現在みんなが使う「テロ」という言葉の意味は一般市民などを政治的、社会的な主張をするために無差別に殺害するという意味合いであることが多い。
「テロ」の良くないところとして皆が口を揃えて言うのは「一般市民」が傷つくからだという。
しかし、テロを行った人間が一般市民によって間接的に傷つけられていたら、「一般市民」を絶対的な善として祭り上げることは出来ないのではないか。
「一般市民」が幸せそうに生きているだけで、テロを起こした、支持をしている人にとって見れば暴力だったかもしれないのだ。
「一般市民」は経済格差、優しさ、善意を受ける格差、恋愛格差などの上位層に生まれながらに位置し、それを甘受し、ただ幸せそうに生きていたら、下位の者から見たらおかしいと思うはずだ。
そんな、恵まれた「一般市民」が間接的に国家などの「正しい」暴力装置を動かすという卑怯なやり方で、恵まれない人々を傷つけていることもある。
恵まれた者が恵まれない者に対して普段は暴力を振るっているのに、いざやられた時は騒ぐなどとんでもない傲慢だろう。
また、一般市民ではない、兵士は死んでもいいのかという話にもなる。
キモくて、金がない兵役中、経済的徴兵をされた男が殺されても問題がなくて、容姿が良くて恋愛的にも経済的にも恵まれた妊婦が殺されたらけしからんということになるのだろうか。
実際になるだろう。
そんな普段から差別を行っている人間が被差別者に殴られて、正義を主張できるのか。
少なくとも、世間の人間は「綺麗なもの」を大事にして、「汚いもの」をボコボコにして、恵みを与えないのだから、「綺麗でない」虐げられてきた人が起こすテロを非難する権利などはないのかもしれない。