ミュージック・ポートレイト・選「桂文枝×千原ジュニア 第2夜」 2016.01.01


生死の境をさまよったジュニア。
一体どうなる?過酷な笑いの世界で2人はどう生きたのか。
更なる波乱が続きます。
質問。
それぞれの時代で新しい笑いを作り出した2人。
なぜ2人は笑いの革命を起こせたのか。
その鍵を解く人生の10曲を選んでもらいました。
ようこそいらっしゃいました。
桂三枝でございます。
従来の落語家の枠を飛び出した軽妙な語り口で大成功。
テレビの第一線で活躍を続けています。
ひと目会ったその日から…。
サインを。
しない!恋の花咲くこともある。
見知らぬあなたと。
見知らぬあなたに。
デートを取り持つ…。
(2人)「パンチDEデート」!それではまいりましょう。
「新婚さんいらっしゃい!」。
更に落語家としては250を超える新作落語を自ら書き下ろしその高い評価から数多くの賞を受賞しています。
「あとはあんたコンビニで買うたらええ。
お握りとかおかずがいっぱいあるやん。
お金置いとくから。
コンビニとかいっぱい売ってるやん。
このごろ安いがな。
100円であんねやから。
せやけど言うとくで。
近くのコンビニ行かんといてや。
近所の人に知れたらかっこ悪いねんから。
あそこの奥さん何にもしてへんねんわ思われんねんから。
半径5キロの外で行ってや」。
しかしその輝かしい経歴の裏にはいくつもの苦悩がありました。
そんな桂文枝が第1夜で選んだ5曲がこちら。
幼くして亡くした父を思う切ない歌。
目標が見えない苦悩の中で聴いた悲しいメロディー。
つらい下積み時代に心に響いた一曲。
人気者の孤独に寄り添ってくれた歌。
新婚時代を思い出す甘いラブソング。
15歳で兄のせいじと千原兄弟を結成。
独創的なコントで一躍人気芸人に。
「トレーナー」。
あ…「トレーナー」と。
「ブラジャー」。
「ブラジャー」。
(笑い声)2011年人気急上昇タレントランキング!現在は本業のお笑いに加え数多く番組の司会をこなし小説やコラムなどの執筆活動更には俳優業など多岐にわたって活躍しています。
私は今原田と出会いいいチームにも恵まれあのころ見失うた夢をもう一度追いかけております。
順風満帆に見えるこれまでの歩み。
しかしその陰には2度も生死の境をさまよう壮絶な人生があったのです。
そんな千原ジュニアが選んだ第1夜の5曲。
小学生大好きな父との思い出がよみがえる曲。
あまのじゃくな少年時代強い男に憧れた時に聴いていた歌。
14歳外の世界へ一歩踏み出す勇気をくれた曲。
17歳舞台に上がる前自分を鼓舞してくれた音楽。
21歳大阪でブレーク。
はじける気持ちを託した曲。
今日は第2夜。
40代まで独身を貫いてきたジュニアが結婚に踏み切った訳を語ります。
常に芸能界をリードしてきた桂文枝が語る芸人の生き方とは。
人気芸人2人がここだけで見せた知られざる素顔。
心に残る音楽を通して2人の人生を見つめていきます。
1980年代に入り時代は空前の漫才ブーム。
バラエティー番組も大盛況。
桂三枝は週に14本ものレギュラーを抱え時の人となっていました。
(拍手)お元気ですか?「国盗りゲーム」の時間がやってまいりました。
見知らぬあなたと。
見知らぬあなたに。
デートを取り持つ…。
(2人)「パンチDEデート」!しかし笑顔の陰には深い悩みを抱えていました。
本業の落語から遠ざかっていたのです。
テレビの仕事でこう忙しくなって落語もちろんやってたんですけどもどうもやっぱりねこう古典落語が合わなくなっていく訳ですよこういう口調やから。
はい。
で無理してその…古典落語の口調になっても枕ではねわっと笑い取っても落語入ったらもうシュンとなるっていうか自分でも何か自分がしゃべってるような気せえへんし。
ある人からはね「もうそんなん落語やめてタレントになったらどうや」という話もあったんですよ。
周りから聞こえてくる心ない陰口。
そんな時師匠である後の先代桂文枝の言葉に救われます。
落語の総会で「このごろテレビばっかりやって落語やってないのもおるけど」みたいな事を誰かが言うた時に師匠がね「いや枝葉を伸ばしていくのはええんちゃうか」と。
「幹さえしっかりやっとったら」って言われたんを聞いてやっぱり自分の…何て言うのかな?ふるさと原点いうのはやっぱり落語しかないと。
こういう曲聴いてそれは思ってましたね。
独特なさだまさしの語り口。
桂三枝は気付きます。
「自分流でいいんだ」。
それならと新しい落語を作る事にしました。
落語家としてやっぱりこう…まあ個性的な芸人じゃなかったんで舞台では何やかんやこう漫談みたいな事でやってましたけど。
お茶濁して。
落語でなかなか受けへんしそれでそれじゃあ新しい落語作ろうという事で創作落語の会を始めるんです。
はい。
創作落語は今の言葉で今の時代を映した新しい物語。
古い話をする呪縛から解放され三枝は生き生きと語り始めます。
現代のお話を着物を着てしゃべらせて頂きますが…。
「親方が元大関富士光」。
「そうですそうです」。
「どうです?富士光の弟子で米屋の息子やからコシヒカリというのは」。
(笑い声)「あの〜ほんまに真剣に考えてくれはったん?」。
「ええ。
三日三晩寝んと考えましたで。
コシヒカリええ名前やと思うけどな。
パッとねこう後光のさすような名前ですがな。
『曙対コシヒカリ。
炊き出してコシヒカリの勝ち!』いうてね」。
自分のしゃべり方で自由に最後までこのしゃべり方で落語しゃべれるし。
何か自分に合った落語を落語家としてやっぱりこう個性的になれたらっていうかね。
今の言葉で語る分かりやすい落語は次々と新しい落語ファンを増やしていきます。
こうなると最初は眉をひそめた通たちも認めざるをえません。
そして3年後三枝の創作落語「ゴルフ夜明け前」が文化庁芸術祭大賞を受賞。
古典が珍重される落語の世界で新しい笑いを作った功績が認められたのです。
「でやっ!たあっ!ううっ!どりゃ〜!」。
「すごいなぁ。
中岡君見たか?あの球の勢い。
ピュ〜ッ!すごい球の勢い飛んだ。
…がOBです」。
「何?おーびー?そうか。
力を入れたから緩んだのであろう」。
「いやその帯じゃないんです」。
(笑い声)一方大阪で活躍していた千原ジュニア。
急に人気が出たやさき急性肝炎で倒れます。
初めて僕が司会で始まった番組が3月に1発目の収録があって「さよなら〜」って言ってそのまま俺倒れたんですよ。
それで一応病院行ったら急性肝炎やと。
そこでうちの親と会社が呼ばれて「五分五分です」と。
一時は危なかったジュニア。
一命を取り留め復帰したあとは関西の若手でトップに。
この時まだ21歳でした。
うお〜!アリーナ乗ってるか!?
(観客)イエ〜イ!2階席声が聞こえてるか!?
(観客)イエ〜イ!盛り上がる大阪城ホール。
千原兄弟がメインMCを務めるイベントはお笑い界で異例の1万人を動員しました。
そして22歳ついに東京に進出。
大阪での勢いですぐに売れると意気込んだものの現実はそう簡単にはいきませんでした。
もう大阪の仕事を辞めて東京に移住するんですけど大阪ではまあ何かこう顔も名前も知ってもらってるというテレビの出方と全く知らない初めましてっていう状況なのにもかかわらず大阪とおんなじテレビの出方しか僕ら分からないんでその出方すると「何だこいつら?誰なんだお前ら?」みたいな事からほとんど仕事もなくなって。
あそう。
はい。
すっかり自暴自棄になってしまったジュニア。
悔しさとやるせなさに打ちひしがれていた時上京した若者の心象を歌ったこの曲に自らを重ね合わせました。
まさにその〜東京に出てきて2〜3年ほとんど仕事が…。
そんなになかったん?はい。
なくなって…。
いわゆる「ああ東京進出失敗しよったな」っていう。
「これどうしょうかな」みたいな感じでしたね。
仕事もなく部屋に籠もりがちになるジュニア。
いつも考えていたのはネタの事ばかりでした。
家でずっとバラエティー番組見ながら。
研究して。
「俺やったらこここうするな」とか「この番組もし呼ばれたらこういうふうに立ち回るな」とか。
そんな事ばっかり言いながら。
自分らでそれこそネタ作って単独ライブみたいなのを力を入れてやって。
細々と…。
それは今までのネタとはちょっと違うネタの感じになってたん?いやえ〜っともっとこうより…より先細ってる感じやったかも分かんないですね。
もっとこう新しいもんもっと新しいもんっていう。
大阪での全てをなげうって出てきたはずなのに結果が出せない。
むなしさは募る一方でした。
見知らぬ街東京いうのはどうやったん?最初やっぱり全然合わなかったですね。
でもう普通に肌も荒れるし。
(笑い声)2000年ミレニアムに世界中が沸いていた頃。
(一同)321!
(歓声)57歳になった桂三枝はこの年に大きな挑戦をする事を決意します。
今まで落語をずっとやってきたけどレコードで残すとかCDに残すっていう事はしなかったんですね。
そやけどやっぱり残しとかないと自分の作品を。
でどうせやるならちょっと大きく出ましょうという事で。
「自分の作った落語を後世に残したい」。
その思いは強く月に3本のハイペースで落語を観客の前で公開録音。
それを3年半続けて一つの作品を作り上げるという挑戦を始めます。
題して「桂三枝の創作落語125撰」。
それは想像を絶する努力を要するものでした。
毎月3本作るってほんまどえらい事ですよね。
どえらい事ですね。
これ一般の人はあんまりちょっとねピンと来はらへんと思いますけど。
それがまた形に残るから下手でけへんから稽古せなあかんという事をね。
それもありますね。
その「125撰」の時は人生の中で一番稽古しましたね。
そんな時思わぬオファーがありました。
「上方落語協会の会長になってくれ」というのです。
引き受けたいが新作作りも忙しい。
心はこの歌「胸の振子」のように揺れたといいます。
「胸の振子」ってこう胸の中でこうあっちこっちこう傾いていくってね。
揺れ動くっていう気持ちを表してるっていうか。
ほんとに寝るまでまあネタ繰ってましたけど。
寝てる間以外はまあほんとにオーバーな話その事ばっかり考えてたいう感じですね。
でそれをやりながらも「会長になってくれへんか?」って言われていや「125撰」やってるしそんなん会長引き受けて自分より先輩もいっぱいおるのにね。
もちろんネタも考えなあかん作らないかんいうのでね。
まあそういう時の何かこう心のね揺れ動くいうか「どうしたらええのやろう?」思いながら。
まあ誰にもあんまり相談でけへんし。
これはねすごい厳しかったです。
へえ〜。
結局2003年7月上方落語協会会長に就任。
その3か月後には大作「創作落語125撰」を完成させます。
桂三枝60歳。
落語界を名実ともに担う存在になりました。
一方東京に拠点を移すもテレビの仕事がない日々を過ごしていたジュニア。
なんとか突破口を見いだすためライブやネタ作りを地道に続けていました。
こんな顔の子がええなとかこんなスタイルの女の子がええなとかいろいろあるがな。
まあ強いて言うならかわいい人が好きですけど。
ピヨッピヨッピヨッ。
努力のかいあって東京での地位を確立し始めテレビのオファーも少しずつ増えていきます。
更に俳優として映画やドラマにも出演するなど新たな才能を開花させ一歩ずつ前に進み始めたやさき…。
不運は突然やって来ました。
バイク事故で重傷。
再び生死の境をさまようジュニア。
もう顔面から突っ込んだんで顔面グチャグチャになって。
目の位置がもうこんなんでとか。
それでまあ会社の人間とかも来てもうグッチャグチャなんで表に立つのはもう無理やと。
であの…放送作家に作家になりましょうと。
はあ〜。
その時の気持ちはもう本当に絶望いうか…。
絶望ですね。
「もう終わったな」っていうのと何かいろんな人のネタがこう頭に出てきてで「あそここう変えてこうした方が受けるな」とか。
何かそんな事をこうやってるんですよ。
自分のネタじゃないんですよ。
人のネタをやってるんですよね。
ほんまにこうもう表に立つのは無理なんやなって自分で思うてたからやと思うんですけど。
「もう芸人には戻れない」。
絶望のふちに立たされた時ジュニアを奮い立たせたのは逆境に立ち向かう心意気を歌った疾風怒濤のロックンロール!ほんで入院してるとそこにお見舞いにいろいろ来てくれはって。
「ああこんなに愛情を受ける事はなかなか感じられへんな」という。
そんな中で誰が置いていったのかこのCDがあって。
ほんでその入院してる時に聴いてたらもうまさにこの歌詞がぴったりやという事で誰かが持ってきてくれたと思うんですけど。
「俺はまだ死んでないぜ俺はまだ輝いてるぜ」みたいな。
「芸人千原ジュニアはまだ死んでないぜ」。
この歌に背中を押され芸人としての再起を誓ったジュニア。
実はその陰には仲間の存在がありました。
いろんな人がいろんな手法でお見舞いに来てくれて。
バイクで事故った僕に今田さんなんかはバイク雑誌持ってきたりとか。
飯食われへんっていう僕に「美味しんぼ」って食の漫画全巻東野さんが持ってきてくれたりとかみたいな事こうしながら。
何を声かける訳でもなくそこで芸人同士がバカ話して帰っていくみたいなのを見ながら「うわ〜やっぱりこっち戻りたいな」みたいな。
早く…一刻も一日一時間でも早く人前に立ちたいってやっぱりなるんですよ。
ほう。
兄ちゃんはどうやったんですか?せいじは一回も来ませんでしたね。
後で聞いたらその来てくれてはる先輩とか後輩に「ありがとうございます」とか「ありがとうな」みたいな事を裏で言うてたみたいな。
なるほど。
僕も実際せいじに来られても「迷惑かけてごめんな」しかないし。
でも何本かあったレギュラー番組が俺が復帰するまでに終わるという事だけはないようにみたいな事で頑張ってくれてたらしいんですけど。
仲間や家族に支えられ事故からおよそ5か月。
表舞台に復帰します。
(拍手)あんたもすてきやん。
ありがとうございます。
ほんまに三途の川じゃないけど全面お花畑やねん。
なあ。
そこにポ〜ンっと俺立ってんねんお花畑に。
ほんまやで。
ほんでなきれいなお花畑の向こうにリットン調査団が…。
(笑い声)絶対うそや!ほんまやねん!…がゆっくり走ってんねん。
ほんまやねん!うそや!ほんで水野さんが「来い!来い!」って言うねん。
やけに俺を呼ぶねん。
おかしい!ほんで何か分からん何か分からんけど行ったらあかん行ったらあかんって思てんねん俺。
上方落語協会の会長に就任した桂三枝は更なる挑戦を始めます。
「落語がいつも見られる場所を作りたい」。
まあ協会の会員の中からね「『いつも大阪へ行ったら落語を見よう思うのやけどどこへ行ったらやってるんですか』って聞かれる」と。
落語やってるとこがないしっていうのを聞いてほな作らないかんな。
かつて大阪には数多くの寄席がありました。
そんな寄席も一つ二つと無くなり昭和20年代以降落語専門の寄席は一つもありませんでした。
「落語をいつでも好きな時に楽しんでもらいたい」。
寄席を作る事はまさに上方落語界長年の悲願だったのです。
協会には一銭もお金ないしいう事で寄付してもらおうとまあ集めるんですけどもなかなかこれがね建ちまへんねん。
行ってみて隙間から見たらねまだ何か基礎工事やっとるし基礎工事掘ってる途中で下で何か出てきたからこれ捨てるのに金が要るとか言うからまた集めなあかん。
全然…。
ところが施工者の所にね僕の名前書いてあるんですよ。
これ建てへんかったらどないなんのやろ思うた。
怖いですね。
怖かったですよあの時はね。
もう時間があるとそこへ行って隙間から見てましたね。
待てば待つほどに工事が進まない。
もう少しで完成という時に悲しい出来事が起こります。
それはいつも温かく三枝を見守り寄席の建設を心から応援してくれていた三枝の師匠五代目桂文枝の死でした。
翌年の2006年。
ついに落語専門の寄席繁昌亭が完成します。
やっぱりいろんな事あってね師匠が亡くなって…。
「お前大丈夫か」みたいな感じでね師匠が心配してたんですけども。
やっと建って。
オープンした時はもう…しゃべれなかったですね泣いて。
へえ〜。
本当に…。
(拍手)今日家出る時に大正10年生まれの母が「泣いたらあかんで。
もうお前も大きいねんから」。
(笑い声)ちょっと失礼しまして…。
こんな事もあろうかと。
(拍手と笑い声)師匠と迎えるはずだった記念すべき日。
三枝はこれまでの道のりを加山雄三の歌に重ねていました。
「随分遠くまで旅を続けてきたな」。
芸能の世界いうのはまあ旅してるみたいなもんでね。
旅人みたいなもんやなあと。
オープニングいうのんで天神橋6丁目からず〜っと長い商店街を春團治師匠を人力車に乗せて僕が引いてねずっと歩くとわ〜っとやってる時にまんじゅう屋さんがね「おおきに」いうてこう出してくれるんですよプラカードみたいな。
あれうれしかったですね。
それでそこへ師匠の写真が貼ってまんねん。
もうあれはもう泣けて泣けてね。
まあうれしさと悲しさとほんまにいっぱいでしたですね。
一方バイク事故から復帰したジュニア。
これまで失っていた笑いを取り戻すように次々と仕事を再開していきます。
そんなジュニアには事故以降ある心境の変化が起きていました。
昔とやっぱりちょっと違うふうな雰囲気の笑いになったいうのはありますか?ちょっとあると思いますね。
ボケれる幸せというか笑かせれる幸せというか。
「分かる人だけ分かったら」みたいなんはもう一切なくなりましたね。
できるだけたくさんの人に分かるようにという。
「この言葉よりこっちの言葉の方がより届くな」とか。
事故でつらい時仲間の笑いがあったから乗り越えられたように自分の笑いで誰かに力を与えられたら。
鋭さやスピード感に深みや味わいが加わったジュニア。
はい。
川端君のお母さんの事をアホと言ってすいませんでした。
はい。
えっとそれは川端君のお母さんがお弁当箱にお箸を入れて箸箱にごはんとおかずを入れていたからです。
芸人として新たなスタートが切れたジュニア。
「今度こそチャンスを逃したくない」。
そんな熱い思いを斉藤和義のこの歌はいつも思い出させてくれます。
シンガーソングライター斉藤和義はこの「歌うたいのバラッド」で歌手として生きていく自信を得たといいます。
お酒飲んでる時にたまたまその時に斉藤和義さんもいてはってしゃべってたら斉藤和義さんは「僕はこれ売れるかどうか分からへんけどこの曲が書けるという事はまだまだこの世界でやっていけると思った」っていうのがこの「歌うたいのバラッド」やったらしくて僕はそれとスケールは全然違いますけど30歳ぐらいの時にあの…「すべらない話」っていう番組が始まったんですよ。
「すべらない話」がジュニアにとって大きな転機になりました。
あれサイコロ振ってしゃべるんですけどたまたま何かこうサイコロが3回連続で「千原」っていうのが出たんですよ。
その時に「うちの残念な兄が」ってせいじの話をやった。
2回目ももう一回せいじの話。
3回目来たからせいじの話みたいな事をやった時が何かこうきっかけ…。
何となくゲートが開いた瞬間なんかなみたいな思いがあって。
ジュニアは芸人としての確固たる地位を手に入れたのです。

(笑い声)2012年それまで親しまれた桂三枝に別れを告げ大名跡桂文枝を襲名。
その後も常に落語の新しい可能性を追求し続けています。
「分かった分かった分かった。
早く寝ないんなら…。
アイテテテテ」。
デビューから50年。
今なお芸能の頂点で活躍し続ける桂文枝の今を表す一曲は…。
何か人気いうのはね人の気持ちやし寄せては返すように波のようにねいつかはこう引いていくから人気のある時にねいかに頑張れるか。
せやから絶対に頂点を極めたら落ちていくのはもう間違いない訳やから。
そういう人生いうのは芸もそやけどいつかは芸人いうのはみんな芸を持ったままあの世へ逝ってしまいますのでね。
そういう中でこう一生懸命回ってるのかなと思って今まで来たんですけども。
41歳を迎え人生の半分以上を笑いと共に過ごしてきた千原ジュニア。
2014年には両国国技館で単独ライブを開催。
8,000人を動員しました。
常に新しい事に挑み続けるジュニア。
恩を返しに来たのね?
(ニワトリの鳴き声)そうなのね?
(ニワトリの鳴き声)違うの?
(ニワトリの鳴き声)だからどっちなのよ!大体ねそもそもあんたに恩なんか返してもらってないわよ。
(ニワトリの鳴き声)え?何?土俵?土俵が何?土俵…。
あっ!土俵に入ってしまった!1,400年の伝統を破ってしまった!
(柝の音)
(拍手と笑い声)そして2015年9月に結婚。
すべらない家庭を築く事を誓いました。
新たなステップを踏んだジュニアの今を表す一曲は「スマイル」。
「スマイル」っていう曲なんですけど「いつでも笑顔でいようね。
笑っててね」っていう歌なんですけど一応…したてなので結婚。
そういう事も一応あれなのかなと思うんですけどこの結婚はほんとに文枝師匠の言葉にだいぶ背中を押されたところがあるんですよ。
そうですか。
はい。
一度お話しさせてもらった時に「何で結婚しないんだ」と。
「多分そのままいっても普通にごはんはまあ芸人として食べてはいけるんだろうけれどもそのままでいいのか?そこにいて」と。
「もっとこう芸人として一個ステージ上がるために結婚っていうのを選ぶという手もあるんじゃないか」というような事をおっしゃってそんなふうに僕は一切今まで考えた事なかったので「なるほどな」と思って。
「今まで見えなかった視界が開かれる部分がすごいあんねやろな」という…。
ほんで「よし行ってまえ」みたいなのがねあったんですよ。
いやそうなんですよ。
結婚いうのは「よし行ってまえ」なんですよ。
結婚して全てうまい事いくかどうかも分からへんしうまい事いってない事があかんのんじゃなくってそれがまた一つの試練として芸人として大きくさしてるかも分かりませんですね。
最後に2人に聞きました。
人生の最期に聴きたい曲は何ですか?まあ最期に聴くいうたら…。
最期になったらこんな曲聴いてる場合やないと思うけども。
まあね。
現代版「ロミオとジュリット」みたいな感じなんですね。
すごいそれが当時かっこよくていつかはこういうみんなを感動させるものを作りたいなと思ってきたんですけども。
「125撰」が終わった訳でしょう?そっからもまだ今月に1本と頼まれてとかでだから月2本ぐらい作ってはるんでしょう?まあ1本か2本かは作ってますね。
考えてる時が意外と楽しい。
苦しいけど楽しいし。
僕はもうほんとにこう落語に恋してね落語を愛してずっとこう…途中寄り道はしましたけどもよかったなと思うんで最期この曲聴きながら落語に恋してよかったな思いながら聴くんじゃないかなと思って。
最期に聴く曲ってね師匠おっしゃったように最期に曲なんか聴いてられへんでいう話なんですけど何か出せ言われたら何かこんな事かなと。
こんな事かなというのもあれですけど…。
あんな事こんな事を思い出しながら…。
思い出して。
何かちっちゃい時からこの歌も好きなんですよ。
最後が「もうすぐ僕らは1年生」というまた一個ステージ上がるという。
なるほどね。
僕らから見てると非常に順風満帆に来たようやけどいろんな事があったんですね。
まあはい。
そうですね。
交通事故や東京へ来て仕事がなかったり。
それこそあんな事こんな事があって。
そうなんですよはい。
人生を彩った音楽は記憶を鮮やかに呼び覚まします。
人生の大切な10曲あなたはどんな音楽を選びますか?
(オープニングテーマ)2016/01/01(金) 15:44〜16:30
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト・選「桂文枝×千原ジュニア 第2夜」[字]

桂文枝と千原ジュニアの10曲。笑いの革命を起してきた二人が人生を語る。/ジュニアの結婚のきっかけは、桂文枝の一言だった!?/桂文枝、長年の悲願達成に涙。

詳細情報
番組内容
「あなたが人生で出会った『大切な歌』を10曲選んでください」この問いに、あなたは何を選びますか?この番組では二人の表現者が自分の人生の『大切な歌』を持ちより、対談。それぞれの人生を「音楽」を切り口につづっていきます。今回は、桂文枝と千原ジュニア。/ジュニアがチャンスをつかんだ時、バイク事故で重傷を負った時を思い起こす一曲とは/桂文枝が人生の岐路に立った時、悲願の目標を達成した時に聴いていた音楽とは
出演者
【出演】桂文枝,千原ジュニア,【語り】ヒロ寺平

ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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