのは、近日中に順風がでそうだから、本日中に乗船されたいとこことで、このことを公儀御役人岩間哲蔵殿にお届けし、会所支配人をわが陣屋へ呼び寄せ、御長屋3ヶ所ならびに物置所・稽古所ともそれぞれ引き渡し、すぐさま会所岩間哲蔵殿にご挨拶のため、笹森寛蔵、田中才八郎が上下4名で参上した。そのほかの者は、中村本川上下2名、斎藤文吉、工藤茂兵衛、福士利助、三上右衛門、高屋五八郎、郷夫の者和徳村久兵衛、岩崎村市五郎の9名で、同中用心のため十匁筒2挺、六匁筒1挺、3匁筒1挺を携えて乗船した。斜里警備御人数102人のところ、引き払いのさいには計17名となっていた。船中で昼食をとったが、午後3時ごろ風向がよくなったとのことで、だんだん沖合いへ出て行ったところ、ますます順風とのことで疾走したが、7月2日、宗谷沖合で風が変わり、やむなく樺太島クシュンコタン(久春古丹、後の大泊)の沖まで行った。しかし、暮れ頃になって出し風が強くなり、とても湾内に停泊できないので、利尻という島へ船がかりし、ここに3昼夜滞留した。その間上陸し、島の蝦夷人と魚類を少々交易取替えし、また飲料水なども積み込んだ。こうして久しぶりに生魚を口にすることができたのである。
7月6日の明け方、ここを出帆、神威岬を廻そうとしたところ、またもや風が変わったので、止むなく積丹という所へ船をつけた。この積丹の沢の奥に名竹が生えている。この沢の入り口に会所があって、番人が竹林の見張りを兼ねているとのことである。
当初の計画では、松前あるいは箱館まで船で行く予定であった。宗谷海峡を越え、更に積丹半島の神威(カムイ)崎を廻そうとした。船は難所に差し掛かった。
7月7日〜7月13日
7月7日の明け方、風順がよくなったので積丹を出帆、走り船になったが、何とも神威崎を廻しかね、とやかくしているうちに夜中になった。ところが、翌8日の明け方、大風が吹き出して停泊困難となり、碇4丁をおろそうとしているうちに、船尾を大破し、危く沈没しそうなったので船員たちは総立ちで働いたが、悪風ますます吹き荒れて危険となった。そこで、せめて忍路(オショロ)という所へ船寄せしたいとのことで、船員たちはいろいろと立ち働き、ようやく昼過ぎ忍路へ着き、一同は安堵の胸をなでおろした。
この忍路にも会所があったので、一同上陸した。ところが、ここから3里ほど東に高島という所があり、その場所にわが御馬廻組頭森岡金吾殿後人数350人ほどが駐屯していると、会所の支配人から聞いたので、田中才八郎と工藤茂兵衛が郷夫2人を従え、蝦夷人夫を雇い先発させて行ったところ、たしかに駐屯していたので、斜里詰人数御引き払い命令により帰国の途中であるが、近来風順が悪く難儀している旨を申しあげたところ、斜里詰御人数は全滅したとの風聞があり、弘前表においても手配が行き届かなかったのではないかということであった。しかし、たとえ1人でも無事に帰国できたことは、世間の聞こえもよろしい。一行は陸行したほうがよろしく、そのことを自分からも藩に伝えておくが、明日は忍路へ行って一同と対面すると申されたそうで、才八郎・茂兵衛は直ちに引き返し、そのことを皆に伝えたのである。
7月13日午前10時ごろ、森岡金吾殿は上下34人で忍路会所へ起こしになり、お呼び出しがあったので参上したところ、早速ご挨拶をいただき、そのうえキセル1本、玉たばこ2つ、そうめん1把ずつをくだされ、明日は高島陣屋へ参るよう仰せられて、午後2時ごろお帰りになった。
積丹沖の波浪に飲まれ、船尾が破損した。破損の詳細は書かれていないが、深刻な状況であった可能性がある。
船尾(艫)は、千石船(弁財船)の弱点である。瀬戸内海などの内海航海での高い操舵性と横流れ防止能を生み出すため、千石船の舵は船体に比してかなり大きく作られた。そして、水深の浅い河川港に停泊するため、大きな舵は着脱可能な状態で外艫に装備されていた。内海あるいは静穏な沿岸での航海では、こうした船尾の工夫が生かされた。しかし、それは荒天の外洋航海には全く不向きな構造上の問題であった(参考文献10)。千石船の漂流原因は、多くの場合、舵の破損であった。外艫の舵取り付け部から海水が浸入可能なため、舵からそれを固定している外艫へ破損が拡大し、更に外艫と船本体の棚板との連結部分まで破壊が進んだ場合、淦の道(船内への海水浸入経路)が作られて、船は沈没する(木製なので最終的に船の一部は海上に浮かぶ)。
千歳丸は幸い沈没を免れた。おそらく、損壊は舵と外艫の一部までしか及ばなかったのだろう。舵が効かなくなったため、半日かけて忍路へたどり着いた。忍路は積丹から小樽方向へわずか15kmほどの距離にある。
遭難しかけて想定外の湊に入ったが、運良く、近くの高島に弘前藩の警備地があった。その頃高島では、斜里隊全滅の噂が広まっていた。全滅はお家の恥ずべき惨事として捉えられていたと思われる。不祥事、不始末の類とされたのだろう。だから高島詰管理職の森岡金吾は「生存者がいることは世間の聞こえもよろしい」と喜んだ。陸路で帰ることを勧めたのは、おそらく、破損した船尾の修理に時間がかかることを心配してのことだろう。
7月14日〜7月24日
7月14日、千歳丸の上乗りを工藤茂兵衛と決め、残る16人は蝦夷船を雇って高嶋陣屋へ参上、昨日のお礼を言上した。素麺はもちろんのこと、久しぶりに煙草にありつき、一同大喜びであった。同15日は高島滞在を仰せ付けられ、16日にここを出発、小樽内運上家から蝦夷人夫6人を雇って着替え荷物を運搬させ、16人連れでその日は石狩泊まり。17日石狩出立、それから川船に乗って石狩太へさかのぼり、4、5町ほど陸行して仮小屋に泊まった。18日同地出立、またもや前日の船に乗って上流へさかのぼり、対雁(ツイシカリ)という所で昼食をとり、それから千歳川へ入ってこれをさかのぼり、千歳の運上家へ泊まった。ここは蝦夷家が30軒ほど見えた。千歳から石狩までの道程25里ということである。千歳川は5年以上前まではエラフ川と称していたそうである。さて、石狩川というのは松前第一の大河で、700石積みの大船が航行できる。
7月19日千歳出立、4里半で美々という所で昼食、ここに蝦夷家8軒が見える。美々から川船で1里半下り、それから陸行して東海岸へ出、勇払という所の会所で宿泊。ここから牛馬が見られる。同20日勇払出立のさい駅伝の馬2頭を出し着替荷物を積ませたが、馬追いは蝦夷人であった。よくも熟練し、巧みに牛馬を操った。途中に昼休み所がなく、9里進んで白老という所で泊まる。この白老には蝦夷家が40軒ほどあり、村落の形態を備えている。この辺から南方は蝦夷地でも相当の場所のように見える。漁事もかなりあるということである。運上家の向いに幅3間に7間(21坪)の長屋を1棟建てておき、一般の旅人はこれへ泊めるようである。白老は、5ヵ年以前津軽藩の警備地で、御人数150人が配備された場所だという。そのとき御陣屋を建設された敷地内の井戸がそのまま残っており、今でもこの水を使用している。同21日白老出立、道程7里7町で幌別泊まり。ここに蝦夷家が20軒ある。ここは畑作をしているようで、作物を蒔きつけた畑も見える。ここへ来るまでの間に畑作は見られなかった。
7月22日幌別出立、室蘭泊まり、道程5里、蝦夷家は22軒見える。ここも先年わが津軽藩の警備地で、御人数百人固めの場所であり、御陣屋は山手の方にあるそうで、その屋敷跡が見える。ここではホタテ貝の漁事がある。同23日は滞在し、同24日室蘭出立、有珠会所泊まり。道程は6里半。ここには有珠嶽といてえ登り1里半ほどの山があり、その山麓に牧場があるという。善光寺という寺があるが、思うにウスケ嶽というので善光寺とつけたのであろうか。ここも先年津軽藩の警備地で、御人数百人が駐屯したとき、御陣屋を建設された場所が山手の方に見える。ここに人家(和人家)9軒あり、その下方に続いて蝦夷家30軒が見え、畑地の開発が行われ、蒔付物も見える。それから1里ぐらい進むと虻田という所で、会所の造りも相当立派に見え、蝦夷家は36軒と見受けた。
千歳丸積荷の監督は、工藤茂兵衛が担当することになり、残りは陸路で松前へ向った。陸路ルートはおおよそ現在のJR室蘭本線に沿っている。途中、弘前藩が設営に関わった陣屋(跡)(白老、室蘭、有珠)を経由する。周辺には幕府会所と漁業運上屋が多く、日記にあるように「蝦夷地の中でも相当の場所」であった。牛馬があり、熟練した蝦夷人夫が馬追いをしていることに驚いている。
有珠山麓に幕府が開設した牧場があった。おそらく北海道牧畜業発祥の地であろう。ここに善光寺という名の寺があり、その由来を「思うにウスヶ嶽というので善光寺と名つけたのだろうか」と推論している。俗説で、ことわざの「牛(ウス)に引かれて善光寺参り」から、駄洒落で善光寺となったと言われている。しかし、有珠善光寺は、蝦夷地警衛中に死亡した士卒の供養のために造られた官営寺であるから、さすがに駄洒落説は間違いであろう。いろいろグーグル検索をしていると、外村久江の「早歌『善光寺修行』と参詣の旅」を見つけた<http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-zenkoji.htm>。その昔、江戸方面から長野県の善光寺へ行くためには、難所の碓氷(ウスイ)峠を越えなければならなかった(現在、峠下のトンネルを新幹線あるいは自動車で通過できる)。上述の早歌は、鎌倉から善光寺までの道筋を読み込んで、観光ガイド風に編集されたものである。その1節に、「青葉こそ山のしげみの木蔭なれ いざ立寄てかざしとらむ 一村雨のやすらひに 未染(まだそめ)やらぬ紅葉ばの薄紅(うすぐれなゐ)の臼井山(うすゐやま)」とある。ここで詠まれているのは、「はこその山」即ち波己曽の山(碓氷峠付近の妙義山)であるらしい。駄洒落ではなく、「有珠>ウス>臼井山>碓氷峠>善光寺」という連想ゲームで名前が付けられたと思われる。
7月25日〜8月塑日
7月25日有珠出立、道程5里半で礼文華(レブンゲ)の会所泊り。蝦夷家は29軒である。同26日、礼文華出立、6里半で長万部(オシャマンベ)泊りとなる。この礼文華からは海岸通行となるので、風雨の際は大時化となり、通行者のうち命を落とすものが多かった。人みな難道と唱え、天候を見定めてから通行してきたという。そこで先年津軽家に新道開削が命じられ、山道を伐開したところ通行が自由となり、これを新道と呼んで、今ではこの道ばかりを往来する。海岸道を廻るより遥かに近くなったということである。同27日長万部出立、ここの蝦夷家は20軒ばかりと見える。8里半で山越内(ヤマコシナイ)泊り。ここまでは蝦夷家がある。ただし、和人家も10軒あり、その下方に蝦夷家13軒が続いている。すなわち、ここは蝦夷地と和人地の境界で、これから松前までの間に蝦夷家はない。ここの蝦夷人は和人と同様で、木綿の着物を着ており、言語も蝦夷言葉ではない。和人家の中には荒物屋も見え、店の造作もよろしいように見える。同28日山越内出立、5里の道程で鷲野木(ワシノキ)泊り。ここの人家は17軒である。同29日鷲野木出立、8里半で大野村泊り。ここは人家が56軒あるという。これから松前城下までの集落には村名がついている。畑作物を撒きつけ、旅行者のための宿継所があり、また木綿・油屋・受売り酒屋・荒物屋の類、その他宿屋などもあるようである。ただし、銭湯屋はないので、各自が大きな木津に汲み湯して入浴している。去る文化3年寅年から周辺の開発が行われたと、村人は言っている。しかし、去年松前家がお国替えを命ぜられたので、現在は御天領(幕領)ということである。
8月塑日大野村出立、5里の道程で箱館へ着いた。大野村から3里のところに亀田村があり、ここに2軒の茶店がある。そこで昼食をとり、それから2里で箱館へ着く。ここから松前城下までの手帳を紛失した。
JR室蘭本線は、室蘭から洞爺湖・長万部方面へ向かって海岸線に沿って走る。しかし、礼文華付近だけは例外で、険峻な岬を迂回し、内陸部を通っている。文化元年(1804年)に普請した新道はこの迂回路に相当する場所に造られた。弘前藩は、礼文華の他、シツカリ(静狩)でも新道敷設事業を担当した。シツカリは室蘭側から見てちょうど礼文華を越えた海岸沿いにある。長万部側から見れば、海岸部に突き出た礼文華の山の手前にある。アイヌ語で、シリは「地面、山」を、トゥカリは「・・・の手前」、を意味する。シリ+トゥカリ=シツカリ、転じて静狩である。下北半島・尻屋崎の南に尻狩という地名がある。これも同じアイヌ語のシツカリに由来するそうだ(アイヌ民族文化研究センターだより、28号、2008年、山田秀三「アイヌ語地名考」)。
山越内(今の八雲町)が蝦夷地と和人地の境界であった。興味深いことに、境界地の蝦夷人は、生活様式だけでなく言語も和人化していたと書かれている。和人地は、東は八雲町から西は熊石まで、つまり渡島半島の最も細くくびれた部分よりも南側であった。
鷲野木(今の森町)まで来ると、蝦夷人はいない。宿屋や荒物屋(生活雑貨店)があり、日記によれば、前年に松前藩による周辺開発が行われたらしい。ここで松前藩の国替えと天領化(幕府直轄化)の報を伝え聞いた。
陰暦8月1日、ついに箱館到着。箱館まで来ると、茶店まである。酒もあった。気の緩みから、大切な手帳を紛失してしまったのだろうか。箱館には、蝦夷地警備の幕命が下った仙台や会津などの大藩も詰めていた。彼らは、きっと斜里隊の生き残りから情報を得ようとしたに違いない。文吉は茶店で、ちょっとした応接を受けたかもしれない。
「斜里生き残りの津軽殿とお見受けいたした」
「ここは蝦夷地、他藩の者どうし茶店で同席も問題ござらん、さ、さ、一杯。ご入魂に。」
「最上徳内殿は、どのような御人でござるか?」などなど・・。
最初は遠慮していたが、次第に打ち解け、
「仙台殿、海原に氷の山が現れるでござる、それは恐ろしく大きく、見渡すか限りどこまでも続いている…」などと、若者らしく得意げに語ったかもしれない。
<露寇前夜>
−(前述)1770-71年ウルップ島:アイヌの漁小屋がコサック(ロシア国境警備隊)に小銃で襲撃され、長老が殺害された。しかし、逆襲によってロシア側も21人が殺害された。
ウルップ島事件の後、露側の単純な強行路線は変更を余儀なくされた。南千島では、少人数で行軍すれば返り討ちにあうことがわかったからだ。そこで、諸事を現地のコサックや司令官に任せるのはやめ、交渉のためにモスクワの高官や露米会社の幹部を派遣することとした。
一方、アイヌの和人への組織的な抵抗は、国後・標津地方での乱(1789年、クナシリ・メシナの戦い)を最後にほぼ絶え、蝦夷地アイヌは北からロシア人に南から日本人に追い詰められ、完全に領土を失った。別の言い方をすれば、つまり、ロシアと日本の勢力圏が直に接することになった。
この後の日露交渉の展開は教科書に書いてある通りである。注意すべき点は、ウルップ島に拠点を造った露米商会が、1796年から1799年までの間、国後、厚岸などのアイヌを仲介して日本と密かに交易をしていたことである。これに対し日本(幕府)は、アイヌのウルップ島渡航を禁じ、エトロフに要塞(幕府の会所、弘前藩と盛岡藩の勤番地)を建設した。ロシアの100年以上に渡る日本航路開拓の努力は、結局報われず、1805年に米露商会はウルップ島から撤退して以降戻ることはなかった。
8月5日〜6日
8月5日松前御城下。ここの津軽陣屋は柴垣をめぐらしているので、柴垣の陣屋と唱えている。ここに落ち着き、日和待ちの間しばらく滞留した。
去年の6月、箱館陣屋から急に奥地へ出立したが、その後において松前家はお国替えを命ぜられて新領へ引越しされ、松前城には箱館詰御奉行衆が移られたので、わが津軽家でもそれまで箱館にあった陣屋を引き払って松前に移り、松前藩家老松前左善の家を譲り受けて本陣と定めたが、高台にあって見晴らしの非常に良い屋敷である。2陣、3陣も松前藩士の家で、そこで御人数が配置されている。拙者も3陣に滞留したのである。
8月6日、斜里場所出帆の千歳丸が到着したとの報告があった。そして上乗の大組足軽工藤茂兵衛が上陸して3陣に滞在、天候しだいで青森表へ廻航するが、また上乗を勤めるはずである。
千歳丸は1ヶ月前に積丹半島を廻りきれず、難破しかけた。割合に短時間で修理できたものである。当時、石狩川では700石積みの和船が航行していた(7月17日付日記)ということであるから、造船業、少なくとも材木の切り出しと補修業ができる船大工などの職人が石狩地方へ入植していたのだろう。転封となった蠣崎氏の松前城は奉行へ明渡し、家老の屋敷は警備担当藩の陣屋となってしまった。
8月9日〜8月20日
拙者帰国に際し、松前家から津軽家へ贈られた鷲1羽、駕籠に入れてお預けを命ぜられ、帰国したとき御鷹部屋へ差し出すようにと、御用状を添えてお預けになった。ところが、明10日、御飛脚船を強いて出船させるからそれで出発するように命ぜられ、郷夫の者どもに鷲駕籠を持たせ、午前9時ごろ松前表を出船したが、日和もよろしく午後2時すぎ無事三馬屋表へ到着、大慶安堵した。三馬屋で鷲駕籠持ちの人夫と、宿継ぎのさい鷲の餌にする小鯛・カレイ・カナガシラの類の小魚を差し出すよう居鯖(いさば、魚屋)どもに申し付け、先触れを直ちに出発させた。
8月11日三馬屋出立、鷲駕籠持ち人・手代とも3人で蟹田町泊まりとなった。同12日、人夫4人のうち1人に着替え持ちを申し付け、青森町泊りとなった。同13日は滞留して、弘前までの先触れを出し、青森の居鯖どもに鮮魚の供出を申しつけ、同14日は波岡村泊り。同15日弘前城下へ入って御鷹部屋へ鷲駕籠をお渡しした。それから頭方のお宅へただいま到着の報告を申し上げ、松前方へも連絡を依頼して、ようやく宿元へ帰ったのである。
8月16日、青森表へ千歳丸が到着したので、御人数の着替荷物ならびに御武器の類を弘前へ輸送するよう御用命があり、即日出発して途中高田村で1泊し、同17日青森表に着いた、上乗の工藤茂兵衛と両人で、御武器の分は封印のまま松前方へ上納し、御人数着替えの分は宿札をつけて宿継ぎし郷夫らの荷物は青森伝馬から受取りを差し出させ、荷物を付け札の村々へ届けるよう申しつけて発送させた。同20日(陽暦10月9日)自宅へ帰着した。
文吉は移封された松前藩からの贈答品(鷲)を預かり、先に出発することになった。わざわざ鷲のために魚屋に小魚を供出させている。よっぽど大切な鷲だったのだろう。ところで、蝦夷地で最も頻繁に接触する機会があったのは、北海道各地の警備を命じられた盛岡(南部)藩だったはずである。秋田藩とはご近所付き合いがあった(6月4日付け日記)が、やはり、南部とは絶縁状態だったのだろうか。何も書かれていないが、おそらく、そうだったのだろう。
現在、初代津軽氏が南部氏一族であることは、様々な資料から確実と見られている。しかし、江戸時代はもちろんのこと、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に出版された青森県編集の「県史」でも、津軽氏の出自はいわゆる伝説(架空)の藤姓津軽氏となっている。いろいろな意味で、言い尽くせない因縁の深さを物語る。ちなみに、明治維新の際も、弘前藩と盛岡藩は衝突した(野辺地戦争)。
青森から途中、浪岡で一泊し、ようやっと弘前へ帰ってきた。蝦夷地派遣命令を受け弘前から青森まで夜通し歩いて行軍したのは、1年半ほど前のことである。長い長い1年半であった。
−(前述)1669年(シャクシャインの乱)−
南部氏一族である津軽氏は、しかしながら、遠い存在ではなく、松前・蛎崎氏が内々に相談できる相手であったようだ。
ことは南部家の内紛(九戸の乱)に始まったらしい(参考文献20)。
3人息子の一人家光を津軽平野南部の金沢城へ送り込んだ南部守行から数えて6代目(第24代)の晴信には娘ばかり5人、男子なく、叔父である石川(弘前)城主・南部高信の子、信直を養子にした。将来、宗家を継ぐことが想定されているのだから、養子選びは能力・適格を判断して慎重に行われただろう。ところが、信直は子供がないまま妻(晴信の長女)に先立たれたうえ、義父晴信に男子(晴継)が授かり、信直の居場所がなくなってしまった(廃嫡)。信直の実父が実力者の高信であったため、このややこしい状況は、一族を2分する跡目争いに発展した。実子晴継がかわいい晴信は、叔父高信派の勢力を削ぐため、1571年、久慈出身の大浦為信に石川城攻撃を指示した。津軽領内の高信派は総崩れとなった。
ところが、大浦為信(初代津軽氏)の後ろ盾であった南部24代当主・晴信は翌1572年、死去。息子晴継は、実父の葬儀の帰途、暴漢におそわれ殺害された。文献20によれば、高信−信直親子派のクーデターであったらしい。南部家26代当主となった信直と、大浦為信ら晴信−晴継親子派の抗争は、その後も20年近く続く。この抗争に終止符が打たれたのは、豊臣中央軍による晴信−晴継派(九戸の者が多かった)の一掃(1591年)であった。九戸政美(晴信次女の嫁ぎ先)や久慈直治(久慈家当主)ら、首謀者は逆臣として処刑され、彼らの子供たちの多くは、津軽氏と成った為信に引き取られ家臣団に加わった。(つづく)
日付なし
斜里場所警護の御人数100人が駐屯していたところへ、翌5月、御医者中村本川が参着したので合計102人となったが、以上のうち13人は、病気のため去年の冬から今年の夏までの間に、宗谷あるいは松前で養生したいとの願いが聞き届けられて出発させた。ほかの72人は、去年11月25日から今年閏6月13日までの間に病死した。残る17人のうち2人は越年者ではない。15人が越冬駐在して今回帰国したのである。
箱館から斜里までの集落とその間の距離、宿泊地などが書かれているが省略。
斜里場所で御陣屋詰合御人数の食料用の魚類を同所の運上屋から買い上げると、塩引き魚1本につき代価100文づつであった。蝦夷どもから直接買い上げることは禁止されていたが、内密に生鮭を買い上げたときには1本の代価は1分4文ずつであった。もっとも塩蔵の魚は蝦夷は持っていないのである。
蝦夷島の周囲は700余里である。
予が22歳の年、松前表へロシア船数十艘が乗り廻している様子なので、急ぎ明後26日弘前を出立せよとの命を受けて、蝦夷地において越年、翌辰年は閏6月があったので、17ヶ月めにようやく宿元に帰り着いたのである。
斎藤勝利 所持
−(前述)九戸政美(晴信次女の嫁ぎ先)や久慈直治(久慈家当主)ら、首謀者は逆臣として処刑され、彼らの子供たちの多くは、津軽氏と成った為信に引き取られ家臣団に加わった。−
大浦為信が津軽氏と名乗る決断をしたのはいつ頃だったのだろうか?
“向かうところ敵なしで、民衆の人気も高かった(「津軽一統志」)”としても、全津軽の平定が簡単ではなかったことは想像に難くない。南部高信を滅ぼし、拠点石川城を手に入れた後、為信は、高信派南部勢、秋田湊安藤氏(安藤愛季)との3つ巴の戦い突入した。域内には、波岡の北畠氏と津軽蝦夷・蝦夷地アイヌの拠点も残っていた。後ろ盾であった南部宗家を失った状況では、戦略の練り直しを強いられたに違いない。津軽氏を名乗った契機は、波岡北畠氏を攻略したことだっただろう。
波岡北畠氏と安藤氏はともに室町幕府体制下の盟友であった。その為、北畠氏への攻撃は安藤氏の反発を買い、北畠家臣団の安藤家への亡命と安藤愛季軍の津軽領侵攻を招いた(1579年)。更に、安藤氏配下の松前・柿崎氏が外が浜から挟み撃ち攻撃を加えた。その結果、大浦勢は大苦戦となった。為信はあやうく死にかけたとも言われている。天正7年から天正11年(1579年−1583年)の大浦為信の足跡は、南部・津軽両家の史書に記載がなく、よくわかっていない。南部・津軽に共通の不都合な事実があったと想像できる。安藤愛季は南部信直とも仙北地方で交戦していた。おそらく、大浦氏と安藤氏は和睦したのだろう。
北畠氏が滅び、油川湊が大浦為信の支配下に入れば、安藤・蛎崎勢の収入源であった蝦夷交易(毛皮貿易)利権を奪われてしまう。安藤愛季と蛎崎季広の行動の背景には、為信に殺された南部高信の時代までは確保されていた津軽沿岸部での蝦夷交易利権が関わっていた。そうだとすると、和睦の条件は、「津軽領内での蝦夷交易を廃止し、これを松前領内に限定する」ことだったのではないだろうか?そうすれば仮に油川湊を失ったとしても、交易の独占利権を維持することができる。元々油川に領土がなかった安藤氏側にとっては悪くない条件である。しかしながら、当然この政策は、津軽領内(特に沿岸部)の津軽蝦夷・蝦夷地アイヌの反発を買うことになる。大浦為信は、彼らを掃討するのに多大な労力を費やしたに違いない。
「アイヌ掃討作戦を遂行した大浦為信の家臣団は、大浦譜代以外に、安藤・南部両氏の侵攻で浪人となった隣国比内・鹿角の領主層や、東国・北陸や畿内近国などから北の地に移住してきた武士であった(参考文献2より、抜粋)」。彼らにとって、蝦夷地やアイヌ、毛皮交易は全く新しいことで、戸惑うことも多かったはずである。為信自身もそうだった。そう考えると、「油川生まれのご落胤末裔に土着性をからめた津軽家の“公式”家計図」が、津軽統一戦の宣伝文句として使われていたとしても不思議ではない。
為信と安藤は、和睦から一歩踏み込んで「同盟」を結んだのかも知れない。その後に起こった寛文蝦夷蜂起での松前と弘前の協力関係や、文吉日記に書かれた久保田藩・松前藩との交流関係は、この同盟関係に根ざしたものだったのではないだろうか。
津軽氏の菩提、長勝寺には藩祖為信の“ミイラ”が祀られている。長勝寺には、津軽氏代々のお宝と共に、安藤氏の聖遺物と伝えられる物品が保管されている。遺物の真贋についての議論はあるだろうが、はたして敵同士であったご先祖を一緒にして御霊を守るだろうか?
日記の末尾に、日付なしの部分がある。覚書のようである。
運上屋では塩引き鮭が1本100文(2000円程度)で販売されていたが、蝦夷から直接生鮭を買うと1分(10分の1)4文、つまり1本40文(800円程度)だった。塩蔵経費が1本1000円以上かかるとは思えない。塩引き鮭の価格の半分以上は松前藩に支払う場所代であったと考えられる。これが松前藩江戸屋敷の維持費、交際費などの原資であった。収入を確保するため、千石船(弁財船)の松前入湊と蝦夷地での漁は、厳しく管理されていた。文吉は、蝦夷地での鮭取引にカラクリがあることに気付いた。この事実を伝えたいがため、敢えて生鮭購入を日記に書き残したと思われる(もっとも、新発見だと思って興奮したのは本人だけだった可能性大であるが・・・)。カラクリに気付いた文吉だったが、弁慶ら蝦夷人夫への同情と運上屋批判は日記から読み取れない。末尾の署名、勝利は文吉の諱である。
松前詰合日記は、手帳に書いた日記原本を下地にして、帰国後に再編集されたことが明白である。それでは、弘前の宿元へ着いてから、日記を完成させるまでにどのような経緯があったのだろう。以下は全くの想像である。
おそらく、帰国後すぐに手帳の内容を整理して第1稿を作ったであろう。その間に、弘前藩当局からの事情聴取があったと思われる。
想定される聴取内容は主に下記の6点だったと考える。
1.多数の死者が出たことの事実確認
2.道中賄役としての死者続出への対応
3.目付の桜庭又吉が死亡した閏6月13日(陽暦8月4日)以後、死亡者遺品の管理を担当した経緯について
4.詰合経費について
5.斜里の気候や地理
6.報告書の提出依頼
2は、申し開き内容によっては責任問題化する可能性があった。目付の桜庭は温かい季節になってから一番最後に死亡している。墓所を築き、遺品を宿元まで届ける手はずを整えたのは、責任感と全くの善意からであったが、3では意地悪い詮索を受けただろう。死亡者氏名と死亡日は、目付の桜庭が記録簿を付けて管理していた。その最後に記録簿所持者の名前を書き足し、内容を整理して松前詰合日記に転載したとも考えられる。5と6は、事情聴取というよりは、むしろ文吉からの情報提供である。
報告書の提出依頼を受けた文吉は、日記の第1稿を書き直し、業務的な内容や幕府ご公儀会所からの指示と実施訓練内容を詳しく書き加えた。文吉は賄役小頭であり、序列的に言って、藩の上層部から接触がある立場にはなかったと思われる。報告書の依頼は、上役の田中才八郎を介して文吉に伝えられたかもしれない。周囲の思惑とは関係なく、この機会を利用し、アイヌの冬村がある屈斜路湖周辺での越冬を建白することにしたと思われる。
報告書は、帰宅後2カ月ほど経過した10月末、田中才八郎を通じて担当家老・大道寺に提出された。前後して、以前勤務していた藩学校関係者との情報交換もあった。蝦夷地勤務の実情を忌憚なく話せたのはここだけだったかもしれない。恩師に挨拶し、いろいろと助言を受けたはずである。提出した報告書の内容なかんずく越冬に関する建白が受け入れられることを信じていた。しかし、後日呼び出され勇んで出勤した文吉への回答は、「松前詰合日記は、門外不出とし斎藤家で厳重に管理すべし、また、斜里での顛末をいっさい口外するべからず。」であった。
事実上のかん口令が敷かれたようで、次第にうわさ話も聞こえなくなってしまった。何事もなかったような沈黙がとても重く感ぜられた。
12月に入り、雪は膝までの高さに積もっている。昨年の今頃は、流氷に囲まれて死亡者が続出したことが思い出される。
年末、才八郎は文吉を訪ねた。
「松前殿の転封に幹部一同動揺し、弘前藩にも何らかの処置があるかも知れない、という衆論となった。多数の死者を出したことは公にせず。斜里のことは藩の公式記録(国日記)にも残さないことになった。日記の焼却処分を主張する者もあったが、斜里の事件は半ば公然の秘密であるから、その必要はない」。
昨今、港町青森の勇壮で立体的な“ねぶた”が日本各地の夏まつりで人気を博しているが、北海道斜里町では、毎夏、“ねぷた”祭りが行われている。斜里には、城下町弘前の幽玄で扁平な“ねぷた”でなければならない理由があった。合掌。
(屋敷餅 2011.5.10)
終わり
2010.11月末
後記
弘前市民図書館の資料室で、「弘前藩・国日記」の写本が閲覧できた。箱館からの第1報が届いた日(1807年5月21日)前後のページには折り目があり、少し手垢も付いているようだった。すでに多くの人々がこれを閲覧したに違いない。しかし、私を含めて、蝦夷地派兵の詳細を知らなかった人は圧倒的にもっと多いだろう。
あまり書かなかったが、アイヌの末路が参考文献(21.「千島アイヌの軌跡」ザヨンツ・マウゴジャータ、2009年、草風館 )でよく研究されている。この文献の筆者はポーランド人で、日本に数年滞在した後、現在米国で活動している。
本稿を最後まで読んでくださった方は、ひょっとすると、一貫した安藤氏贔屓を読み取ったかも知れない。それは、筆者の意底の範疇である。ところで、安藤氏はどこから現れたのか?歴史学に説得力のある説は見当たらない。筆者の想像では、安藤氏は前九年の役・後三年の役の残党と関連づけらる。すなわち、数少ない10−11世紀の考古学的痕跡(いわゆる環濠集落)は、この期間に津軽平野で戦闘があったことを物語っている。陸奥の国から残党が北へ逃れ、原住民を蹴散らしてながら定住したのであろう。しかしながら、安藤氏が勢力圏を広げる以前から、何者かが十三湖周辺で近畿・北陸地方と交易していた可能性は高い。十三湖周辺から、北日本最古と思われる仏像(銅製押出菩薩坐像・湊迎寺、五所川原市市浦)が出土している。この仏像は、腹の上に置いた太鼓をたたく”ドラミングブッタ”がモチーフになっている。全くかしこまっていないスタイルが珍しいらしい。現代人である私にとっても、とても愛着が沸くお姿をしている。この仏像は8世紀ころに奈良地方で造られたらしい(青森県史叢書・「津軽の仏像」2011年より)。誰が、誰のために運んだのだろう?