権力側からしたらテロは悪だし、屈してはいけないものなのだ。結果としてテロリストの要求を部分的に取り入れたとしても、テロに屈したというポーズは少しも見せてはならない。これは駆け引きであり、戦いでもあるからだ。権力側の人はテロを必ず否定するだろう。
しかし、権力側にいない人にとってテロは実は否定も肯定もしないものなのかもしれない。無差別殺人テロによって親類や友人が殺されたらたまったものではないが、そうでなければ、そのテロがどの程度効果的であるか、が気になるところなのではないか。
テロはコミュニケーション不和から生じる暴力のようなもので、ある程度の目的があってなされるものである。その目的や目的への合理性がテロを評価する基準であり、テロには屈してはいけないなどと本気で考えてる市民はあまりいないのではないだろうか。
テロのニュースを見たとき、自分がすこし興奮していたことに気づいた。それは、この世の中に対して漠然といだいてる不満を爆発させてくれるような興奮だ。この世界を一発殴ってくれたのか、という喜びでもある。しかし、たとえばisなんかも一つの小さな国を作って理不尽なことをしているのを知ったらそれも誰かに殴って欲しくなる。それも、アメリカやフランスにではなく、isに不満を持ってるisのなかの人に殴ってもらいたくなる。
この世界は平等ではなく、強いのは金と権力を持ってる奴である。そいつらを一発なぐるテロに隠れて拍手している俺はテロリスト予備軍なのだろうか。それは違う。なぜなら、テロリストになるのは割に合わないからだ。変な理念を植えつけられるような洗脳をされない限りやろうとは思わないだろう。だからこそ、僕は表ではテロは怖いとか言いながら、今日も密かにテロに期待する。
テロにというか武力行使にって構造だね。 理不尽をより強力な理不尽で打つことへの快感、エンタメでもよくある定番にも重なる。