ことばの世界の外側にある世界の中心で音楽を聴いている

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最近WEB文章術の本を数冊読み、久し振りに、テキスト、というよりことばについて考えさせられました。

こういうタイプの記事はこのブログでは全然書いていませんが、本当はこういう感じの記事を書くのが一番好きです。なので、たまにはいいかなと思って書きます。

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言語化至上主義

「人間はことばによって世界を認識する」

「語彙力が高ければ高いほど思考も深まる」

「世界はことばによって分類され、意味をもたされている」

「言語化できない思考によって人は苦しめられる」

「はじめにことばありき」

大学在学中は上記で書いたような「ことば」を信仰し、ことばが一番大切なものだと考えていました。言語化することこそが正義。あらゆるものは言語化されなければ意味をなさないと考えていた時期です。

言語化できずにキレる

「キレやすい子ども」は、自分の思考が言語化できずに、頭の中が混沌としてしまってイライラするという説があります。これは大人にも当てはまります。言語化できないもどかしさは多くの人が経験しているはずです。言語を駆使して口げんかができない人はすぐに暴力を振るったりします。

自分の言語能力を知る

日本人だからってみんながみんな日本語能力が高いわけではありません。私の場合、自分で自分の日本語能力の低さを知ったのは外国へ行って英語に触れてからです。英語の学習を始めてから、自分の日本語能力の低さが痛いほどわかりました。

今でも自分の言語能力は低いと思っています。特に話すのが苦手というか、うまく言語処理できません。日常会話はできますけど、言葉足らずな印象があります。理路整然とうまく話せません。これは、もしかしたらなんらかの障害があるのかもしれないし、ただ訓練が足りないだけなのかもしれないし、もしくは、単に頭の回転が遅いだけなのかもしれません。

音楽の出現

ここから少し音楽の話になります。

音楽はずっとそれほど熱心には聞いてきませんでした。流行りの曲をそれなりに聞いているくらいでした。もともと絶対音感もリズム感もなく、おまけに音痴なのでどうせ私には音楽は理解できないだろうと思い込んでいたんです。

音楽世界への案内人

私のツレは音楽が好きで、一日中音楽を流しています。ジャズが多いのですが、ロックでもクラシックでもオペラ音楽でも民族音楽でもなんでも聴きます。「音楽」そのものをとても愛している感じです。

その様子をそばで見ていて、最初の頃は正直よくわかりませんでした。いつも家の中で流れている音楽を注意して傾聴することもなく、ただ右から左に流してほとんど聞いていませんでした。

音は音として

ですが、そうやって1年、2年、と音楽にさらされているうちに、耳が音楽に慣れたというか、音をいつのまにか捉えるようになっていきました。それまで聞き流していた音楽が身体のどこかにひっかかるのです。琴線に触れるような感覚です。しかも、それらの多くは、歌のない、歌詞のない、ことばのない楽器だけで奏でられる曲です。

そこにはことばが介在していません。でも、心が揺り動かされます。音楽の知識がある人は、ここの音は「ソラシドララ」だなとか和音だなとか自然に思いながら聴いていたりするのでしょうけど、そんな知識のない私の頭には何も浮かんできません。聞こえてくる音をその音のままで捉えています。

今までにない感覚

そんな音の存在が自分の中でどんどん大きくなっていきました。

ことばのない音の世界に心が占領されていくのは、それまでに感じたことのない不思議な感覚でした。

この、よくわからない感覚はなんだろう、と、しばらくの間、胸に疑問を抱き続けていました。

そして、ある日ふと気がつきました。

もしかしたら自分は大きな勘違いをしていたのではないかと。

ことばのない世界

大きな勘違い。

それは、ことばにこだわりすぎて、自分の知覚世界を狭めていたのではないかと。

世界は広い

ことばは大事。言語能力は高いに越したことはない。

でも、ことばがない世界に目を向けてみると、その豊饒さ、深遠さに愕然とします。

ことばの世界こそ豊かで深く広い世界だと思っていたのに、その広大な世界をすっぽり覆ってしまうように、ことばのない世界が広がっていました。

そんな当たり前のことに、なぜ、今まで気がつかなかったのだろうかと思いました。

これもたぶん思い込みです。

思い込みは厄介です。

思い込むな

よく考えてみると、絵や写真やデザインなども言語を介さなくても時に饒舌に雄弁に語りかけてきます。

コミュニケーションでも、顔の表情や声の質などといったノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)のほうがバーバルコミュニケーション(言語的コミュニケーション)より多くの情報を伝達すると言われています。

「おはようございます。今日はいい天気ですね」

と、相手の目をしっかり見ながらハキハキと大きな高い声で笑顔で言うのと、伏し目がちにボソボソと小さい低い声で不機嫌そうな表情で言うのとは、相手に伝わっているものが全然違います。

文章を書く訓練の中に、「目にしたものを全て言語化してみる」というものがあります。目の前に花があるとして、その花のなまえや色、形状、どのように咲いているのかなどを細かく言語化していきます。

この行為は正義だと、長い間思っていました。

音楽の世界

うっとりする

チャイコフスキー大好き♡なんて言ったら少女趣味もいいとこなんて思われそうですけど、でも、「花のワルツ」とか本当に大好きで、聴くだけで心が軽やかになる、ウキウキしちゃう甘い綿菓子みたいな音楽で、そういうの聴くと、ことばって本当に世界を限定しちゃってるなぁって感じてしまうんです。

Miles Davisの「Blue in Green」も大好きなんですけど、夜、暗がりの部屋でお酒飲みながら聴いたりすると、音の奏でる情景がぼんやりと浮かんできて、そういった心の動きが、情緒を豊かにするというか、心を元気にしてくれます。

疲れる

最近、よくことばに縛られすぎている気がしてすごく疲れちゃうんですね。そういうときに、歌詞のない音楽、インストゥルメンタルとか、トルコ語やヒンドゥー語やブルガリア語だとかいった全く意味がわからないことばの歌を聴いてると落ち着いていきます。

日本語や英語の歌声もあえて音だけで聴くことがあります。歌詞をぼやけさして声にフォーカスして聴く。

信仰心が芽生える

もちろん歌詞のある歌もよく聴きますし、好きです。心を揺り動かされる歌、歌詞もたくさんあります。DREAMS COME TRUEの「何度でも」なんて何回聴いてもブワーッと涙が溢れてきます。この歌は本当にすごいと思います。いい意味で宗教歌のようです。小学生が聴いてもおばあちゃんが聴いても伝わる。わかりやすくて深い。どうしようもない思いについての答えをひとつ、差し出してくれる。

こういう歌を聴くと、ことばを信仰したくなってしまうんですけどね。

あえて言語化しない

ことばにならない世界を言語化せずに自分が自分の中でどう受け止めるのか、そこからなにか答えが導き出されるのか、というようなことに今は興味があります。

世界を分類し、理解するためには、言語化することは必要不可欠。

世界を切り取ることば。

だから

どこまでも広がっていく世界の深淵を見てみたい。

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