先人たちの底力 知恵泉新春SP 私はこれで出世しました▽戦国の城 成功の極意 2016.01.01


歴史酒場知恵泉。
今宵は新春スペシャルとして元日から営業しています!今宵のテーマは今空前のブームを巻き起こしている戦国の城。
なぜ私たちは城にひかれるのか。
それは荘厳な天守堅固な石垣といった機能美だけではありません。
そこには城を築いた武将たちの人生を乗り切る知恵が秘められているからなのです。
例えば熊本城。
「行ってよかった城ランキング」で3年連続ナンバーワンを誇ります。
ここだけでしか見られない独創的な形の石垣に贅を尽くし美を極めた絢爛豪華な本丸御殿。
この名城をつくったのは戦国大名加藤清正。
そこには失敗したら命も失うというプレッシャー克服の極意がありました。
続いて登場するのはひこにゃんでおなじみ彦根城。
京都を訪れた外国人も足を運ぶという世界的な人気の名城です。
見どころは戦国時代からそのまま残る国宝天守。
しかし実はこの城超スピード工事でつくられていました。
上司からの無理難題に挑んだ僅か15歳の当主の…そして今話題天空の城竹田城。
山頂に築かれた城が雲海に包まれる幻想的な風景で近年一躍人気に。
そこには戦国最大のスター織田信長の新技術開発のすごワザがあった!今宵は見るだけでは分からない名城に隠された数々の物語を発掘。
城づくりで見事出世した武将にあやかる新春開運スペシャルです。
いや何度見てもいい門松だなこれ。
こんだけ奮発したんだから今年はお客さん来てくれるといいな。
あれ?誰か来た。
あら!春香クリスティーンさん。
どうもあけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。
すてき!ありがとうございます。
ほんとに華やか。
まさかこんな所でお会いするとは。
どうもどうも。
そんな着飾ってうちの店来てくれるなんてもう感激だな。
あいやそういうわけじゃなくて今日はお正月ですから初詣に行ってまいりましてちょうどだいぶ歩き疲れたんでそろそろ帰ろうかなと。
いやいや歩き疲れたんならちょっと一杯やってきましょうよ。
正月でしょ?お客さんいるんですすてきな。
縁起のいいお客さん。
縁起のいいお客さんって何ですか。
入って下さいよ。
ぜひぜひ。
もう分かりましたよ。
あっどうも。
あけましておめでとうございます。
吉野と申します。
吉野さん。
この方ねあの世界一の東京スカイツリーのデザインを手がけた設計士さんなんですよ。
それは縁起がいいですね。
めでたいでしょ?めでたいですねお正月から。
今回戦国の城を読み解くのは東京スカイツリーをつくったこの人。
東京タワーの4分の1の敷地に2倍の高さのツリーを建てる困難な計画。
それを大胆なデザインで克服した建築界の注目株です。
そんな吉野さんが建築の道を志したきっかけは19歳の時に見た映画…スクリーンに広がるSFの世界。
吉野さんはこのような空間も実際につくりたいと考えました。
大学院を卒業後大手設計会社に入った吉野さんは40歳の時東京・お台場の人気スポット日本科学未来館の設計を手がけます。
フロアを円形のスロープでつなぐという未来感あふれるアイデアで館内を設計。
業界の度肝を抜き国内外の建築賞を受賞しました。
近年では渋谷再開発のシンボル渋谷ヒカリエも吉野さんの作品です。
特徴的なでこぼこの外観は若者の街・渋谷の多面的な要素を縦に表現したものだとか。
独自の発想で日本の都市を元気にしてきた吉野さん。
名城に秘められた知恵をどう読み解くのか?おお〜!すごいですよね。
もう有名どころばかりじゃないですか。
ヒカリエ私実はヘリコプターで上空から見た事があるんですけどすごく目立ちますよ上空からも。
でこぼこした感というのが不思議な感じしますよね。
いろんな商業が入ってたり劇場が入ってたりオフィスが入ってたりして。
その間にロビーをとってるんですけどそこがでこぼこしててそこでいろんな人が交流してほしいですね。
オフィスの人と劇場に来た人が一緒にロビーでくつろいでもらったり。
それが渋谷らしいかなと。
何といってもこれ。
今日用意しましたけれども東京スカイツリーですよ。
形も美しい。
夜ライトアップされるとまたすてきなんですよね。
丸い展望台があるので皆さん丸いタワーだと思ってる方も多いと思うんですけども足元は三角形なんですよ。
それが急に形を変えるとそこに構造の負担がかかるんで三角から少しずつお握り形になって325mで丸に変わってあとは全部円すい形なんですね。
そんな事ができるんですね。
大変だったですね。
構造的には全部の部材が違う角度でぶつかってきますので柱と梁が。
かなりご苦労もされたんでしょうね。
今夜はそのお城について見ていくんですけれどもテーマがこちらなんです。
当時お城をつくるというのはほんとに大きなプロジェクトだったんですね。
多くの武将がほんとに力をかけて城を完成させて人生を飛躍させていった。
その知恵を味わっていきます。
まず最初に味わって頂くのがこちらでございます。
メインが来た。
ありがとうございます。
お待たせしました。
いや〜おなかすいてたんですよ。
でしょ?じゃん!えっ?ちょっと!メインじゃないんですか今日の。
メインですよメイン。
メインのお城です。
これね熊本城なんですよ。
こちらですね。
熊本城。
熊本市にあります。
人気の理由はさまざまあるんですが一番の特徴は城の周りに張り巡らされた石垣です。
非常に堅い守り。
この石垣によって…このお城をつくったのは誰かといいますとこの人です。
こちら。
実はつくる時にはある大人物からほんとに大きなプレッシャーをかけられていたんですね。
まずその城をつくる経緯から見ていこうと思います。
家は鍛冶職人。
2歳の時に父を亡くし不遇の少年時代を過ごしますが12歳の時あるチャンスがやって来ます。
母方の親戚に信長のもとで出世を果たした秀吉がおり清正を家臣として取り立てたのです。
清正は秀吉の恩に報いるべく賤ヶ岳の戦いで七本槍に数えられるなど武功を重ねました。
次第に秀吉から目をかけられるようになっていきます。
そんな清正26歳の時。
秀吉から信じられないような出世話が舞い込みます。
なんと清正をいきなり九州肥後国19万石の領主に任命するというのです。
異例とも言える大抜擢ですがそこには難題が待ち構えていました。
当時の肥後国は大紛争地帯。
しかも南には豊臣と争い続けてきた戦国最強の島津軍団が控えています。
前任者の佐々成政は統治に失敗。
更迭の憂き目に遭っていました。
清正を派遣するにあたり秀吉が送った書状には…。
「失敗すればお前もこうなる」。
清正にとってこの抜擢は…熊本に入った清正にあてがわれたのは石垣も堀も十分ではない旧式の城でした。
攻められればひとたまりもありません。
とにかく強い城をつくらなければ明日はない。
こうして清正は大きなプレッシャーを抱えながら新しい城づくりに取りかかるのです。
ほ〜。
26歳にしてすごいなって思うと同時にいきなり…嫌ですね。
嫌ですよねあのプレッシャー。
あのプレッシャー正直耐えられないと思うんですけど。
どうです?吉野さん。
いや〜ちょっと怖いですよね。
自分の生命をかけて仕事しなきゃいけないって事ですもんね。
また秀吉の書き方も嫌らしいですよね。
何であんな書き方するんですか。
「あいつ切腹したよ」みたいなね。
ひどいですよね。
今日詳しい方にお話を聞きたいなと思って既にあちらにいらっしゃってます。
ええっ!?はじめまして。
三浦先生は城研究の第一人者でいらっしゃるんですよ。
どうぞこちらへお越し下さい。
よろしくお願いいたします。
一人さみしくお正月から。
やっとお仲間に加えて頂けそうで。
引っ越しいたします。
一緒にお話ししましょう。
当時の九州ってそんな厳しい状況だったんですか?だから家臣たちはたまたまその大名に従っただけですからそこを支配しろというのは猛獣の中へ行ってなだめるようなものですね。
勝手に自分の仲間を引き連れてというわけにはいかないんですね。
元から領主いるんですそれぞれの所に。
秀吉はあんな事を本当に書状に書いたんですか?結構陰険な人でしてね。
そうなんですか。
でも大抜擢ですよね。
そうですね。
大名よりずっと下の3,000石ぐらいの武将だったんですけどねいきなり19万石ぐらいですかね。
もう一気に大きな企業の社長に抜擢されたようなものですね。
いろんなステップをとばして。
そうですね。
吉野さんはいきなり抜擢されてしかも大きなプレッシャーをかけられるというお仕事の経験あります?26歳ぐらいの時に昭和記念公園という公園がありまして国の仕事だったんでいろいろ期限とか厳しかったんですね。
そんな中で部長が急に入院する事になっちゃいましてたった一人でかなりのプレッシャーは味わった事あるんですけどね。
くしくも26歳の時に。
そうなんですね。
ほんと大変でしたけどただそれで一とおり建築はどんなものかというのを自分なりに学べた形があるんですね。
スケッチから始めて図面にしてお金を出して工事ができるような細かい図面を描いていくという段取りですね。
それを割と若いうちに経験できたかなと思ってます。
お国の仕事だから失敗したら切腹だよと…。
いやそんな事はなかったですけどただ残念ながら社会の状況でプロジェクトが止まっちゃいましてデザインしたものは建たなかったんですが。
清正は吉野さんと同じように大きなプレッシャーをはねのけてどうやって熊本城を築き上げていったのか。
その知恵実は三浦先生も現地に行って探ってきてくれました。
居酒屋知恵泉2016年一発目の知恵でございます。
たっぷりとご賞味下さい。
とっとっとっと…。
いや〜何度見てもすごい城ですよね。
あっ知恵泉特命店員の新井隆太です。
壮大なスケールを誇った熊本城。
加藤清正はどのように築いたんでしょうか。
その知恵を探りに行きます。
清正がつくり上げた城は三浦さんにとっても驚くべき特徴があるといいます
鉄壁の守り?鉄壁の守りというより…
三浦さんがまず指摘するのは城の入り口です
結構威圧感感じますね。
今石垣だけ見えてますが実は…恐らく当時はここからは天守が見えなかったはずなんです。
壁のように立ちはだかる石垣と櫓。
これではとても攻める気にはなりません
行く方とすればここでちょっとひるみますね。
大体やめますね。
それでもめげずに攻め込んだ場合兵が直面するのが枡形という構造
熊本城の正面部分にはこの枡形が5か所も設置されておりこれは日本最多の数だとか
熊本城といえば有名なのが「武者返し」と言われる急角度の石垣。
敵が容易には登れない構造になっています
まあ大体合ってますけどね。
大体?大体ですか?他に何があるんですか?
確かに垂直に近い方が敵は登りづらいはず。
なぜ下の部分は傾斜が緩やかなんでしょうね
そういう事ですか。
頑丈にしてるという事?そういう事なんですよ。
下の方はだから地震対策のまま緩い。
上の方にくると登りにくくするために反ってると。
攻めにくいかつ天変地異でも壊れない。
ぎりぎりのバランスを追究したのがこの奇妙な形だったのです。
日本史上屈指の防御力を誇る熊本城。
なぜ清正はここまで完成度の高い城をつくり上げる事ができたのか
城づくりに取りかかった清正。
しかし状況は決して恵まれてはいませんでした。
領主といえども20代の清正は新参者の生意気な若造にすぎません。
更に大工事に際して動員せざるをえない地元の…もともと清正は虎退治の逸話などでも知られる猛将で戦場でも部下に厳しい事で知られていました。
ここでも力で押さえつけ言う事を聞かせるかと思いきや彼がとったのは意外な方法です。
重臣飯田覚兵衛の言葉。
彼は最初の方例えば部下に土地を与える時には「少なくて悪いけど」とひと言書いてたりするんですよね。
やっぱり彼自身も立身出世を遂げた人物ですし…この部下に対する向き合い方は農民たちに対しても同様でした。
次のようなお触れを出しています。
清正は農民たちへの配慮を示すとともに工事の際も男女の別なく十分な給金を払い無理な労役も課しませんでした。
清正は家臣と領民との間に結んだこの信頼関係を土台に難工事を軌道に乗せていったのです。
2008年熊本城内に復元された本丸御殿
ここは領主清正が執務を行った場所で中は147畳の大広間が広がる広大な施設でした
その一番奥に意外な部屋があります
お〜金色ですよここ。
まさに豪華絢爛といった感じの部屋ですよね。
「昭君之間」と呼ばれる清正が家臣と謁見するための部屋です。
しかし一領主の部屋としてはあまりに豪華すぎます。
一体なぜ?
一説には昭君之間には「将軍」の意味が込められており豊臣家の後継者秀頼を有事の際に迎え入れようとしたものと考えられています
その説を裏付ける遺構があると三浦さんは言います
実はこの間に…秀頼公がもしこちらの熊本城に来たとなるとこの北側の方裏側の方が少し防備が甘いですね。
という事でここの城門を壊しまして石塀で封鎖しちゃった。
この城門は昭君之間にそのままつながる場所なので秀頼様を守る上で弱点となる。
そこで清正は小さな抜け穴を残して門自体を塞いでしまったというのです。
この城はただ肥後を守るだけでなく豊臣家を守るためのものである。
このしっかりとしたコンセプトを清正が持っていたため人々は団結でき複雑多岐な工事を乗り切る事ができたのです
築城を始めてから10年以上たった慶長12年ついに熊本城が姿を現します。
時の政権は徳川家に移っていましたが家康は清正の精緻な築城技術に感服。
清正は52万石の大名として存続を認められるだけでなく名古屋城など幕府の重要拠点の築城を任される大出世を果たしたのです
いや〜こうやって改めて見ると恐ろしいですね。
敵だったら多分近づきたくないというか諦めるって気持ちがよく分かるなって。
すぐ帰りますよねあれだったらね。
そこでお待たせいたしました。
本日のメイン。
お正月ですおせちを。
そうですよ待ってましたよ。
これは本物のお重であります。
ではご覧頂きましょう。
どうぞ。
えっ?当店オリジナル。
ほう。
このおせち実は清正が戦に備え熊本城に備蓄していた食材で作ったものです。
かんぴょうからじゃあいきましょうか。
うんうんおいしい。
そしてずいきの煮びたしってこれずいきって三浦さん…。
これは里芋の葉っぱの柄の部分をずいきというんですね。
ああいい歯応えですね。
シャキシャキしてておいしいですね。
みずみずしくて。
それでこのずいきを干して干すと随分体積が小さくなるんですよね。
それをわらの代わりに…わらじゃなくてずいき。
干すと随分小さくなりますから水入れて湯がけば随分膨張して大きくなるんですね。
畳に入れたらみんなが踏んでるわけですよね毎日。
そうだ。
あっそれは違いますよ。
それは新鮮なずいきですよ。
想像したくないですね。
清正という人は今でもすごい地元では慕われてるんですよね。
そうなんです。
地元では清正公と書いて「せいしょこ」さんと呼んでですね。
せいしょこさん。
それだけ慕われてる。
そこまで心をつかんだのってアウェイだったわけじゃないですか最初なんかは。
簡単にころっと変わるもんなんですか?その辺のところが主君の秀吉譲りのとこなんでしょうね。
いわゆる人たらし的な部分が清正にも受け継がれてたんですかね。
やっぱり厳しいだけでは駄目ですね。
どちらかというと情けをもって愛情をもって接するとおのずからこの家臣領民たちは自分に従ってくるというまさに政治家としてはたけてたと思いますね。
知恵にありました「コンセプトを持て!」。
やっぱり建築においてもコンセプトというのはそれぐらい大事なんですか?そうですね。
やっぱりいろんな人…納得してもらうためにはコンセプトが明快である事が非常に大事だと思うんですよね。
スカイツリーは世界一の電波塔をつくるという大きなコンセプトがありましたので設計もそういう意味で頑張りましたし。
あと工事しながらだんだん100m200mと出来上がってったら見物する方がすごい増えてきて作業員の方が工事してるエリア仮囲いから出る瞬間があるんですけども皆さんすごい胸張って出ていってましたね。
「俺たちは世界一のものをつくってるんだ」という。
そのコンセプトもただ掲げればいいという事ではないんですかね。
分かりやすいという事が大事じゃないでしょうかね。
世界一もそうですけども先ほどちょっとスカイツリーの形を説明しましたがなぜこういう形なのかというところは簡単に説明できるって事は重要かなと思いますけどね。
それが複雑すぎるとやっぱり駄目なんですか?やっぱりいろんな方と打ち合わせをしていかなきゃいけないので…先ほどのお城の話で「絶対負けないお城」っていうそれも非常に分かりやすいコンセプトでつくる側としてみれば絶対この城を守るぞという気持ちでつくってると思うんですよね。
やっぱり当時の現場もそういう旗印のもとに団結したんですかね。
そうでしょうね。
まず間違いなく家臣たちは日本一の城をつくろうと思ってたと思うんですね。
そこは共通する部分でもあるんですね。
さあ続いてのお城はこちらです。
彦根城ですね。
彦根城は戦国時代最も激戦が繰り広げられました近江国現在の滋賀県彦根市に建てられました。
見どころは何といっても国宝の天守であります。
何がすごいかと言いますと建てられた当時そのままの姿をとどめている事なんですね。
ですから天守に今のぼれば戦国の城主城の主そのままの気分を味わえる事間違いなしなんですね。
変わってないんですね。
そうなんですよ。
彦根城をつくったのは誰かといいますとこの人です。
井伊直継さんで驚くべきは彼がこの城を建て始めた時はなんと15歳だったんです。
15歳!中学生ですよね。
そうです。
中学生が立派な彦根城をどういうふうに築き上げたのか汗と涙の物語があります。
そこで私店主自らですね現地に行って知恵を探ってまいりました。
彦根城の知恵たっぷりと味わって頂きましょう。
慶長5年徳川家康と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦い。
家康率いる東軍で勝利に貢献し徳川四天王の一人と言われたのが井伊直政です。
戦のあと家康は重要なミッションを直政に下します。
それはきゅう敵石田三成が治めていた近江国に徳川方の城をつくれというものでした。
大坂には豊臣家が今なお残り豊臣シンパの大名も依然強い軍事力を保持しています。
彼らの反乱に備え近江に防波堤となる城を一刻も早くつくる必要があったのです。
しかしこのミッション次々とトラブルに見舞われます。
慶長7年。
特命を受けた当主直政が急死。
引き継ぐ事になったのはなんと幼い嫡男直継でした。
更に畳みかけるようにトラブルが発生。
なんと城をつくる木材がない。
当時慶長期なんですけど…数年やっぱり必要だったと思うんです。
そんな事情は知らぬとばかりに家康は周囲の大名を応援によこし矢のような催促をかけてきます。
上司からのむちゃぶりに大ピンチに陥る…
城づくりの秘密を探るために私近田は彦根城にやって来ました
あれ…ちょっとあの後ろ姿。
もしかして…。
すいません。
もしかしてあなたは…ひこにゃん!
おなじみ彦根市のマスコットキャラクターひこにゃん!
もしかして今日はひこにゃんが案内してくれるの?
ひこにゃんが案内してくれるなんてこいつは正月早々ツいてるぜ!と思いきや…
ひこにゃん早く。
ひこにゃんちょっと随分ゆっくりだね。
あっそうやって一歩ずつ確実にいくんだ。
ちょっと時間かかるかな。
ひこにゃんは足が短いので歩くのがゆっくり。
これでは時間がかかるので悲しいですがここでお別れです
案内は彦根城博物館の谷口徹さんにお願いする事に
本丸への道を進むと見えてきたのは天秤櫓。
天秤の形に似ている事から名付けられました。
スピード工事で仕上げたとは思えない優雅さですね
見えてきましたよ。
彦根城の天守に。
ああ立派ですね。
こちらの天守も時間をかけて丁寧につくられているように見えますが…
内部には突貫工事の跡が随所に残っていると谷口さんは言います
そのヒントの所へ来たんですがお分かり頂けますかねこの上の方。
この上にヒントですか?はい。
さあここにスピード工事の秘密があるそうですが分かりますか?
太い木材が何本もある。
この辺り。
色が変わってる部材がありますよね。
この四角い…。
つまりもともと大きな穴があったんですよ。
必要ないので埋め木をしたんですね。
よく見ると穴を埋めたような跡がいくつも見られます。
一体なぜ?
実はこれはもともと…だからどうしても本来ここでは必要のないものは見えちゃってるわけです。
それで埋め木をしたりして少しは隠していますけど。
そうです。
穴を塞ぐためにできた埋め木の跡
こちらは接ぎ木してあります。
見事に合わさってますね
実はこの彦根城ほとんどの建物が中古の木材によって建てられています。
天守は近くにあった大津城を潰して木材を調達。
西ノ丸三重櫓は小谷城。
佐和口多聞櫓は佐和山城。
そして天秤櫓は長浜城を潰し木材を運んだとの記録が残っています。
せっかくあった城を壊してしまうなんてもったいない気もしますが意外なメリットもありました。
そういうものも有効に今必要な所へ持ってきて…再利用は木材不足を補うだけでなく敵が侵攻してきた時に拠点にされるリスクを減らす一挙両得の知恵でもありました。
その後更なるトラブルが…。
天守の建設が何度も失敗し工期の遅れが深刻になっていきます。
この事態に現場から出たのが「人柱を立ててはどうか」という意見。
人柱とは工事の成功を神に祈るため生きたまま人間を埋める事をいいます。
直継もやむをえないと承諾し娘は棺に入って埋められました。
この事がみそぎとなったのか瞬く間に天守は完成。
喜びに沸き立つ一同の前に現れたのはなんと埋められたはずの娘。
実は直継は2つの棺を用意していました。
家臣思いだったという直継の人柄が伝わるこの逸話。
それが直継の知恵だったのです。
なんと着工から僅か2年という異例のスピードでした。
家康はこれを高く評価。
以後井伊家は幕府の要職を担う家柄となります。
幕末までに将軍に次ぐ重職大老を5人も輩出するという見事な出世を果たしたのです。
さあこのように苦労して建てられた彦根城の模型を今日お借りしてきました。
これ三浦先生見どころがいっぱいあるんですよねこの天守には。
そうですね。
この三角形の破風破風だらけですね。
この破風の数が天守だけで全部で18あるはずなんです。
この三重の天守で18という数は日本史上最多なんですね。
たくさんある事にどういう意味があるんですか?飾りなんですよ。
それからもう一つがこの2階と3階の窓なんですがちょっと独特の窓してますよね。
上がすぼまって下が広がって。
鐘のような形なんですね。
これは花頭窓というんですけどねこれは金閣銀閣のような楼閣建築に使う最高級の窓なんですが天守につけられた花頭窓としましては史上最多。
一番多いんですよね。
でも驚く事はそれだけじゃないんです。
もっと大変な事が。
要するに普通はもっと小さく造るんですよ。
こちらのも小さく三角に造っていけばいいところを随分大きく造ったんで屋根が下に突き抜けてますね。
要するに破風を大きく造っている。
これは彦根城というのは山の上にあって城下から見ると小さくしか見えない。
歌舞伎の役者さんが遠くから見られても大丈夫なように目だとか口にちょっとお化粧を大げさにしてくまどりですね。
私はこれを「くまどり天守」と呼んでるんですけどもね。
大きく見せる。
そうなんですよ。
これだけ飾る事によってやっぱり権威を見せるという事ですか?大坂城に豊臣秀頼がいたんです。
外様大名たちがこの秀頼を総大将にして徳川幕府打倒で立ち上がって攻め上ってくるとまずこの彦根の辺りを絶対通るわけなんですね。
そこでこの彦根城で止めてしまおうと。
だからまあ幕府を守るための最初の拠点なんですね。
非常に重要な城なんです。
だから飾りをつけて格式高くと。
重要だからこそこれだけ凝った造りなんですね。
吉野さんも建築の現場ではここまでにつくらなきゃいけない。
スピード工事でやれというような経験あります?そうですね日本科学未来館というのが博物館なので4月からお客さんを迎えなきゃいけないというのがありまして工期が1年だったんですね。
短いですね。
地下をつくってその上に建物をつくってとやってると時間がなくなってしまうので地下は駐車場だったんですがそれを建物と違う場所につくって同じ敷地の中なんですけどその上は池とかにしたんですが。
地下駐車場と本体の工事をバラバラにできるような考え方で1年でつくり上げましたね。
いわゆるデザイン的な部分に加えてどうやって期日内に納めるかというところはどうやって考えていくんですか?どうやってというか…「かたちが決まっていく」ってどういう事ですか?スカイツリーの場合は建物の敷地の中に都営浅草線というのが走ってるんです。
そこに荷重をかけちゃいけないというのがありましてスカイツリーもよけてるんですけどもその隣にあるオフィス棟もオフィスの脚がまっすぐ落ちると地下鉄にぶつかっちゃうので斜めに落ちてってるんですよ。
今度行かれるとオフィスの角もグーッと地下鉄をよけるために斜めになってる姿が拝見できると思いますよ。
そうか制約の中だからこそ築き上げられるものも。
それがまたちょっと面白い形になったりするんですよね。
何でオフィスでこういう形になってるのみたいな。
そこには制約があったからこそ生まれたもの。
そうかそういう副産物もあるんですね。
さあ知恵を見てきましたけれどもちょっとこの辺りでお城にまつわる絶景を味わって頂こうと思います。
春香さん天空の城って最近聞いた事ありませんか?ああよく聞きますね。
実はあれ国内あちこちにあるんですよ。
まずこちらは岡山県高梁市の備中松山城です。
標高430mの山の頂上にあるんですね。
この雲海に包まれてパッと顔を出して天空に浮かんでるように見える事から天空の城と呼ばれるんですね。
まだまだあります。
続いては越前大野城。
福井県大野市にありますね。
標高249mの山の上にあります。
これもまさに天空の城という感じしますよね。
大体年間10日ほどしか現れない。
そうなんです貴重なんです。
ですから幻の天空の城とも呼ばれるんですって。
行って泊まっても出ない可能性が。
出ないかもしれないですよ。
続いてご覧頂くのが天空の城といえばここですよ。
有名ですね。
そうです。
兵庫県朝来市の竹田城。
もう天空の城ブームに先べんをつけたお城ですよね。
ここは標高353mの山の上に築かれたお城でして。
すごい!そうこの神秘的な光景。
あのペルーの遺跡になぞらえて日本のマチュピチュとも呼ばれています。
すごいですよね。
もともとは知る人ぞ知るお城だったそうなんですね。
それがテレビですとか映画で紹介された事によって全国的になりまして今では去年40万人が訪れたんですよ。
先ほどの2つのお城も含めましてこれから行ってみたいという方はぜひ地元の自治体などに問い合わせていつだったら行けるかどんな事に注意したらいいのかというのを確かめて頂ければというふうに思います。
この竹田城は誰が建てたお城なんですか?秀吉の名前が出てきましたけれども秀吉というのはお城づくりの名人だったんですか。
名人ですね。
家臣となった大名たちに命令して天下普請というんですけどねそういった国家的プロジェクトで城をどんどんつくっていった。
これが秀吉の城づくりのやり方でそういった意味で城づくりの名人と言えますね。
その城づくりの名人の秀吉が大いに影響を受けた人物がいるんですよ。
それが誰かといいますとこちらです。
お〜信長。
そうです。
やっぱりって感じですね。
信長の影響を大いに受けているんですよね。
この信長の最高傑作と言われますのがこの安土城です。
今宵最後はこの安土城の知恵をたっぷりと味わって頂きます。
時代を変えた天才織田信長。
軍事や経済など次々と新しい試みを行った信長の才能は城づくりの分野においても突出していました。
信長が本格的な城下町を初めて築いた小牧山城。
斎藤道三の山城を改築しここで天下統一を決意したという岐阜城。
そんな彼がつくり出した最高傑作が言わずと知れた安土城です。
現在私たちが考える城のイメージはここに始まったと言っても過言ではありません。
しかし近年この安土城にアイデア借用疑惑が…。
安土城は実はオリジナルの城ではなくて…衝撃の告白をするのは安土城の発掘調査にも関わった近江八幡市の坂田孝彦さん。
すいません申し遅れました。
あの安土城にモデルとなった城があったというのは驚きですよね。
ぜひ見てみたいです。
坂田さんぜひ案内して下さい。
よろしくお願いします。
滋賀県近江八幡市。
繖山の中腹に35歳の信長がインスピレーションを受けた城がありました
すごく雰囲気もいい所ですね。
ここお寺?ここは観音正寺という大きなお寺です。
このお城というのはこの山全体に観音寺城というのがあって今は「観音寺城跡」と呼んでますけれども。
観音寺城はかつて近江国の南部を治めた六角氏が本拠とした城ですがその規模がすごい。
山の上半分を覆い隠すほどの城郭が広がる全国でもトップクラスのマンモス城だったのです
信長は永禄11年この城を攻め落としますが後の安土城につながる大きな発見をしていたんです
(太田)安土城に影響を与えた部分というのは?
(坂田)石垣がこのようにあるんですけど。
(太田)すごい迫力ありますよね。
(坂田)ですよね。
さあ信長になった気分で見て下さい。
信長はここからある重要な城づくりのヒントを読み取っています。
分かりますか?皆さん
長い短いという形を交互に積んでいる様子が見受けられると思います。
石垣はそのまま積むだけでは安定せず一定以上の高さにする事ができません。
そこで六角氏は石垣の隅の部分を石が互い違いになるように積み上げました。
これは算木積みと呼ばれる技術で石垣をそれまでより高く安定して積む事ができるようになったのです。
信長はこの工法を8年後安土城をつくる際に導入。
山全体に壮大で堅固な石垣を張り巡らせて防御力を強化する事に成功しました
続いて向かったのは…
山深い所ですね。
滋賀県の米原市。
こちらの山の上にも信長が41歳の時手本にしたとされる城がありました
(泉)はいお疲れさんです。
(太田)鎌刃城跡。
着きました。
(泉)中心地です。
鎌刃城は近江国の北部を支配する浅井氏の家臣が治める城でした
これが鎌刃城の地形を表した模型です。
攻め落とされる事がないよう急しゅんな尾根を削って城がつくられていました。
信長に影響を与えたあるものはくぼ地のこの場所にあったと考えられています
ここに…見てもらうと分かりますが大きなくぼ地があるんですけどこれが何か分かりませんでした。
調査の結果によってここに…
ここには1階建ての建物がほとんどだった戦国時代に3階建ての櫓があったそうです
当時としてはかなりの高層建築ですがそれを可能にしていたのはある独特な構造でした
櫓を建てる際必要となるのが足元の石垣です。
火をつけられるのを防ぐなど防衛には必要な構造です。
しかし石垣は上からかかる力にはもろく大きな建物を建てるには強度上の不安がありました。
そこで浅井氏の家臣が考えたのが石垣の中央部を空洞にする工法
こうする事で石垣の上でも安定する高層建築が可能になったのです
天正2年鎌刃城を我が物とした信長はこの構造を参考にして安土城に当時最大となる高さ30mの天主をつくり上げました
よいものはたとえ敵のものでもどんどんお手本にする。
この謙虚に学ぶ姿勢が信長最大の武器だったのです
信長の城づくりによって城は革命的に変わってしまいましたね。
革命的に。
そうなんです。
信長以前の城というのは大体山の上にあって土ばかりで出来てたんですね。
上の建物は大した事がなかった。
それを信長はまず高い石垣を造っちゃったんですね。
天主を建てたんですね。
本丸に壮大な御殿を建ててしかも周りに広大な城下町をつくっちゃったんですね。
大体そういうのがその後の桃山・江戸時代のお城の典型ですがそういった桃山・江戸時代の…城の歴史を変えた。
変えたんですね。
信長以前と後では全く城の形が違うんですね。
すごいですね。
いいところをそれぞれいいものを見抜くセンスはすごくあったという事。
組み合わせる力ですね。
吉野さんはいろんな所からインスピレーションを得てそれを自分の作品に生かすという信長の知恵どうご覧になりました?我々も例えばホテルを設計するとすればやはりいろんなホテルを見て回らないとその良さというのが分からなかったりするので私自身は何か仕事を頼まれたらやっぱり同じような例を見て回るというのがいつものやり方にしてますね。
やっぱりリゾートホテルでハワイとかって有名じゃないですか。
行ってなぜ気持ちいいのかと思うとフロントも一切ガラスも扉もなしにハワイの風を感じられるじゃないですかロビーでも。
そういうのがすごくいいなと思って。
この間ちょっと沖縄の方でもリゾートホテルを設計したんですけどもまず入った瞬間に本当の沖縄を感じてもらおうという事で窓も何もないロビーがまずあってそこで沖縄の海の音も鳥の声も緑の音もまず聞いてもらってからホテルに入ってもらおうという建物を設計したんですけどね。
それもハワイのまねではあるんですがまあそこにちょっとオリジナリティーがあるかなとは思ってるんですけど。
例えばスカイツリーをデザインするにあたってどんなとこを見にいったんですか?まずは世界一を目指してたので…スタッフ10人ぐらいで富士山から順番にですね。
富士山だいぶ高いとこですね。
富士山北岳奥穂高岳ですね。
槍ヶ岳も登ったんですけど。
それって何か生きたんですかやっぱり。
登るとやっぱり山の頂上に行くと人って初めて360度見えるんですよ。
登ってる時って一方向しか見えないので。
やっぱりスカイツリーも展望台というのは360度見渡せるようにしたいなというのでああいう形になったりしたんですね。
それと最後頂上を極める時というのはやっぱり「天望回廊」と呼んでるんですがこれがスロープになってまして最後は自分の足で一番高い所登って下さいという形でエレベーターとかエスカレーターとかを使わずにですね。
実際の山登りがここに生きたんですね。
何となく少し役立ってるかなって。
でもインスピレーションってそれだけ大事なんですね。
家でゴロゴロしてるとあまり感じられないと思うので。
かなりゴロゴロ好きなんですけどなるべく外に出ていくようにしてます。
今宵は戦国の城その知恵を味わってきましたけれども春香さんいかがでしたでしょうか。
お城って立派だなって漠然と思ってたんですけど実際に見るといろんな状況があってコンディションがあったりまたはどこかから受けたインスピレーションだったりあとやっぱり人を引きつける力があったりそういうのを積み重ねてできたものなんだなというのをやっぱり感動しましたね。
今年は行ってみようかなと思います。
ぜひ。
さあ今夜はテーマ「巨大プロジェクトを成功させるには?」という事で味わってきましたけれども吉野さん改めてその極意を。
極意ですか。
極意って事かどうか分かんないですけども「なぜそうするのか?」という事に明確に答えていく事が大事だと思いますね。
日本科学未来館というのはあれだけガラスを使ってるのは科学技術を発信したいという気持ちもあったのでガラスでつくり上げたりしたんですね。
ヒカリエは渋谷らしさを求められましたのでなぜああいう形にしたかというと渋谷の街を上に積み上げたような形にして渋谷らしさを表現したんですがなぜそうしたのかと言われて「何となく」という答えが我々はできないので。
結果的には大きなプロジェクトをちゃんとつくり上げた事につながったんじゃないかなと思っています。
ぶれない軸しっかりした土台城と一緒ですね。
そうですね一緒ですね。
まさにそれが大事という事よく分かりました。
そして居酒屋知恵泉。
この一年繁盛しますように皆さんで乾杯といきませんか。
では2016年今年もよろしくお願いします。
乾杯!
(一同)乾杯。
やっぱ来てよかったです。
でしょ?2016/01/01(金) 22:00〜23:00
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉新春SP 私はこれで出世しました▽戦国の城 成功の極意[解][字]

元日夜に歴史酒場「知恵泉」が営業開始。テーマは戦国の城。熊本城の加藤清正から安土城の信長、天空の城まで巨大城で出世した武将にあやかる新春開運スペシャルです!

詳細情報
番組内容
元日夜に歴史酒場「知恵泉」が営業開始。テーマは「戦国の城」。人はなぜ城にひかれる?それは城の機能美だけでなく、城造りにかけた男たちの情熱を感じ取るからだ。人気ナンバー1の熊本城を作り上げた加藤清正!、国宝の名城、彦根城を築いた15歳の当主!、そして幻の奇城、安土城を生んだ織田信長まで城名人たちが続々登場。最新研究を交え城で出世した武将たちの極意に迫る。名将にあやかって新年開運を願うスペシャルです!
出演者
【ゲスト】設計士…吉野繁,春香クリスティーン,【出演】広島大学教授…三浦正幸,【司会】近田雄一,【リポーター】太田磨理

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
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日本語(解説)
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