歴史秘話ヒストリア「真田一族 戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・幸村」 2016.01.03


時は戦国。
ある名将の登場が世を震撼させます。
昌幸が従えるのは後に大坂の陣で活躍する息子…長野・上田の名城を拠点に天下に戦いを挑んでいきます。
張り巡らした秘策の数々で徳川家康など名だたる武将を翻弄し撃退した昌幸。
その仰天の作戦をご覧頂きます。
関ヶ原の戦いに下駄が影響?真田親子の涙の決別が歴史を変えていきます。
長野市松代に伝わる木像。
関ヶ原後敗れた父・昌幸に代わり真田家を継いだ長男信之の晩年の姿です。
亡き父の遺志を継ぎ60年の長きにわたって家を守り続けた信之。
その苦悩の物語です。
父から息子たちへ受け継がれた熱い思い。
大動乱の中で光を放った戦国最強の家族の物語です。
真田家発祥の地長野県上田市にある真田神社。
境内の名物となっているのがこちら直径1.5mにも及ぶ巨大な真田兜です。
その額にはもちろん…六文銭とは一文銭が6枚の事で…つまりいつでも死ぬ覚悟ができているというもので真田一族の勇気の証しとなっています。
しかしその勇ましい真田家の当主昌幸の戦国時代の評判はというと…。
何だかさんざんな言われよう。
戦国一の食えない男と言われた真田昌幸仰天の生き残り術です。
その当時の真田家は厳しい状況にありました。
真田家の周りでは古くから根づいた領主たちが互いの領土を奪い合っていました。
昌幸の父は僅かな領土を守るため…7歳だった昌幸は武田家に対する忠誠の証しとして…弱小一族の悲哀を幼くして一身に背負う事になったのです。
その後昌幸は信玄に家臣として取り立てられ数々の合戦で活躍した事で出世。
7年後の天正10年3月。
この時から昌幸の運命が大きく変わっていきます。
武田家の滅亡後北条徳川上杉など強大な大名たちが旧武田領に攻め込んできました。
昌幸は真田領を守るためやむなく勢力を拡大しつつあった徳川家康に従う事になります。
しかしそこには厳しい現実が待ち受けていました。
家康から昌幸にある要求が突きつけられたのです。
家康は昌幸に忠誠の証しとしてその領地の半分をよこせというのです。
このころ家康は天下取りレースに勝ち残るため北条家と同盟を結んでいました。
その同盟条件として沼田を北条に渡す約束をしていたのです。
もともと僅かな領土を更に半分も奪われてしまっては真田家は立ち行かなくなる…。
苦悩の末昌幸は思い切った決断をします。
それは家康の下についたばかりにもかかわらずそれを反故にし家康と敵対していた上杉家に寝返るというものでした。
この昌幸の裏切りに家康は激怒。
すなわち戦国一の大うそつきと罵ります。
その命令は根切緊要。
つまり真田一族を皆殺しにしろという激しいものでした。
徳川軍は7,000。
一方迎え撃つ昌幸の兵は3分の1以下の2,000にすぎませんでした。
このままでは到底勝ち目がありません。
窮地に陥った昌幸がこの時行った事それはある秘策によって劣勢を挽回する事でした。
長野県上田市にある昌幸の本拠地…3倍以上もの徳川軍を迎え撃つ事になった昌幸が注目したのはこの地形でした。
城の南側は切り立った崖になっており流れが速くて深い千曲川に面していました。
つまり南側からはまず攻められない構造でした。
更に城の北と西には広い沼地がありました。
昌幸はこれを掘り下げる事で深い堀にします。
天然の地形を利用して北西南から攻められない構造を完成。
敵を東側の1か所に集めるという作戦をとったのです。
徳川軍7,000が上田城への攻撃を開始。
予想どおり東側から攻め込んできました。
城の外で迎え撃つ真田軍。
しかし徳川軍を見るやいなやなぜかすぐに退却してしまいます。
恐れをなしたと見た徳川軍はこれを追撃。
そのまま一気に城になだれ込みます。
この時徳川軍に思いがけない事が起こりました。
突然城壁の上から大量の大木や石が降り注いできたのです。
全ては事前に昌幸が準備していた罠でした。
(銃声)追い打ちをかけるように鉄砲の一斉射撃を浴びせられ大きな被害を出した徳川軍。
慌てて城下町へと退却しますがここにも昌幸の罠がありました。
逃げようとする兵の前に突然柵が出現。
身動きができなくなった徳川軍に四方八方から攻撃が加えられます。
昌幸の奇策に翻弄された徳川軍は1,300人余りの大損害を出し撤退を余儀なくされました。
大軍を圧倒した昌幸。
しかし戦いが長引けば大規模な勢力を持つ徳川に太刀打ちできない。
そこで昌幸が打った手が…なんと再び主人を鞍替えする事。
昌幸は上杉家と手を切り当時最大の勢力を誇っていた秀吉の家臣となったのです。
これで家康もうかつには昌幸に手出しができなくなりました。
歯ぎしりせんばかりに悔しがる家康。
…とそのもとに使者が訪れます。
それは裏切ったはずの昌幸からの使いでした。
なんとずうずうしい!実は昌幸は秀吉にも次男の幸村を家臣として送り込んでいました。
こうして昌幸は権力者秀吉の後ろ盾を得ながら家康ともよしみを結ぶ事で真田家の地位を安泰にしたのです。
有力武将2人に取り入る事で見事真田家を守った昌幸。
しかしこの外交戦略が後に昌幸自らの首を絞める事になります。
仕える主を次々と替えながら小さな領土を守り抜いていた真田昌幸。
その昌幸の秘密兵器が戦の前に敵の情報をつかんだり敵を攪乱したりして勝利に結び付ける忍者でした。
当時の真田領に実在した真田忍者の痕跡が今も残っています。
こちらは…玄蕃は昌幸に仕えた忍者の中でも特に敵地への潜入にたけていたと言われます。
若き日のこんなエピソードが伝わっています。
ある時玄蕃は2つの城に潜入して火を放ち内部から焼き払えという命令を受けます。
厳しい警護をしている門番の一瞬の隙をついて侵入。
見事ミッションに成功します。
こちらも難なく忍び込む事に成功。
いざ火を放とうとした時ふと目に入ったのが金で飾られた豪華絢爛な馬よろい。
玄蕃はその馬よろいのあまりの見事さにうっとり。
城を焼き払う任務も忘れて思わずそれを持ち帰ってしまったといわれます。
忍者というととかく任務に忠実で冷静に行動するというイメージがありますが真田に仕えた忍者はどこか人間臭くおちゃめな一面があったようですね。
真田家の主として難しい仕事を日々こなす昌幸さん。
そんな時にふと思うのは…ある晩昌幸は次男の幸村を連れて長男信之の城を訪ね孫に会いたいと申し入れました。
ところが応対に出た嫁の小松姫はなんとなぎなたを振りかざして断固拒否。
一体何があったの?あの関ヶ原の戦いにも影響を与えた真田一家大ゲンカの顛末です。
領地を盤石なものにしつつあった真田家を揺るがす事態が起こります。
真田家の重要な後ろ盾だった天下人…秀吉亡き後豊臣家をもり立てようとする石田三成ら西軍と天下を我が物にしようとする徳川家康ら東軍の対立が激化。
昌幸もその渦に巻き込まれる事になります。
その昌幸のもとに…それは自分たちが家康に対して兵を挙げた事を告げ昌幸の参加を呼びかけるものでした。
しかし昌幸は秀吉に大きな恩義を感じていたもののすぐにその誘いに応じる事ができない状況にありました。
昌幸は豊臣・徳川双方に息子を送り込み更にそのあと婚姻関係まで結ばせていたため容易には身動きがとれない状態にあったのです。
その様子は真田家の家臣が後に記した記録に残っています。
父・昌幸の考えはこうでした。
家康は戦にたけていましたがかつて真田領を奪い取ろうとした人物。
油断できない相手でした。
一方三成ら西軍からは勝ったあかつきには新たな領地を与えるとの約束がありました。
次男の幸村も父の方針に賛成します。
信之の妻小松姫は家康の重臣の娘にあたり徳川家と密接な関係にありました。
一説には兄と弟の間で激しい言い争いがあったといいます。
話し合いは難航しました。
心配してのぞいた家臣にいらついた父・昌幸は下駄を投げつけたとも伝えられています。
ついに父・昌幸は決断を下します。
徳川方と石田方に親子ばらばらに分かれる。
そうすればたとえ一方が滅んでも真田家は続くと考えたのです。
こうして関ヶ原の合戦を前にして父と息子はたもとを分かち敵対する関係となりました。
この後兄・信之は家康のもとに参陣。
そして父・昌幸と弟・幸村はまずは本拠地である上田城に戻ります。
その途中昌幸たちは長男・信之の居城である沼田城に立ち寄ります。
今や敵となった息子の城をあわよくば奪ってしまおうというねらいです。
この時昌幸が城に入る口実に使ったのが城内にいる孫に会う事でした。
昌幸は留守を守る信之の妻小松姫に申し入れます。
しかしそこに現れたのは完全武装した小松姫。
既にいきさつを夫から知らされていたのか小松姫はこう言い放ちます。
結局昌幸は城の奪取に失敗します。
たとえ家族であっても敵は敵戦国時代の厳しい現実をうかがわせるエピソードです。
昌幸が西軍についたという知らせを聞いた家康は危機感を高めます。
家康は西軍との決戦のため軍を西へ進めつつありましたがその際上田城の昌幸はやっかいな存在でした。
家康はかつて大敗を喫した昌幸に対し別動隊を送り討伐させる事を決めます。
配下には徳川家歴戦の勇士たちからなる最精鋭の部隊をつけました。
兵力は3万8,000にも及び東軍の総兵力の3分の1にあたる大軍勢でした。
家康がいかに昌幸を恐れたかが分かります。
更に家康は周到な対抗策も講じています。
昌幸の長男信之を秀忠軍につけたのです。
実の息子から直接降伏勧告させればさすがの昌幸も矛を収めると考えたのです。
一方守る昌幸軍は僅か2,500。
10分の1以下の兵力でした。
布陣後…信之は明らかな兵力の差がついている事を示し速やかな降伏を促します。
信之の説得がきいたのか昌幸は降伏を受け入れます。
秀忠は父・家康から一刻も早く攻略して本隊に合流するよう命じられていました。
しかしこれはまたも昌幸の仕掛けた罠でした。
巧みに城内に誘い込まれ15年前と全く同じように秀忠軍は敗北を喫します。
全ては昌幸のもくろみどおりでした。
秀忠軍の合流を見込んでいた家康の作戦を大きく狂わせる事になります。
関ヶ原の戦いが勃発。
秀忠軍の遅刻により数で勝る事になった西軍が戦いを有利に展開します。
まさに昌幸の戦略が功を奏したかに思われたその時。
それをきっかけに一気に東軍が優勢に。
死力を尽くした昌幸でしたがついに運命は味方しませんでした。
父は敗れ真田家の将来は徳川方についた長男・信之に託される事となったのです。
真田親子が敵味方に分かれた関ヶ原の戦い。
その直前父・昌幸が長男の信之に託したというお宝があります。
長野市の真田宝物館に残されている…中に入っているのは真田家に代々受け継がれてきた重要書類の数々です。
真田家の歴史を物語る家宝とも呼ぶべきものでした。
もしかしたら昌幸は自分が味方した西軍が敗れる事を予想し長男の信之に真田家の将来を託そうとしたのかもしれません。
勝利のために策を巡らしながらも一方でいざという時のために万全の手を打っていた昌幸。
一族の長として冷徹なまでの覚悟がうかがえます。
長野市大鋒寺に伝わる武将の木像。
これは父・昌幸と敵対して徳川家についた…当時としては稀に見る長寿を全うした人物です。
関ヶ原の戦いのあと…昌幸はもはや真田家を担っていく事ができなくなりました。
代わって真田一族を一身に背負う事になったのが信之でした。
父の遺志を継ぎ真田家再興に懸けた長男真田信之の60年にわたる涙の物語です。
信之は徳川家康の下で真田家を生まれ変わらせ家を再興していく決意を固めていました。
関ヶ原の戦い後真田家は厳しい立場に立たされていました。
家康は二度にわたって反逆した真田昌幸を憎みその子信之に次のような命令を下します。
真に忠誠を誓うなら父と弟をその手で殺してこいという家康。
信之はその過酷な命令を必死で拒みます。
家康は身を捨てて願い出る信之の様子に折れようやく命だけは助け流罪と決めました。
父と弟の汚名をそそぎ真田家の名誉を回復していく事が長男信之の使命となったのです。
罪人となった2人はこの地で不自由な生活を強いられます。
昌幸は家康との戦いは豊臣家への忠義から行ったものと…信之は昌幸の願いをかなえるため家康の重臣たちの間を回って説得を続け…しかしその努力は実りませんでした。
慶長16年ついに昌幸は失意のまま亡くなります。
更にその信之を窮地に追いやる出来事が起こります。
慶長19年11月大坂の陣が勃発。
弟の幸村が高野山から脱出。
豊臣軍に身を投じて徳川家に再び反旗を翻したのです。
信之は徳川幕府の一員として…実の弟に対して断固戦う姿勢を示したのです。
その激戦のさなか弟の幸村は命を落としました。
父と弟を失った信之。
…といういわれのないものでした。
信之は身を挺して弁明します。
その後信之の疑いは晴れたものの大坂の陣での弟・幸村の反逆は真田家に暗い影を落とします。
7年後…移転先は長野の松代。
石高は増やされ形の上では栄転でしたが背景には真田家の力を弱めようという幕府のねらいがあったと考えられています。
父が裏切り者と呼ばれながらも必死に守り抜いてきた上田の地。
信之の失意を物語る友人宛ての手紙が残っています。
しかし家を存続していくのが当主の責務。
信之は幕府の移転命令を静かに受け入れ上田を後にします。
移転したこの松代でも信之の苦難は絶えませんでした。
信之は藩内の状況に一つ一つ向き合って地道に改革を進め藩の立て直しを図っていきました。
離散した人々を呼び戻すために…その後信之は長きにわたって藩政を直接担当。
そして真田の新たなふるさととなった松代を豊かな藩へと生まれ変わらせていきました。
そして時は流れていきます。
初代将軍家康が亡くなり二代目の秀忠更にその後を継いだ三代家光もこの世を去ります。
この時松代藩では…。
実に92歳藩主として最高齢の域に達していました。
亡き父の遺志を継ぐ。
その思いだけが信之をつき動かしていました。
長い間には徳川幕府の真田に対する警戒心も過去のものとなっていきます。
信之は戦国の世を知る数少ない名君として広く尊敬を集めるようになっていました。
いつしか信之は日本中の武士たちのお手本と見なされるようになりました。
幕府で重んじられる存在となります。
信之が亡くなったのはそれから程ない万治元年。
父から託された真田家再興の使命を果たした大往生でした。
その一生を真田家を守るためにささげた真田信之。
長野市松代町の中心部には信之が残したあるものが今も市民の手で大切に守られています。
それはこちら。
藩内に時を告げていた…昼も夜も一時ごとに鐘を鳴らして農作業などの目安とし更に火事などの災害時にも使われました。
戦国の動乱から関ヶ原そして江戸時代の初めまで生き抜いた信之。
移り変わる世の中で確かなものを残したいという思いが込められていたのかもしれません。
それでは最後にもう一つ。
真田昌幸から息子の信之そして子孫へと受け継がれていった一族のしきたりがあるそんな秘話をどうぞ。
長野県上田市で毎年4月に行われている…高い人気を誇る戦国武将ゆかりのお祭りとして全国から毎年5万人以上の人々が集まります。
戦国絵巻さながらの武者行列。
それを率いているのは真田昌幸信之幸村の親子です。
長い時を経て一族の興亡は輝ける伝説となりました。
その真田一族の絆の証しと言えるものが真田家の家臣の家に今も大切に伝えられています。
関ヶ原直前の徳川軍との最終決戦の際昌幸が居並ぶ武将たちと死をも覚悟し酒の回し飲みをした時に使ったものです。
その後この椀は家臣の手で長男信之のもとに届けられます。
六文銭を旗印に戦国最強を誇った真田一族。
その強さの秘密は父から子へと受け継がれた家族の固い絆にありました。
2016/01/03(日) 00:02〜00:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「真田一族 戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・幸村」[字][再]

戦国最強・真田一族。その強さの源は有名な真田幸村の力のみにあらず!幸村の父・昌幸(まさゆき)兄・信之(のぶゆき)そして幸村、親子三人の家族の絆だった!

詳細情報
番組内容
「真田一族 戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・幸村 父と子の物語〜」【1月6日(水)午後10:00 歴史秘話ヒストリア スペシャル「徹底解明!これが真田丸だ〜地中に残された幻の城〜」放送決定!】
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
キーワード1
真田一族

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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