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今日の主人公は戦国時代のヒーロー真田幸村です。
こちらは幕末から明治に庶民に大人気だった講談や歌舞伎を基に描かれた錦絵です。
槍を振りかざして敵に一直線。
勇猛果敢な武将幸村です。
…と思えば「真田十勇士」などのお話では仲間の十勇士を指揮する沈着冷静なリーダー幸村。
最近人気のゲームでは真っ赤な衣装に身を包んだ熱血漢のキャラクターとして登場します。
時代や作品によってイメージは違っても共通した真田のシンボルはこれ。
六文銭です。
六文銭はあの世との境三途の川の舟の渡し賃。
いつでもどんな事にでも命を懸ける覚悟の男というのはどの幸村にも共通しているようです。
伝説と物語に彩られた英雄真田幸村。
さまざまなイメージの向こう側に秘められた幸村本人とは一体どんな人だったのでしょうか?歴史それは絶え間なく流れる大きな河。
その中のキラキラした一滴を秘話と呼びます。
大坂夏の陣。
乱世の終わりの大戦で一躍英雄となった真田幸村。
その活躍は不遇に悩み続けた男が最後に打ち上げた大きな花火でした。
幸村が30代から14年閉じ込められた山里に残る伝説の数々。
そこには働き盛りを棒に振った幸村の切ない思いが隠されていました。
徳川の世は気に入らない!幸村と共に立ったのは新しい時代からはじき出された男たち。
彼らが大坂の陣で繰り広げたのはあっと驚く派手な戦。
一体どんな戦いだったのでしょう?赤赤赤。
幸村たちがまとった覚悟の色。
戦場を真っ赤に染める最後の突撃で幸村は英雄への階段を一気に駆け上っていきました。
戦国最後のヒーロー真田幸村。
英雄伝説誕生に秘められた切なく誇り高い心意気をご覧下さい。
大阪から南に50km。
高野山の麓の町和歌山県九度山です。
ここには嘘か真か幸村にまつわる伝説が数多く残されています。
こちらは「真田の抜け穴」と呼ばれるもの。
なんと大阪城につながっていると言われます。
大阪城までトンネルがパッと抜けとるんかなと子供心には感じてましたけども。
幸村ゆかりの山里で伝説の向こう側に隠された幸村の真の姿を訪ねます。
六文銭。
こちらにも六文銭。
九度山は六文銭であふれています。
まさに真田の里です。
町の中心部にあるこの寺は幸村たちの屋敷跡に建てられたもの。
「真田庵」と呼ばれています。
ここに残る十文字の槍は幸村が使ったものだと言われます。
槍の使い手ぶりがうかがえます。
幸村伝説の極め付きが真田庵の庭にあるこの井戸です。
その名も「雷封じの井戸」。
幸村が屋敷に落ちた雷を捕まえてここに封じ込め村人を落雷から救ったと伝わります。
(取材者)ごめんください。
町の雑貨屋さんでも幸村伝説を見る事ができます。
真田紐です。
袋状で丈夫なためかつては鎧兜の紐に使われました。
幸村の家臣たちがこれを諸国で売り歩きながら徳川家を倒すための情報を集めたと言い伝えられます。
やっぱり九度山の人の一つの誇りであるんかな。
自慢できる話だし。
真田紐あるよっていうんかな。
そういう事やっぱりそれの方がうれしいわね。
(取材者)実際売れ行きは?ぼちぼちというやつやね。
幸村の英雄伝説に満ちた地九度山。
でも現実の幸村にとって九度山は希望を閉ざされた地でした。
幸村不遇の時代の始まりは天下分け目の関ヶ原の戦いです。
それまで10年間国内で大きな合戦はなく34歳の幸村は戦をほとんど経験した事がありません。
二手に分かれて関ヶ原を目指す徳川軍。
幸村は領地の上田で戦の名手である父真田昌幸と共にこれを待ち受けます。
兵が少ない真田軍は上田城に大軍をおびき寄せてはたたき大損害を与えます。
これで…ところが肝心の関ヶ原では徳川方が勝利。
家康は江戸に幕府を開き全国支配を進めます。
家康ににらまれた昌幸・幸村親子はこうして九度山に幽閉される事になったのです。
領地から引き離された真田親子は食い扶持は知り合いに頼るしかありません。
上田にいる幸村の兄に父昌幸が宛てた手紙です。
父上!元は大名であるため庶民と同じ暮らしというわけにはいきません。
家族も多く幸村だけで10人近く子供がいたといいます。
更に家臣が16人。
その家族も入れて50人ほどを養うため真田親子は九度山の人々からもお金の援助を受け続けました。
こうした暮らしは一方で幸村と九度山の人々の間に絆を育んでいきます。
幸村の屋敷から歩いて1時間ほど。
かつて庄屋だったお宅に残る手水鉢は幸村との深いつながりを示す物です。
真田幸村の応援というんですか。
そういうのを多少しとったんですかね。
お礼っていうから何かしたんでしょ。
自慢の品物ですわね。
また幸村と親しかったお寺には幸村が本音を包み隠さず頼み事をする手紙も残っています。
幸村の研究をする橋場日月さんは真田親子が九度山の人々から意外な期待を集めていたと考えています。
九度山のある紀伊国がそれまで織田信長や豊臣秀吉などの支配者に抵抗を続けてきた土地柄である事に橋場さんは注目します。
かつて権力者に対して刃向かい続けてきた人々が多い土地柄っていう所に関ヶ原で徳川軍をはねつけたはねのけた撃退した上田城の戦いのヒーローがやって来たわけですから尊敬の念というのは非常にあったと思いますから非常に大きいつながり絆っていうものが出来上がっていったんじゃないかなと思いますけどもね。
しかし10年を超える長き年月は幸村を追い詰めます。
幽閉11年目。
かつて戦場で名をはせた父昌幸が65歳で亡くなります。
幸村も既に45歳。
戦乱の世はもはや遠く大名として復帰するめども全く立っていません。
幸村からふるさとへの手紙です。
ところが幽閉14年目幸村の運命を開く知らせがもたらされます。
このころ大坂の豊臣家は江戸で天下を治める徳川家康との戦いを決意。
共に徳川に刃向かう武将を全国に募っていました。
再び戦国武将として立つ千載一遇の機会を前に幸村は九度山脱出を試みます。
しかし大坂に行くには徳川方の領地をくぐり抜けて行かなければなりません。
この時使ったのがあの大坂へと通じる抜け穴?いえいえ。
実はこれ古墳の石室です。
後の世に幸村の人気が高まる中で地下へと通じる穴に伝説の尾ひれが付いたのでしょう。
幸村脱出を巡る九度山の人々の言葉です。
「我は子を供に参らせん。
あるいは甥あるいは兄弟など言いて真田に付く者40人ばかり」。
どうやら幸村に付き従った九度山の人々の手助けによって大坂へ向かう事ができたというのが真相のようです。
働き盛りに活躍を封じられた幸村は苦しい時に結ばれた絆を胸に英雄への道を歩み始めました。
真田幸村を描いた物語で大正時代から子供たちに大人気だったのが「真田十勇士」。
九度山に幽閉された幸村が猿飛佐助や霧隠才蔵たち10人の忍者や豪傑に指令を出し徳川を倒そうと活躍するというお話です。
そもそも十勇士たちの多くは最初幸村の部下ではありませんでした。
武士や忍者海賊までバラバラの個性を持った実力者たちをどうやって幸村は従えたのでしょう?例えば猿飛佐助の場合。
ある日幸村たちは山の中で出会った佐助や仲間の猿と争いになってしまいます。
幸村の部下を翻弄する佐助たち。
それを笑顔で見ていた幸村は突然猿に向かって一喝!猿を平伏させてしまいます。
その上で佐助の実力を認め仲間になるように誘うのです。
こうした落ち着きや気迫そして度量の広さといった人間的な魅力で幸村は癖のある勇士たちをまとめていきます。
幸村の九度山の人々に対する誠実な接し方やいざとなると何か大きな事をやるかもしれないと期待された姿が物語の世界でも「みんなをまとめるリーダー幸村」というイメージを作り上げていったのかもしれませんね。
名古屋市にある熱田神宮。
かつて大勢の武士が戦いに勝つための祈願をした神社です。
ここに幸村のような戦国の気風を持つ者の心情がうかがえる刀が奉納されています。
刻まれた文字は…20代で長生きしすぎというのは当時の戦国武士たちの共通した思いでした。
太く短く生きたい。
そんな彼らは大坂の陣でどんな戦いを繰り広げたのでしょう?大きな煙管。
長い刀。
奇抜な衣装を着た「傾奇者」と呼ばれる武士たちです。
乱世を生きがいとしてきた武士たちは戦のない時代への鬱憤を晴らすように「傾く」つまり自由奔放目立つように振る舞いました。
また江戸時代の初めには徳川家康の意向で大勢の大名たちが取りつぶされ職を失った武士牢人たちは50万もいたと言われます。
そんな徳川による新たな時代に不満を抱く武士たちの間で流行した言葉。
それが「生き過ぎたりや廿と幾つ」です。
こと武士に関する限りアイデンティティーの持ち方というのは…そういうのが武士としての根幹にある考え方なんですね。
自分の命と名誉って言いますかそれを天秤にかけた時にむしろ名誉の方が大きいと思うのがかつての武士であって戦いが無くなったのにまだ自分は生きていると。
そういう事では武士として立派な事ではない。
そういう考え方だと思いますね。
慶長19年10月豊臣家の当主秀頼を攻めるため徳川家康の大軍が大坂に迫りつつありました。
一方幸村たち豊臣方の武将たちにとって関ヶ原以来14年ぶりの大戦は名を上げる絶好の機会でした。
しかも大坂城は四重の堀で町ごと囲い込んだ巨大な要塞です。
ここで徳川の軍勢を打ち破れば世の風向きは豊臣方に変わるかもしれません。
慶長19年11月大坂冬の陣の火蓋が切られます。
攻め込む徳川方20万に迎え撃つ豊臣方は10万。
牢人たちは水を得た魚のように戦場を駆け巡ります。
中でも自分の名を上げるための戦いぶりで大いに目立ったのが塙団右衛門です。
塙は大坂城を囲む徳川の陣に夜討ちをかけ慌てふためく徳川勢を100人以上討ち取ります。
そしてその去り際塙はこんな木札をばらまきました。
「夜討ちの大将塙団右衛門」。
しかしこうした個人のスタンドプレーばかりでは徳川方に大きな打撃を加える事はできません。
そんな中幸村は戦上手の真田家ならではの戦いぶりを発揮します。
その名残として今に残るのが大阪城の南にある小学校。
校章の一部に六文銭を使っています。
ここ真田山小学校は大坂冬の陣で幸村が築いた砦真田丸があったとされる高台に建てられています。
幸村が真田丸を築いたのは大坂城の最南端四重の堀の更に外側です。
徳川の攻撃に対してまさに身をさらす位置です。
ここを守る兵はおよそ5千。
そこに6倍3万とも言われる徳川の主力部隊が押し寄せました。
幸村は真田丸から僅かな兵を出しては徳川方に鉄砲を撃ちかけます。
これに徳川方が攻め寄せると兵を引き上げ砦から罵声を浴びせます。
挑発に業を煮やした徳川軍が一気に真田丸に攻め込むと…。
幸村は真田丸から一斉に集中砲火を浴びせます。
敵をおびき寄せてたたく真田家得意の戦術です。
「徳川方の死者その数を知らず」。
やがて本格的な開戦からひと月後徳川と豊臣の間で和睦が成立します。
幸村たちは大坂城を守り徳川に対して一矢報いる事ができました。
「20代で生き過ぎ」どころか48まで生きていたからこそ幸村は名を上げる事ができたのです。
幸村たちの時代の少し前戦国真っ盛りの頃の武士たちを表す言葉にこのようなものがあります。
自分の腕のみを信じて生きてきた兵たちが…でもこれが徳川の世になると変わってしまいます。
例えば先ほど登場した塙団右衛門の場合こんな事がありました。
塙はもともとは徳川方の武将に仕える身でした。
ところが主君に評価されず対立。
塙は主君のもとを飛び出し別の家に仕えようとします。
ここで彼を襲ったのが「奉公構え」という慣習です。
新しく仕えようと思っていた家に前の主君が塙を雇わないようにと手紙を回したのです。
まるで見せしめのような慣習を行う事で家臣たちが離れていかないようにする手立てでした。
おかげで塙はどこへ行っても仕官を断られてしまい托鉢僧などをしながら大坂城に流れ着く事になったと伝えられています。
戦乱の世を自分の腕頼みでの出世を目指してきた武士たちからすれば何とも夢のない世の中になったものです。
大坂城に集まってきた人たちにとって…真田幸村が大坂冬の陣で身に着けたと伝わる鎧です。
その色は全体的に地味なもの。
実用性優先のようです。
一方こちらは大坂夏の陣。
幸村の軍はこう例えられました。
「躑躅の花盛んに開くが如し」。
幸村は皆に赤い鎧を着させて決戦に臨んでいました。
幸村軍おそろいの赤備。
そこには戦国の世に武士の命を見事花咲かせようとした幸村決死の覚悟が込められていました。
大坂冬の陣の戦いぶりで一躍名を上げた幸村は戦いの後姉に手紙をしたためています。
ところが徳川との和睦は豊臣方を窮地に陥らせます。
和睦の証しとして大坂城の堀が埋められ幸村の真田丸も破壊されたのです。
幸村の手紙は僅か半月ほどの間に調子がガラリと変わります。
「堀が埋められ裸同然の大坂城に居ても死ぬだけだ」。
牢人たちの多くは豊臣を見捨てて立ち去ります。
幸村も徳川方から大坂城を離れて味方するよう誘われました。
一説には家康から10万石を与えると声がかかったとも言われます。
しかし幸村はこれを断ります。
宿敵徳川の下で身の安泰を図るより戦いの中で自分の名誉を残す道を選んだのです。
幸村は大坂の陣で自分の配下の牢人たちの装備に大きく手を加えています。
それが赤。
普通は地味な色が多い中鎧兜はもちろん旗や馬具まで目立つ赤で統一する赤備です。
赤い色の原料は辰砂という水銀と硫黄の化合物の鉱石です。
これを漆と混ぜて釉薬を作り鎧の表面を赤く染めるのです。
大量入手が難しく加工も手間がかかるため数千人を赤備にするには費用と労力が膨大にかかります。
それでもなぜ幸村は赤備にこだわったのか?鎧兜の研究家井伊達夫さんは推測します。
赤備というのはまず誉れの色勇者の色であると。
本来バラバラの牢人であったのが一体感を与えるね。
みんなの。
ひと言で言えば死に花を咲かせるためですわ。
赤にすればひときわ目立ちますわね。
そうすると最後の男を咲かせる事ができると。
そういう考えで赤にしたのだと思います。
後の世まで語り継がれるような真っ赤な大輪の花を戦場で咲かせてみせる。
牢人たちはそんな思いで幸村の下結束を固めます。
慶長20年4月再び戦いが始まりました。
大坂夏の陣です。
大坂南部から迫る徳川方15万。
一方城の守りを当てにできない豊臣方数万は少しでも遠くで食い止めようと10km以上先まで打って出ます。
そんな豊臣方を苦しめたのは東北の雄独眼竜伊達政宗でした。
1万以上の兵に…そこに現れたのが戦場に咲いた赤つつじ幸村の部隊3,000です。
幸村は押し寄せる大軍をギリギリまで引き寄せてたたく得意の戦法で伊達軍を1km近く押し返します。
この時幸村たちが掲げた旗が地元の神社に奉納されています。
2つの穴は伊達軍の銃弾が貫いた跡と伝えられます。
激しい銃撃に立ち向かう幸村たちの姿がうかがえます。
伊達軍との戦いを有利に進めた幸村ですが豊臣方の部隊が各地で敗れたため後退せざるをえなくなります。
追い打ちをかける絶好の機会に徳川方は及び腰です。
これを見た幸村は叫びます。
戦国武士たちの思いの丈を戦場に響かせ幸村軍は悠々と引き揚げました。
このころ決戦を前にした幸村の思いをうかがわせる逸話が残っています。
徳川方伊達政宗の側近の陣地に若い娘が送られてきました。
幸村の娘阿梅です。
九度山を離れてもそばに居させ続けた最愛の娘の命を救うため好敵手政宗のもとに預けたと言われています。
幸村は覚悟を固めました。
5月7日早朝。
幸村は大坂城から僅か3km天王寺の茶臼山に陣を構えました。
豊臣方はこの周辺に兵力を結集し3倍以上の徳川軍に向き合います。
その厚い守りの奥には総大将徳川家康の本陣。
豊臣方はこの家康に狙いを絞ります。
その策は幸村たちが敵の主力を正面から迎え撃ち引きつけている間に徳川方の背後に回り込んだ部隊が家康の本陣を襲うというものでした。
ところが正午過ぎ徳川方が動きだすやいなや焦った豊臣方の部隊が攻撃を始めてしまいます。
徳川方の主力を引きつける間もなく乱戦となり別動隊が家康に迫る事ができなくなりました。
これを見た幸村は駆け出します。
自らの軍勢3,000で家康の本陣を目指し突撃を始めたのです。
一丸となって突き進む赤備軍団。
次々と立ちはだかる徳川方に幸村たちは突撃を繰り返しては道を切り開いていきます。
3回目の突撃でついに家康の間近に迫った幸村。
家康は後ろに逃げながら切腹を覚悟したとも伝えられます。
家康まであと僅か。
行く手を徳川方の援軍に阻まれます。
兵の多くを失った幸村は最初の陣地茶臼山に程近い安居神社まで押し戻されました。
ここにあった松の木にもたれかかるほど幸村は全てを出し尽くしていたと伝えられます。
九度山でのくすぶっていた14年から一転最後の7か月で命を激しく燃やした真田幸村。
動かぬ体で最期まで槍を振るい続けそして敵の前に力尽きました。
その日の夕方大坂城は陥落し徳川の世は盤石なものへと向かいます。
戦国武士たちの時代は終わりを告げたのです。
大坂夏の陣が終わった後敵対した徳川方の武将たちからも幸村をたたえる声があがりました。
戦いに敗れた敵幸村を彼らはまるで勝者のように見ていました。
そして京都ではこんな童歌がはやったといいます。
こうした幸村の生存伝説は南は鹿児島から北は秋田まで全国に残されています。
その後も江戸時代の人々が幸村に憧れ続けたと分かるものが子孫の家に残っています。
これは幸村の使ったと言われる采配です。
その先端部分ふさの紙が根元からかなり破かれているのがお分かりでしょうか。
幕末に致死率8割とも言われた伝染病コレラに効くという噂を信じた人々が破り取り煎じて飲んでしまったんだそうです。
幸村は自分の名が人々の記憶に残るどころかこんな神頼みにまで至ったと知ったら一体どんな顔をするのでしょうね。
今日は最後にもう一つ。
大坂夏の陣で別れた幸村の子供たちその後一体どうなったのでしょうか。
英雄の子孫をめぐる秘話をどうぞ。
伊達政宗の側近片倉小十郎の所領だった宮城県白石。
町の中心部にある当信寺の紋所は六文銭。
ここは幸村が伊達に託しのち片倉小十郎の妻となった阿梅ゆかりの寺です。
本尊は幸村戦死の地大坂・天王寺から運ばれたものです。
幸村は徳川幕府の敵と見なされた時代阿梅はここで父の菩提を弔い続けました。
境内には阿梅の墓があります。
元は観音像が彫られていましたがあやかろうとする人々に削り取られてしまいました。
阿梅は78年の生涯の最期に夫片倉家の菩提寺ではなく父幸村を弔ったこの寺に他のきょうだいと共に葬られました。
正々堂々と真田の娘だという事を自覚して生きたんじゃないかなと。
特に真田幸村の娘…じゃなかったかなというのはやっぱり思った事をやる。
気兼ねなくやったという確固たる信念を持った女性じゃなかったかなって気がしますね。
大阪・平野区志紀長吉神社。
伊達政宗との戦いの後銃弾で穴のあいた六文銭の旗が奉納された神社です。
ここで幸村が戦勝祈願をした事から江戸時代以来勝利のご利益があると言われています。
六文銭は全てに死ぬ気で臨む覚悟の印。
そんな生き方で後世に名を残した幸村に人は勝者の伝説を夢みたのです。
不遇の時代をバネに最後の戦国武将の花を咲かせた幸村の雄姿は今も不滅の輝きを放ち続けています。
2016/01/03(日) 00:47〜01:30
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「真田幸村 ザ・ラスト戦国ヒーロー」[字][再]
いま絶大な人気を誇る戦国武将・真田幸村。物語の中の幸村像と、働き盛りに幽閉され大坂の陣で驚異的な活躍をした現実の幸村の姿から、最後の戦国ヒーローの実像を描く。
詳細情報
番組内容
【1月6日(水)午後10:00 歴史秘話ヒストリア スペシャル「徹底解明!これが真田丸だ〜地中に残された幻の城〜」放送決定!】
キーワード1
真田幸村
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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