歴史秘話ヒストリア「激突!真田幸村VS伊達政宗」 2016.01.03


熱き思いを胸に総力を挙げておくる大河ドラマ「真田丸」。
お見逃しなく!ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
新しい年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて今日の主人公は新春にふさわしい華やかなヒーロー。
戦国武将のこの2人です。
片や天下人徳川家康を追い詰め日本一の兵と呼ばれた真田信繁ご存じ幸村。
片や独特のアイデアと実行力で徳川と渡り合い仙台繁栄の礎を築いた独眼竜伊達政宗。
実はこの2人一説には共に永禄10年1567年生まれの同い年とも言われております。
でも同じ時代を生きた2人の人生は甲冑の色が示すように正に対照的なものでした。
赤と黒の男たちただ一度きりの直接対決に秘められた物語です。
歴史…それは絶え間なく流れる大きな河。
その中のキラキラした一滴を「秘話」と呼びます。
漆黒の鎧は生き抜く決意。
独眼竜伊達政宗。
奇抜な衣装派手なパフォーマンス。
自らの国を守るため天下人との丁々発止の頭脳戦に挑みます。
真っ赤な鎧は戦場の華。
勇者真田幸村。
14年に及ぶ不遇の幽閉生活。
耐えに耐えた幸村は武将が命を燃やす場所戦場へと向かいます。
異なる道を歩んできた2人が巡り合ったのは大坂夏の陣。
大坂城に迫る伊達軍を猛然と押し返す真田軍!東北に今も残る幸村の娘の墓。
敵である政宗の土地に一体なぜ?2人の秘められた絆の物語を解き明かします。
別々の定めを生きながらほんの一瞬運命が交わった2人の武将。
心揺さぶる魂の激突をご覧下さい。
金色に輝く月形の前立。
黒一色に塗り上げられた胴。
伊達政宗を象徴する甲冑…仙台にある大きな騎馬像も江戸時代に作られた木像もみんなこの甲冑を着けています。
この甲冑には独眼竜として戦乱の世を生き抜く政宗の強い決意が込められていました。
若き日は武力で。
そして成長してからは駆け引きで。
激動の時代に民と領地を守り抜こうとした政宗の生き残り人生を見ていきましょう。
戦国時代の後半政宗は東北の名門伊達家の跡取りとして生まれました。
5歳の時政宗は大きな災いに見舞われます。
重い病にかかり右目を失明してしまったのです。
自分の容姿に劣等感を持ち心を閉ざしていた幼い政宗。
そんな彼が心を開くきっかけはある人物について学んだ事ではないかと専門家は推測します。
李克用は1,100年前の中国唐の時代に活躍した武将です。
唐王朝を滅亡の危機から救おうと戦いました。
真っ黒な鎧に身を包んだ李克用の軍勢は連戦連勝。
その強さで中国全土に名をはせます。
李克用は片方の目が不自由でした。
その彼を人々は畏敬の念を込めてこう呼びました。
一つ眼の竜「独眼竜」。
独眼竜…。
同じハンディをものともせず天下を動かした英雄に自らの行く道を重ねた政宗。
小十郎この隻眼突き潰してはくれぬか。
何と守り役だった片倉小十郎景綱に右の目玉を刀で取り去るよう命じたのです。
「俺はハンディに負けず強く生きる!」。
10歳に満たない政宗の壮絶な決意でした。
小十郎やれ!ごめん!ぐぁっ!独眼竜伊達政宗はこうして誕生しました。
やがて18歳で家督を継いだ政宗は周囲の大名を次々に攻略。
勢力を拡大します。
伊達の軍勢がまとったのは真っ黒な甲冑。
幼い政宗に勇気を与えた元祖独眼竜李克用。
その黒い軍団にちなんだものと言われています。
そして天正17年。
政宗は最大のライバル会津の蘆名氏を滅ぼします。
23歳の若さで東北の南部をほぼ手中にし114万石を束ねる有数の戦国大名になったのです。
夢は東北全土の制覇そして全国へ。
若き政宗の野望は燃え上がります。
しかし政宗の前に大きな壁が立ちはだかりました。
既に天下統一を目前とした豊臣秀吉です。
全国の大名を従わせようとする秀吉はいまだ勢力拡大の野望をあらわにする政宗に激怒します。
やがてその秀吉から政宗に命令が下されます。
「小田原の北条氏との戦いに参加せよ。
従うかさもなくば…」。
秀吉から政宗への最後通告でした。
この時点で有力大名は政宗と北条以外ほぼ全員が秀吉に従っていました。
もはや天下の行方は決まったも同然。
自分や家臣の命そして領地を守るためには秀吉に従うしかないのか…。
悩んでいる間に政宗は小田原への出発が遅れます。
ようやく到着した頃には戦いはほとんど終わっていました。
秀吉の命令を軽んじたと思われたら命が危ない!政宗は秀吉と初めて対面するにあたり大勝負に出ます。
伊達藤次郎政宗参上仕りました。
なんと政宗は切腹の時の白装束で現れました。
自分は秀吉に命を預けます。
その決意を身なりで示したのです。
秀吉の出方によっては本当に殺されてしまうかもしれない危険な賭け。
しかしこの一世一代のパフォーマンスは秀吉の心をつかみます。
政宗はギリギリのところで自分や家臣の命と伊達の家を守る事ができたのです。
やがて秀吉が亡くなると政宗は新たに天下の実権を握った徳川家康に従うようになります。
このころから政宗は勢力拡大ではなく自分の領地仙台を豊かにする事に力を注ぐようになります。
「これからは軍事力より経済力だ!」。
そう考えた政宗は大規模な水田開発を計画します。
その第一歩として仙台の北を流れる北上川の改修工事に取りかかりました。
それまで北上川は度々氾濫を起こし流域には荒れ地が広がっていました。
政宗は7kmに及ぶ巨大な堤防を築き北上川の流れを制御する事に挑みます。
荒れ地を水田に変える大事業がスタートしました。
しかし東北の大大名伊達政宗は江戸の徳川幕府にとって身近な脅威にもなる存在です。
謀反のうわさを流されるなど幕府に執拗に牽制されます。
何とか幕府の警戒を解けないものか。
政宗が編み出した作戦は…。
ハハハハハハハ!遊びです。
例えば京の都で評判だった遊女たちの踊り女歌舞伎の一団を仙台へ呼び寄せて大規模な興業を行うなど大はしゃぎ。
また政宗はこのころから頻繁に狩りや川の漁に出かけるようになります。
今で言うとゴルフを楽しむような感覚でしょうか。
記録によると多い時には週に3回も狩りにいくほどの熱の入れようでした。
遊びや趣味へのめり込むほうけた姿を見せる事で天下への野心や幕府への反抗心がない事を示そうとしたのです。
この話を聞いた家康は大変機嫌がよくなり喜んだと記録は伝えています。
更に政宗は徳川の将軍や側室側近の老中などへも贈り物攻勢をかけます。
卵たっぷりの鮭を塩漬けにした名産の塩引き。
更には政宗自ら鉄砲でしとめた鳥。
極め付きはオットセイのタタキ。
三陸沖で取れるオットセイの肉を麹と塩で漬けたものは珍味として大変喜ばれました。
こうした細心の注意で外交を行いながら政宗は領内の新田開発を進めていきました。
やがて仙台藩は日本有数の米どころへと成長していきます。
いかなる手段を用いても守るべきものを守り抜く。
それが戦なき世を生き抜く伊達政宗の決意だったのです。
伊達政宗のような大名は戦国の世が終わっても家や領地を守るための戦いを懸命に続けなければなりません。
でも戦乱が遠ざかる中別の思いの武士たちも大勢いました。
当時の絵に描かれた武士です。
刀の鞘に文字が書かれています。
「23歳で長く生きすぎた」なんて驚きですよね。
戦いで名を上げ名誉を得るため命を惜しまないのが武士のあるべき姿。
でも徳川の世になり戦がなくなった今になっても生き延びているのは恥ずかしい事だ。
この「いきすぎたりや」はそんな思いを表す言葉として戦国時代の終わりから江戸の初めにかけて流行しました。
そんな武士たちの代表格とも言えるのが今日のもう一人の主人公真田幸村です。
真田幸村の軍勢が身を包んだと伝えられる赤い軍装。
その姿は「つつじの花盛んに開くがごとし」と称されました。
戦場でひときわ目立つ真紅の鎧は死をも恐れず戦い抜く覚悟の証し。
しかしそれを身につける直前まで幸村は働き盛りに戦う機会を奪われ長い長い不遇の時代を過ごさなければなりませんでした。
幸村の不遇の始まり。
それは慶長5年天下分け目の…国内で10年ぶりの大戦はそれまでほとんど実戦を経験していない34歳の幸村をも巻き込みます。
二手に分かれて西へ向かう徳川軍。
幸村は領地の上田で戦の名手である父真田昌幸とともにこの一方を待ち受けました。
徳川2代目秀忠の軍は3万8,000。
対する真田軍は僅か3,000。
まともにぶつかればひとたまりもありません。
そこで真田軍は少数の兵で少し戦っては引き巧みに敵をおびき寄せます。
上田城まで引き寄せたところで…。
一気に反撃!更に混乱する徳川軍を隠れていた部隊で強襲するなど大損害を与えます。
この戦いで…ところが肝心の関ヶ原では幸村たちが味方した西軍は徳川家康が率いる東軍に敗北してしまいます。
家康は江戸に幕府を開き徳川の時代が幕を開けました。
上田の戦いで徳川を痛めつけた昌幸幸村親子は家康に憎まれ紀州九度山に幽閉される事になったのです。
真田親子は家族ともども厳しい暮らしに追いやられます。
父上。
30代半ばの幸村は幼い子供を多く抱えていました。
しかし幽閉された身では家族を食べさせるのも楽ではありません。
家臣やその家族を含め数十人を養うため真田親子は親戚から九度山の人々にまで援助を求めなければなりませんでした。
幸村と親しかったお寺には幸村が本音を包み隠さず頼み事をする手紙が残っています。
やがて10年を超える幽閉生活は次第に幸村を追い詰めていきます。
11年目には戦場で名をはせた父昌幸が亡くなりました。
幸村もすでに45歳。
戦乱の世はもはや遠く大名として復帰できる目処も立ちません。
幸村が故郷に宛てた手紙です。
ところが幽閉14年目。
幸村の運命を開く知らせがもたらされます。
豊臣家は難攻不落の巨大な大坂城を擁しいまだ徳川に対抗しうる唯一の存在です。
江戸幕府に不満を持つ武士たちが豊臣のもとで戦えば徳川を打ち負かす事ができるかもしれません。
再び戦国武将として立つ千載一遇のチャンスに幸村は豊臣方につく事を決意します。
大坂城に入った幸村は徳川軍を迎え撃つ準備にかかりました。
大坂城の最南端4重の堀の外側に砦を築きます。
通称真田丸。
敵の攻撃に身をさらすこの場所で徳川を迎え撃とうというのです。
慶長19年11月。
徳川の大軍が豊臣を討とうと進軍してきました。
大坂冬の陣の始まりです。
20万の徳川方に対し迎え撃つ豊臣方は10万。
戦意旺盛な豊臣方は大軍相手に奮戦します。
そんな中幸村は真田丸で父譲りの戦上手ぶりを発揮しました。
真田丸を守る兵はおよそ5,000。
そこに6倍3万とも言われる徳川の主力部隊が押し寄せます。
幸村は砦から僅かな兵を出して徳川方に鉄砲を撃ちかけます。
これに徳川方が攻め寄せると兵を引き揚げ砦から罵声を浴びせます。
挑発に業を煮やした徳川軍が真田丸に攻め寄せてくると…。
(銃声)幸村は真田丸から一斉に集中砲火を浴びせます。
「徳川方の死者その数を知らず」。
討ち死にした徳川勢の8割が真田丸の戦いでのものだとも言われます。
やがて本格的な開戦から1か月。
徳川と豊臣の間で停戦が成立します。
幸村たちは大坂城を守り抜き徳川に一矢報いる事ができました。
長い不遇の時代を経ても武将としての生き方を忘れなかった幸村。
48歳にしてついに名誉を取り戻す事ができたのです。
真田幸村が一躍名を上げた大坂冬の陣。
ところでこの時伊達政宗はどうしていたのでしょう?それをうかがわせるのがこちら。
大坂冬の陣を描いた屏風です。
画面の左上これが幸村の砦真田丸の辺りです。
幸村たちと幕府軍の激しい攻防が描かれていますね。
一方画面のず〜っと右下の方こちらが伊達の軍勢です。
場所も大坂城から離れていますし馬も人も城とは反対の方向を向いています。
おや?こちらではお餅を売る人と言い争いをしているようです。
緊張感や戦意がどうも感じられませんね。
実は政宗は1万8,000とも言われる大軍を率いて戦いに参加しているにもかかわらずこれといった戦果をあげていないのです。
そもそも…幕府の命令だから出陣はするけどにらまれない程度に戦い被害は最小限にと考えていたとも言われます。
この戦いに武士としての名誉を懸けていた幸村とは正反対の立場だったんですね。
しかしそんな2人の運命がついに交わる瞬間がやって来ます。
それは終わりゆく乱世の最後に激しく燃える一瞬の炎でした。
伊達政宗の側近片倉小十郎の所領だった宮城県白石。
町の中心部にある当信寺。
このお寺には真田幸村ゆかりの意外なものが残されています。
それがこちら。
幸村の娘阿梅の墓です。
真田家はもともと信州の出。
東北宮城とは本来縁がないはずです。
そのうえ徳川の天敵真田は徳川方の大大名伊達にとっては敵のはず。
それなのになぜでしょう?そこには共に天下人徳川家康と対峙しながら異なる道を歩んできた2人の最初で最後の激突があったのです。
幸村の活躍もありひと月ほどで停戦に至った大坂冬の陣。
しかし停戦の条件は豊臣方を窮地に追い込むものでした。
裸同然の城では再び徳川が攻めてきたら命はない。
多くの武士たちが豊臣を見捨てて立ち去りました。
このころ徳川方は目の敵にしていた幸村に大坂城を離れて味方するよう誘いをかけています。
一説には家康から10万石を与えると声がかかったとも言われます。
しかし幸村はこれを断ります。
宿敵徳川のもとで身の安泰を図るより武将として名誉を残す道を選んだのです。
幸村は大坂の陣で自分が指揮する部隊の装備に大きく手を加えています。
それが赤備。
鎧兜はもちろん旗や馬具まで戦場でひときわ目立つ赤に統一したのです。
「戦場に後の世まで語り継がれる真っ赤な大輪の花を咲かせてみせる」。
赤備にはそんな幸村の決死の覚悟が込められていました。
冬の陣終結から僅か4か月。
伊達政宗ら全国の大名に幕府から再び出陣が命じられます。
豊臣家を滅ぼすための戦大坂夏の陣です。
京都付近に集結した徳川方はそこから二手に分かれて大坂を目指しました。
河内方面からは家康率いる主力部隊12万。
大和方面からは政宗の軍勢1万を含む3万5,000の部隊です。
一方幸村たち豊臣方もこの動きを察知。
政宗たちを迎え撃とうと大坂城から10kmほど南へ軍を進めます。
政宗の軍勢は豊臣方と戦いを始めました。
大量の鉄砲を備えた伊達の部隊は豊臣方の部隊を次々に打ち破ります。
かつて東北を席巻した黒い軍団は久しぶりに解き放たれた戦場で実力をいかんなく発揮します。
快進撃を続ける政宗の軍勢このまま一気に大坂城へ。
そこに立ちふさがったのが決死の赤備に身を包んだ幸村の部隊3,000でした。
伊達政宗と真田幸村。
共に戦国の世に遅れてきた2人の最初で最後の激突が始まります。
幸村たちに攻め込む黒い軍団。
先鋒は片倉小十郎重綱。
激しい攻撃で幸村勢に多くの死傷者が出ます。
しかし幸村は部隊を引きません。
銃弾の雨の中兵にじっと身を伏せて待ち受けさせます。
そして伊達勢が目前まで迫ったところで…。
かかれ〜!
(銃声)一気に反撃。
突然の攻撃に動揺する伊達軍。
そこに真田は騎馬隊で攻め込みます。
上田城や真田丸で大戦果をあげた敵を引き込んで叩く真田家得意の戦法です。
幸村は快進撃を続けてきた政宗の軍勢を1km近く押し返し徳川方の進攻を食い止める事に成功しました。
この戦いで幸村たちが掲げた旗が地元の神社に奉納されています。
2つの穴は政宗方の銃弾が貫いた跡と伝えられます。
両者の戦いの激しさがうかがえます。
思わぬ反撃に部隊を下げた政宗ですが主力はいまだ健在。
すぐに態勢を立て直します。
幸村も一旦引いて味方の部隊と合流。
やがて再びの激突へ…。
(ほら貝)ところが戦いは思わぬ形で終わりを告げます。
豊臣方の部隊が各地で敗れたため幸村たちも撤退して軍を立て直す事になったのです。
追い打ちをかける絶好の機会に動かない徳川方。
これを見た幸村は叫びます。
(真田軍)ウォーッ!ウォーッ!この時…政宗は強敵と認めた幸村を後ろから攻める事を避けたのです。
このころ伊達軍の先鋒だった片倉小十郎重綱の陣地に若い娘が送られてきました。
幸村の娘阿梅です。
伊達なら最愛の娘の命を託すにふさわしい。
幸村は徳川と対峙しながら生き残る政宗の実力を認めたのかもしれません。
政宗との激戦の翌日。
最後の決戦に臨んだ幸村は自らの軍勢3,000を率いて家康の本陣を目指し突撃します。
すさまじい戦いぶりで幸村は家康の間近にまで迫りました。
しかし大軍で押し寄せる徳川方の前についに力尽きます。
身にまとう鎧の色にふさわしく戦国武将としての命を燃やし尽くした最期でした。
別の方面で徳川方の一員として戦っていた政宗は幸村の壮絶な死にざまをどう受け止めたのでしょう。
この日の夕方大坂城は陥落。
戦国武将たちの時代は終わり徳川の世は揺るぎないものとなります。
その後幸村が政宗に託した娘阿梅は無事仙台藩まで送り届けられました。
阿梅が移り住んだのは伊達家の重臣片倉家の城があった宮城県白石。
阿梅はやがて片倉小十郎重綱の妻に迎えられます。
そして東北の地で徳川の世を生き抜きました。
守るべきもののために戦い続けた伊達政宗。
彼は好敵手真田幸村が最期に託したものを確かに守り抜いたのです。
大坂夏の陣の後真田幸村の戦いぶりは徳川方の武将をも敬服させ日本一の兵とたたえられました。
また京都ではこんなわらべ歌がはやったといいます。
こうした幸村に生き延びていてほしいという民衆の願いを示す伝説は全国に残されています。
武将として名を残したいという幸村の思いは見事にかなえられたのです。
一方の伊達政宗は大坂夏の陣の翌年死を間近にした徳川家康の枕元でこのような遺言を託されます。
家康が政宗の存在をどれほど重要視していたかがうかがえます。
その後政宗は戦国の世を生き抜いた数少ない大物大名として幕府の中で大きな存在感を示すようになっていったのです。
同じ世代ながら全く異なる生き方をしどちらも絶大に支持されている真田幸村と伊達政宗。
最後はそんな2人が現代にまで残した生きた証しの秘話をどうぞ。
大坂の陣の後政宗は領地である仙台藩を守る事に力を注ぎます。
政宗は仙台を幕府にとって必要不可欠な存在にする事で藩の未来を確かなものにしたのです。
政宗が築いた仙台は今人口100万を超え東北随一の都市として繁栄しています。
大阪市の志紀長吉神社。
政宗との戦いの後銃弾で穴のあいた真田軍の旗が奉納された神社です。
命を懸けて己の誇りを貫いた幸村の姿に人々は今も夢を託しているのです。
不遇の時代をバネに最後に戦国武将の花を咲かせた真田幸村。
守るべきもののため知略を尽くして生き抜いた伊達政宗。
時代のうねりにそれぞれの戦い方で立ち向かった2人の名将。
その姿は400年の時を超え今も私たちの心を捉え続けています。
2016/01/03(日) 01:40〜02:23
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「激突!真田幸村VS伊達政宗」[字][再]

黒き独眼竜・伊達政宗。赤き“徳川の天敵”真田幸村。同年代の戦国ヒーローが、ただ一度だけ激突した決戦の行方は?対照的な生き方をした英雄2人の、戦いと絆の物語。

詳細情報
番組内容
【1月6日(水)午後10:00 歴史秘話ヒストリア スペシャル「徹底解明!これが真田丸だ〜地中に残された幻の城〜」放送決定!】
キーワード1
真田幸村
キーワード2
伊達政宗

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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