新春スペシャルドラマ 百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜 2016.01.03


フランスの都パリ
市街を見下ろすエッフェル塔が完成したのは
明治22年
今から127年前のことである
土台以外石材を一切使わず
鉄骨を組み上げて
当時世界最高の
312メートルの高さを実現した
完成したばかりのエッフェル塔を
一人の日本人実業家が
大きな志を持って見上げていた
今に続く住友グループの初代総理事
広瀬宰平である
空前の活況を呼んだパリ万博
エッフェル塔の横には
同じく鉄骨造りの機械館があった
奥行き400メートルの館内に
欧米の進んだ先端機械がずらりと並んだ
中でも注目の的はこのマンモスランプ
1万個の電球で館内を照らした
発案者はあの発明王エジソン
パリ万博はまさしく
電気と鉄の時代の到来を宣言していた
広瀬宰平は
目の前に厳しくそびえる西洋の壁に
打ち震えていた
(広瀬)はあ…
11歳から丁稚として
別子の山で働き始めた広瀬宰平は
長じて37歳で別子銅山のトップ
支配人の座に上り詰めた
どうだ掘り進められそうか?あああそこはどうにも硬くて歯が立ちませんやしかたないな迂回しよう東側ならもっと掘りやすいはずだちょっとこれ見てくれ
別子の山を隅々まで知り尽くす広瀬を
人々は「別子の申し子」と呼んだ
分かりやした頼むぞへえ
別子銅山は江戸時代初期から
幕府直轄の銅山であった
幕府の財政を大いに潤していた
一貫して
広瀬宰平が現場支配人となったのは
第12代当主のころである
別子から産出された
別子の銅は一時
日本を世界一の銅産出国の座に押し上げた
しかし幕末には
生産コストの激増が重くのしかかり
その大きな原因の一つは
坑道が深くなりすぎて
旧来の手掘り作業では
効率が著しく低下したことにあった
そんな別子銅山を立て直すため
一人立ち上がったのが
広瀬宰平だった
広瀬宰平が生涯を捧げた別子銅山は
愛媛県新居浜市を見下ろす山の上にある
海抜1200メートルまで続く深い峡谷
険しさを極めるその山で
銅山の申し子広瀬宰平は活躍した
山中に形を残す石積みや
レンガ積みの設備
それらは明治時代以降に設置されたものである
広瀬宰平が銅山の立て直しに失敗していたら
これら設備はなかったかもしれない
地表に口を開ける
地下坑道の入り口は
ここで銅が掘られていたことを
教えてくれる証人である
別子銅山には時代の最先端が導入された
この発電所は今から100年前に
年間400万キロワットアワーの
電気の供給を実現
そしてここからは
瀬戸内の島にも電気が送られた
20キロの長さの海底ケーブルは
当時世界一の長さだった
採掘開始は元禄4年
幕末までは山頂付近を
手掘りで細々と掘っていたが
広瀬宰平による近代化によって
採掘スピードは驚異的な速さになった
戦後坑道は
海面下1000メートルにまで達した
壮大な銅山をつくりあげた広瀬宰平
彼が成し遂げた明治の産業維新とは
一体いかなるものであったのだろうか?
100年の時をへて
明治の産業維新リーダーの姿が
よみがえる
・間もなく発破します!
(爆発音)おお〜ッ・
(部下)危ないです!これだ!これさえあれば掘削が格段に楽になるこれだこれだ!
(通訳)西洋では200年前からこの火薬を使った発破が行われていると言っています教えてくれ!早くこれの使い方を教えてくれ
このとき使用していたのは黒色火薬だ
花火を打ち上げる火薬と同じであり
ヨーロッパでは200年早く鉱山で利用されていた
当時はこれを竹筒に詰めて使った
その翌年広瀬宰平は
別子銅山の坑道内で実用試験を行う
(爆発音)
思えばこの成功が
のちの広瀬の背を押したのかもしれない
そして同じころ
一人の男が使命に燃え
処刑場に向かって駆けていた
(執行官一)それでは刑を執り行う
(伊庭)お待ちください!お待ちください!この処刑はなりません!誰だ名を名乗れ!弾正台の伊庭貞剛です
(執行官二)貴様役人のくせに暗殺者の肩を持つのかッ
この新政府の要人が暗殺されたのだ
我々は刑部省から直接の指示を受け本日の処刑を執行するのだ法と上官の命令とはどちらが上でしょうか?いかなる極悪人であっても法の下で裁くのが近代国家ではありませんか!
正義感あふれるこの男は
広瀬宰平の甥である
どうかこの処刑はおとりやめください!貞剛お前にも見せたかったよ硬い岩盤が爆音とともに一瞬で崩れたのだあの威力が今の西洋の力を物語っているとわしは思うでは別子にも西洋人技師を招くのですか?う〜ん西洋人を雇うということは金がかかるからな今の住友は一銭たりとも無駄ができない時期なのだまあ簡単にはいかぬだろうしかしわしの座右の銘は「命に逆らいて君を利する之を忠という」たとえ国家や主家の命令であってもそれが国家や主家のためにならないならばあえて逆らうことが忠義であるそのとおりだからたとえ反対されても訴え続けるさ今こそ西洋に学ばねばならんとねそういえばお前も「命に逆らいて君を利する」をやったそうじゃないか《法と上官の命令とはどちらが上でしょうか?》《この処刑はおとりやめください!》あれは単に手続き上の間違いを正したまでですよいよいお互い信じる道を大いにやろう話が弾んでるようですね母上叔父さんと私は似ているところがあるのです叔父さんは実業界で私は法の道で畑は違えどともに天下国家のために働いておるのですあなた達は好物まで一緒ですものねおおふな寿司だふな寿司ですねこれこれ姉さんが作ったこれを食べたかったんだうんああ〜うん
そのころ別子銅山の本部は
新居浜の瀬戸内海側ではなく
峠をはさんだ南側にあった
海抜800から1200メートルの谷間に
1000人以上が暮らしていた
広瀬は江戸時代からの抗口のある
この谷間に詰めて全山の指揮を執っていた
苦しい経営にあった明治維新期
広瀬はこれを打開すべく
山麓に新たな精銅場を設置
明治2年には
それまで幕府に納めていた輸出用の精銅は
棒の形に仕上げ
特殊なやり方でバラのような赤色を表面につけていた
ローズ・カッパーと呼ばれたその銅は
遠くヨーロッパまでその美しさが知れ渡っていた
住友では当時
バラ色の銅のつくり方を紹介する冊子を作っていた
棒の形に仕上げるその銅は
棹銅と呼ばれていた
棹銅のバラ色はどうやってできるのだろうか?
図録をもとに再現してもらった
炉の準備ができたら
まだ粗い銅を
木炭で埋め尽くした炉の中に入れる
高温を得るためには大量の木炭を必要とする
のちにこれが別子の大問題になることを
当時は気づいていなかった
温度が1085度になると
銅は溶け始める
さらに焼き続けると完全に液体となり
るつぼの底にたまる
・パンパンか?おいゆっくりかけよもっと早くもっと早く慌てるな慌てるな
溶けた銅を熱湯を入れたおけに流し込む
水蒸気爆発を防ぐためだ
・熱湯もっと入れなあかんお湯が足らん
固まったら塩水の中に移して冷ます
これがバラ色の秘密だった
銅の直接輸出の道は開かれたが別子銅山では
江戸末期以来のある問題が持ち上がっていた
断続的に続く地震の影響から
坑道の最深部で
地下水が激しく湧き出したのである
水抜き作業はすべて人の手で行われた
何百人も坑夫を連ねて
水を抜こうとしたが果たせない
人力の限界であった
今すぐにでも外国人を雇い別子の近代化に着手しなければ住友の将来はありません・
(役員一)そんなことを言っても高い年俸の外国人を雇う余裕はないぞ!
(役員二)そうだ!住友を潰す気か?
広瀬は別子銅山近代化の必要性を訴えたが
その思いは住友の番頭達には届かなかった
住友の新年宴会は
毎年経営の中枢が一堂に会し行われた
別子銅山を経営する住友は
代々の家長がオーナーとして君臨
番頭達は家長に決まり言葉で挨拶をするのが
通例だった
相変わりませずおめでとうございます
(友親)おめでとう相変わりましておめでとうございます!相変わらずでは住友家は潰れます!新年早々何を不吉な!広瀬酔ってるのか!?そうではありません!
(役員三)広瀬さん今日はおめでたい席なのですから皆が集まるこの席だからこそ言うのだ水を差されましたが乾杯をいたしましょうみんな酒はあるかな?どうか!どうかお聞きくださいませ!この激動の世にあって相変わらずではいけません一同相変わって旧を捨て新をとらなければなりません!欧米の技術は日本の100年先をいってますこのままでは日本は欧米の餌食です我々は一刻も早く日本を豊かな強い国にしなくてはいけませんそのためには我々は何をすべきか?銅をもっともっと掘るんです欧米のやり方ならそれが可能なんです私は別子の銅で日本をもっと豊かな国にしたい別子の銅で日本を欧米に負けない強い国にしたい住友のためお国のために今こそ我々は変わらねばなりません!その振る舞いもう許せん!住友のためを思うからこそ申し上げているのだ・
(友親)お待ちなさい私は宰平殿の意見をもっと聞いてみたい
この四年後広瀬宰平は
住友家家長から大任を拝命する
西洋人の雇い入れの重責について
すべての取り仕切りが託されたのである
それは前例のない大抜てきだった
家長が一部でも経営の権限を任すことは
事実上初めてだったのである
そのころの日本は近代化にあたり
すべての面において
お雇い外国人の力添えが欠かせなかった
政府が雇った外国人は
一年に500人を超えたとも言われる
しかしお雇い外国人の報酬は
国の財政さえ傾かせるほど
高額であった
広瀬宰平は考慮の末
月給は600ドル
今で言えば月収6000万円である
明治7年3月に別子に到着した
まずは坑道から案内いたそう
広瀬はラロックの通訳として
外務省から塩野門之助を引き抜いた
初めて見る別子銅山の様子を
ラロックはこう表現した
本部の周辺には一本も木がなく
煙が常に立ち上っていたからだ
その当時地下坑道の長さは
最長で抗口から500メートル
地表からの深さは400メートルになる
これは当時広瀬宰平らが使っていた
測量地図である
安政の大地震のあと
坑道最深部から水をいかに抜くかを算段するため
高松藩の測量方に依頼
作成したものだった
青い部分が水没した場所だ
ルイ・ラロックも坑道を独自に計測し
図面を作ることになる
ラロックが驚いたのは
別子銅山製の測量図が
正確であったことだ
自分が作ったものと
ほとんど誤差がなかったのである
ルイ・ラロックは現場の運営方法には
手厳しい指摘をした
機械化は一切なされておらず
火薬をこめる穴を掘るのは手作業
しかもその坑道の狭さと通気の悪さは
ラロックの考える基準とは大きくかいりしていた
坑道内の明かりは
サザエの殻をつかった螺灯だった
燃料は鯨油である
ラロックは螺灯について…
とその不便さを酷評している
鉱石の運搬作業についても
一言のもとに否定した
掘り出された鉱石は
海抜1200メートルのこの銅山越を越えて
すべて人力で運んでいた
運搬を担う者を「中持」と呼ぶ
中持達は平地まで
12キロの道のりを歩いた
担ぐ鉱石は…
ここから高低差1000メートル以上を下りていく
これは実際に
昔の中持が歩いた道である
道は狭く急な傾斜もあり
危険極まりない
ラロックは中持が頻繁に休息をとりつつ
歩く姿を目撃している
再現はあまりに危険と中断した
馬も牛も使わず
山の運搬を人間だけが担っていた別子銅山
ラロックは絶対にやめるべきだと書き残した
ラロックはこうした状況を変えるべく
改革案の作成に着手する
(塩野)坑道の深さに驚いていますなにせ200年も掘り続けてますからな
(通訳する)私に任せれば増産できると言っています期待してますよ
一年に及ぶ調査後
ラロックは銅山の改革プランを作成し始めた
そのころには彼は
別子銅山にすっかり夢中になっていた
今から140年前にラロックが書いた論文
「別子鉱山目論見書」という近代化の計画書である
600ページ以上あるが
そのポイントは三つあった
それはですね採鉱それから運搬製錬についての近代化計画です
採鉱の近代化は
大きな鉱脈にまっすぐに到達するシャフト
斜めの直線坑道
斜坑を掘ること
馬に引かせる大きな台車を転がせる
車道をつくることさらに…
設計図も残した
ラロックこの目論見書は千金の価値があるあなたにお願いして本当によかったメルシーメルシーボークラロックさんは日本に別子に骨をうずめる覚悟です
(フランス語で話す)ラロックさんは礼には及びませんとおっしゃっています契約は延長しませんえッ?フランスに帰ってくれと伝えてくれですが…
(塩野)広瀬さんどういうことか説明してください塩野くん別子銅山の近代化は我々日本人の手で成し遂げるそれはムチャです今の日本の技術力では到底無理だとラロックも言っています官営鉱山を見たまえ外国人を高給で大勢雇ったがために財政破綻し日本人の技術者は育っていない一番大事なのは進んだ技術を我々日本人が自分達のものにすることなんだもしかしてあなたは最初からそのおつもりだったのですか?我々の手でやり遂げる我々の手で…やれる絶対にやってみせる塩野くんフランスに行ってくれないか?えッ?フランスで鉱山学を学んできてほしい住友のためいや日本の未来のために君が日本人技術者の先頭に立つんだ
明治8年12月
ルイ・ラロックはフランスへ帰国
結局広瀬がラロックに頼んだのは
計画書の作成だけだった
そして翌4月
塩野門之助はフランス留学に旅立った
政府の助成のない私費での留学は
まだ非常にまれだった
ラロックの改革案をもとに
広瀬は銅山の近代化改革の開始を宣言する
今着手しなければ10年先いや100年先の日本の未来に責任を持っているとは言えない!我々は自らの事業が即国の発展の行く末にかかわっていることを肝に銘じなければならない別子銅山を改革するということは日本の未来を切り開いていくことである
住友家の家長もまた動いた
二度目の委任を広瀬に与えたのである
ただし今度は
経営に関するすべての権限だった
それは家長により行われた…
家長は新しい時代の経営システムを
広瀬宰平に託したのである
「総理代人」
これがのちに総理事という職名になる
広瀬宰平による近代化の第一歩は
海抜800メートルの山上での土木工事から始まった
広瀬宰平は東延斜坑の掘削に伴い
機械を設置する平地を造成した
ここはその造成された平地である
機械小屋だけでなく
掘り出した鉱石の選別場も設置された
この建物は動力室
明治23年から動力機関が置かれることになる
機械小屋のそばに
掘削された東延斜坑がある
斜坑は49度の傾斜で掘り進められた
水没した最深部を
まっすぐ目指す東延斜坑
斜坑の途中では
水平坑道も掘り
それまで気づかなかった鉱脈も
くまなく掘る算段だった
斜坑には鉄軌道が敷かれ
トロッコを走らせる
これはトロッコを動かす巻きあげ機
動力は蒸気機関である
(汽笛)
現代の愛好家達が
100年を超える年代物の蒸気機関を所有していた
明治初期には国産のものはない
蒸気機関はすなわち
蒸気機関車の仕組みと同じだ
大きなかまに燃料をくべて
ボイラーで蒸気を発生させ動力源とする
(音が出る)
東延斜坑の機械場でも蒸気が立ち上っている
蒸気機関でトロッコを引っ張る
仕組みは極めて単純
しかし当時は鉄の軌道トロッコの台車
ワイヤーにいたるまで高価な輸入品だった
斜坑の工事現場では途中から
ダイナマイトの使用が切望された
ダイナマイトの本格的使用は明治13年以降になる
広瀬は当初東延斜坑の工期を10年以内ともくろんでいた
しかしそれは予定の倍以上の年月が
かかることになる
別子銅山の近代化とときを同じくして
欧米では急速に銅の需要が高まっていた
電気の普及とともに町には
電線が網のように張られるようになった
その結果電気の血管ともいうべき銅線が
大量に必要になったのである
銅の生産を増やさなければならない
広瀬は右腕となる人材のスカウトにとりかかる
貞剛住友に来いえッ?叔父さん私が裁判官を辞めたから心配してくださってるんですねいやこれは叔父として言うのではない住友の総理事として誘ってるんだ維新を成し遂げた西郷隆盛も死んだ政治の季節は終わったこれからは企業の時代だ産業が日本を支えるんだやりがいがあるぞでも叔父さん私は鉱山のことも商いのこともまったく分かりません今分からなくても構わない広く天下を見て日本の将来を考えられる人材がほしい日本の将来?日本の100年先を考えるんだこの銅を見ろ貞剛銅の増産は住友の単なる金儲けではない国家のための事業なんだ国益のためだわしは住友の事業で日本を豊かにし強くし素晴らしい国にする住友の事業で国を豊かに…それが創業以来の住友の精神でもあるどうだわしと一緒に住友で国家のために尽くしてみないか?よろしくお願いいたします広瀬総理事
こうしてのちに第2代総理事となる伊庭貞剛は
明治12年2月4日住友に入社したのだった
いやあ驚きましたそんなことがあったのですかわしも驚いたよお前も一回行ってみたらいいぜひはいおおふな寿司か梅子さんが作ったのか?
(梅子)はいお義母様に教えていただきながらうちの女房にも仕込んでくれるよう姉さんに頼まないとなよし早速はい
(幸)お義姉さん味見ていただけますか幸さんの味付けでいいのよせっかくお義姉さんのところへ伺ったんですから宰平さんの好きな味が知りたいんです幸さんも梅子さんもあんまり夫を甘やかすと苦労するわよできるようになったかよかったな…宰平は猪突猛進貞剛はああ見えて頑固な暴れ馬二人ともよく連れ添ってくれる人がいたものよ少しは感謝させないとお義姉さん私はイノシシみたいな人が好きだったようなんですえッ?だから私が感謝してるんです私は馬を乗り慣らす稽古をつけているところですからまあ見ていてくださいありがとうじゃお願いしますおいしいよかった
そしてこの男
広瀬の要請でフランス留学に旅立った
塩野のパスポートの写しが現存する
当時はまだ写真がない
その代わりに背丈や容貌の特徴が書かれている
目は大きく顔は丸く
背丈は四尺八寸
小柄だった
明治10年
塩野門之助はフランス東部の町
サンテティエンヌにいた
サンテティエンヌは当時炭鉱の町として栄え
町にある鉱山学校からは優秀な鉱山技師を輩出していた
塩野はその学校に入学
1学年30人ほどの中の一人となった
その鉱山学校は今も現存し
町の史料館には塩野の足跡が残っていた
塩野の成績表だ
はるばる日本からやってきたようですがなかなか優れていたようですよ
在学中塩野は7回のテストを受け
すべてを合格点で通過している
当時の学校は鉱山技術のほか
電気や鉄道など最先端技術を教える
エリート学校だった
塩野は
意気揚々と帰国する
やあすっかりあか抜けたね塩野くんとんでもありません外見はともかくここには最新の知識を詰められるだけ詰めてきましたうん期待してるよこれからは君が先頭に立ち別子をもっともっと近代的な山にしてほしいはい早速別子を改めて見てくるつもりです色々驚くぞこっちも座して君の帰国を待っていたわけではないからね
広瀬宰平は明治10年
上野で行われる産業博覧会に
別子銅山の絵図を出品している
別子の近代化を全国にアピールするためのもので
広瀬の取り組みの細部が克明に描かれている
トロッコの巻きあげ機は最初は
人力によるものだった
銅山の中心には洋式の溶鉱炉を造った
設計はラロックが残した
図面に基づいた
白眉ともいえるのは車道の整備である
広瀬宰平は近江から牛を調達し
牛車が通行可能な
つづら折りの車道を整備した
現在も山中には
牛車道が形を残している
学校や劇場病院も整え
福利厚生の近代化も行っている
それは素晴らしいですねでは僕は本丸にとりかかりますフランスの最新知識で頼むぞ
塩野は別子銅山の技師長としてラロックが提唱した
最後の近代化プラン
洋式製錬所の建設計画にとりかかった
計画作成に際し
塩野は新製錬所の営業年限などを
会社と詳しくやりとりし精力的に計画を立てる
しかしこれがある騒動の火付け役となってしまうことに
塩野はまだ気づいていなかった
これが惣開に建設する洋式製錬所の完成予想図ですさらに新居浜に大規模な港を造り外国からの大型船舶が出入りできるよう計画しておりますこの惣開製錬所では買鉱製錬外国から鉱石を買いそれを原料にして製錬することも念頭に置いておりそれに対応するものですちょっと待ってくれなぜ外国の鉱石を買うんだ?鉱脈はいつか必ず尽きます将来別子銅山の鉱脈が尽きたときにも製錬が続けられるよう今から対応策を練っていたほうがいいと思います別子の鉱脈が尽きるだと?愚かなことを話にならん!あの…広瀬総理事塩野くん住友の家法にはっきり書かれてるじゃないかはッ?別子銅山のおかげで住友は発展してきたんだそれに広瀬総理事はかつて別子の申し子と呼ばれたほどで別子に入れ込んでおられるからな別子について語るときは言葉を選んだほうがいいどうしてそんなに外国の石を買うことにこだわるのか外国の石にこだわっているわけではありません私は住友の将来を大事に思っているだけです広瀬総理事と同じですわしと同じだと?断じて違う!もちろんわしも住友の将来のことは考えるしかしわしは住友さえよければいいなどとは決して思わん私だってそんなことは…莫大な金を払って外国から鉱石を買い住友がそれを製錬し日本で売って儲けるそんなことが本当に日本のためになるのか?国益につながるのか?日本の原材料で日本人の技術で日本人の手で国産産業としてもり立てていくわしはそれこそが日本を繁栄に導く道だと信じている日本の100年先を考えるんだこの話はこれで終わりだ
二人の意見は対立したままときが過ぎ
塩野門之助はついに製錬所の完成を待たず
辞職の道を選んだ
明治22年
東海道線新橋神戸間が全線開通した
東京から神戸へわずか1日
鉄路が時代を切り開いていく
折しもその年
広瀬宰平は欧米への大旅行に
出かけることになる
旅の行程は横浜を出航して太平洋を横断
サンフランシスコからアメリカに上陸すると
大陸横断列車で東海岸へ移動
次いでニューヨークから大西洋を渡り
イギリスへ到達
そのあとはフランスベルギードイツを巡り
マルセイユへ
そして再び船に乗り
インド洋経由で神戸に帰着した
北半球1周である
広瀬のこの写真は
ニューヨークの写真館で撮影したものだった
この旅に広瀬は幸夫人を帯同した
西洋では夫人の同伴がないと
ジェントルマンとして認められない
広瀬は旅の様子を
簡潔な言葉で日記に記していた
まずアメリカで強く印象に残るものを見た
明治22年6月8日
広瀬宰平はコロラド州の山奥で
フル稼働する鉱山を見聞した
一獲千金のゴールドラッシュ時代は去り
組織的な鉱山経営が始まっていたころのこと
旧来の日本の鉱山しか知らない広瀬宰平には
見るものすべてが刺激的だった
特に心を奪われたのは鉱石の運搬方法である
広瀬が訪れたころ坑道の中では
ロバがトロッコを引いていた
しかし広瀬が驚がくしたのは
山から平地まで厳しい高低差をものともせず
大型貨車を連ねた機関車が走っていたことである
この鉱山鉄道を目にした広瀬宰平は
日記にこう書いた
ここでの鉱石の値段は1トンあたり平均200ドル
それを1日75トンも運んでいる
現在の額に換算すると1日15億円分という
驚異的な量を運んでいたのだ
別子にも必ず鉄道を
広瀬は心に誓った
一方パリで広瀬は何を見たのか
広瀬を圧倒したのは天を貫くエッフェル塔
その驚きが短い言葉で表現されていた
鉄製ノ大塔天ニ聳ユル物アリ
パリ万博は欧米の科学技術と鉄の時代の到来を
広瀬に強く印象づけたのである
広瀬宰平は大阪商法会議所で
視察報告を行った
イギリスアメリカあるいはドイツフランスの財力は甚だしく豊かで驚がくの極みでありましたただし国民の貧富の差は非常に激しい日本がやがて世界で台頭しその名誉を発揚するにあたっては西洋諸国のように一部の者だけが豊かであってはなりません国民全体が富み国民全体が強くなるそれが真の経済発展なのであります一国の富とは人民の富のことであり政府の富ではないのですでは今後我々は何をすべきか鉄です今後日本が発展していくには必ずや製鉄業をおこさなければならない輸入に頼らず国産の鉄で日本を豊かにするこれこそが我々の使命なのであります!
(拍手)
ドイツを訪れた広瀬は
ドイツが良質な鉄鉱石が少ないのに
盛んに製鉄を行っていることを知る
それは優れた製錬技術があってこそであった
広瀬は鉄を含む別子の鉱石でも
鉄を取り出せると踏んだ
製鉄所の名残が別子銅山のふもとに残っている
山根製錬所だ
明治23年に実験を開始
銑鉄の取り出しに成功した
別子の鉱石からの生産品サンプルの中に
銑鉄も加えられた
これがその銑鉄である
新事業許可申請の書類には広瀬の思いが記されている
ここでも広瀬は国益を語っていた
だが…

(役員四)総理事このまま製鉄事業への投資を続ければ我が社は今期八年ぶりの赤字になるのではありませんか製鉄事業にかける総理事の意気込みは分かりますただそのために住友が潰れるようなことになっては本末転倒ではないでしょうか皆さんにご意見は色々おありだろうが鉄でいく!国益のために必要な製鉄事業それを我々が担っているという誇りと信念をお忘れなきよう以上
信念を貫こうとする広瀬の姿勢は
ほかの役員達の目には
傲慢なワンマン経営としか映らなくなっていた
別子鉱山鉄道は
広瀬宰平の欧米旅行からたった四年で完成した
これで運搬能力は江戸時代の500倍になった
本格的な増産体制の確立であった
当時の路線を見る
新居浜の海岸部から海抜150メートルの端出場までが
一路線
端出場からは急斜面を一気に
ロープウェイでつなぐ
そして圧巻なのはそこから先
1100メートルの終点まで
崖にへばりつくようにもう一つの路線を造った
この上部鉄道の険しさは大層恐れられた
この鉱山鉄道の完成で
物資輸送を担う中持は
ほとんど姿を消すことになる
坑道の中では画期的な機械も導入された
岩盤に爆薬をこめる穴を開ける
削岩機である
掘り進むスピードが倍になり
採鉱効率が飛躍的に上がった
しかしこれら近代化の一方で
鉱山には人員削減に対する不安が持ち上がる
(権三)またクビ切りに来たのか許さねえぞ!
(虎次郎)金だ金金をよこせ!
(佐助)簡単に切れるなら切ってみろ!
人員整理が行われ不満が募る坑夫や運搬夫達
こうした人心の荒廃をおさめることができる人物は
別子の現場にはいなかった
鉄道の開通後
塩野門之助が設計した西洋式の製錬所は
フル回転だった
しかしここでも問題が起こる
140年の歴史がある地元新聞社は
当時の騒動を報じていた
こちらに明治時代の新聞が保管されています
当時は海南新聞との名だった
その明治26年10月10日の記事
そしてその2日後には
開けろー!畑も田んぼも全部枯れた飢え死にさせる気か!製錬所の煙が原因だ!何が虫だこんなことする虫がどこにいる!製錬工場が原因じゃ開けろおい!
農民達が問題にしていたのは製錬所からの煙である
別子の鉱石を焼くと含まれる硫黄分が気化して
有毒性の亜硫酸ガスが排出される
この煙が原因で作物が枯れたと
農民が声を上げたのだ
製錬工場が原因じゃ開けろおい!
事態を収拾できる人間は分店には現れなかった
騒ぎは拡大し
当時の…
我こそは別子に赴き事にあたろうという者はいないのか?本気か?はい今別子の責任者として赴任するのは命がけだぞツガザクラという名前でしたか…?うん?四国では別子の峰だけに咲く花があると聞きました一度見てみたいと思っていたんです来年の春が楽しみだなお前も相当な変わり者だな行ってまいります
このころ住友家では家長の代が替わり
15代友純の時代を迎えていた
伊庭でございます別子赴任のご挨拶にまいりました
(友純)この難局によく決意してくれましたあなたが支配人になってくださるなら私も安心ですつきましてはお願いがございます何でしょう討ち死に覚悟で別子の山に籠城することをお許しください別子の山に籠城するどういうことですか?工場の煙が人々の暮らしを破壊しているのなら煙害問題は抜本的に解決すべきだと思います補償金で片付けるのではなく煙害そのものをなくすのですそのためには煙をどうにかしなければなりません私はその方法を何としても見つけ出すつもりですしかしもしうまくいかなかったそのときは…今後の別子銅山のあり方についてあなたが全責任を負うそういうことですか?その覚悟で行かせてください別子銅山は住友の財本ではありますが人々の安全には代えられません住友のためではなく日本のことを考えて処理してくださいそのときは私も責任を負いますかしこまりました
伊庭貞剛が別子に赴任したその日
さあいよいよ出陣だ
待ち構えていたのは
経営陣への不信と敵意でいっぱいの坑夫達だった
へえ新支配人さんお待ちしてましたよ大歓迎しますよなあみんな
(坑夫達)ああ!だがな山の歓迎はちいと手荒えぞありがとう虎次郎さんえッ!?何だよ…?武三さんな…何だよ?伸の介さん何だい?太郎さん・おう…佐助さんおい庄助さん・何だい?惣五郎さん・えッ?掘兵衛さん権三さんな…何でえ?皆さんどうぞよろしく頼みます・よろしくってどういうことだよ?
(ざわめく坑夫達)
別子の支配人に着任した伊庭貞剛は
新たな規則や人事を発令するでもなく
ひたすらわらじ履きで現場に出かけ
坑夫達に声をかける日々を送った
末吉さんご苦労さま
(碁をうつ音)あなた?あなた?梅子…はあッ…驚くじゃないか来るなら来るで知らせてくれれば迎えに行ったのにあなたを驚かせようと思ったんですもの成功ですわねアッハッハ…大成功だ子供達に変わりはないかい?みんな元気ですあなたは大丈夫ですか?もちろんこのとおりだハッハッハ…私こう見えて五目並べは得意なんですよーしじゃあ勝負だまた来やがったよでもわしらにこんなに声をかけてくれる支配人も初めてだああ名前を覚えてくれるなんてえッ!?タヌキにだまされんなよご苦労さま力仕事ですからねしっかり食べてくださいよアイタタタッ…虎次郎さんいつもご苦労さまありがとうごぜえます何かいいことがあったんですか?うん坑夫の一人が私に口をきいてくれたのだそれだけですか?うんそれだけだ毎日山に登って何をなさってるかと思えば何だかばかなお仕事ですことどうやら私はそんなばかな仕事が好きなのだよ
(笑う二人)
(坑夫が歌う声)
伊庭貞剛の人となりはいつしか
別子で働く者達の心を一つにまとめた
(声を合わせて歌う坑夫達)
一方広瀬は…

(部下)申し訳ありませんどうしても銅や硫黄がまじってしまい別子の鉱石から鋼鉄がつくれません今の我々の技術では採算がとれません宰平殿は住友家に半世紀以上仕えその礎を築いてくださいましたありがとうございますしかし…どれだけ苦くても飲んでいただかなければならないお話があります責任の取り方をお考えくださるよう願います幸はい墨を…頼むあなたありがとうございました
住友家長宛ての辞表であったが
広瀬宰平はこれをまず
伊庭貞剛に送った
封筒には「伊庭貞剛殿」
「親展」とある
1月
東延斜坑がついに最深部に到達した
坑道距離526メートル
広瀬が切望した新時代の採鉱法の
本格的な始動である
19年…19年かかった本当に…おめでとうございますついに日本人だけの手でやり遂げましたねありがとう叔父さんはこの日が来ることをどこまで信じておられたのですか?わしか?信じるのが難しい日もあったかもしれんな貞剛いつまで総理事を空席にしておくのだ?私はまだ本社に戻るわけにはいきませんやらなければならないことがあるのです
(ドアの開閉音)
(塩野)ご無沙汰しておりますよく戻ってきてくれたね塩野くん住友は私を5年もフランスに留学させてくれたのですいつか恩返しがしたいと思っていましたありがとうただ煙害問題を解決するのは至難の業です私は補償で済ませるのではなく根本的に解決したいのだそうおっしゃるだろうと思っていましたでもどうなさるおつもりですか?島に移るえッ!?四阪島だなるほど…ここに製錬所を移せば煙は海上で離散し田畑に影響しませんねただし四阪島は無人島だじゃあ社員達はどうやって生活するんですか?病院や学校は?四阪島には水も出ないもちろん今は港もない君に解決してもらいたい力を貸してくれないか?分かりました全力で取り組みます
塩野は
伊庭の信頼と期待に応えて
四阪島移転計画を練り上げた
四阪島は新居浜から20キロメートルの沖合にあります坑員達は家族と一緒に移り住んでもらいます学校社宅病院床屋銭湯公園神社生活に必要なものはすべてゼロからつくりますとんでもない大計画だな…今さら驚かないでください水はどうする?水はもちろん鉱石生活物資すべて新居浜などから定期的に運びます蒸気船に曳かれ舟を長くつなげば一度に大量に運べますから続いて四阪島に建設する製錬工場ですが
四阪島製錬所の見取り図
これまで新居浜と別子の山の中にあった製錬所を
すべて一ヵ所に集中しただけあって
その焼鉱場の数は島を埋め尽くすほどである
中央に煙を広く遠くへ飛散させるための
巨大な煙突があることが分かる
この大計画が
広瀬宰平の耳に入った
隠居した身でありながら私が差し出口をいたすのは許されないことと重々承知なれどこの宰平の座右の銘は「命に逆らいて君を利する」「之を忠という」でございますこの一大事を見過ごすわけにはまいりませんあえて卑見を申す無礼をお許しください
(友純)宰平殿の忠義は十分分かっております遠慮なくおっしゃってください貞剛!血迷ったか!新居浜は住友とともに発展してきた工業都市だその新居浜から住友の工場を抜き去るということは新居浜の人々から仕事を取り上げるということだ住友さえよければよいのか!新居浜には運輸課販売課機械課などの諸部門を残します失業者を出さないよう万全の対策をとり水のない無人島に工場を移すだと!?水はどうするんだ?船で運びますそんなムチャに莫大な費用をつぎ込むのなら被害住民への賠償や土地買い取りにあてるべきじゃないのか?煙害被害地をすべて買い取ることなど資金的に不可能です無人島に移転するほうが金がかかるんじゃないのか?たとえそうだとしても…新居浜に対する住友の責任を考えよ!私はお前に住友の事業を通じて国に貢献せよと教えたはずだお前は一体何を学んだのか!100年先を考えることです普通に考えれば確かに四阪島移転計画は無謀かもしれませんしかしあなたは周りからムチャだ無謀だと言われてもご自分の信念を貫き住友の礎を築いてくださったではありませんか?だからこそ私はどんなムチャをしようとも煙害問題を根本的に解決したいのです100年先を考えるからこそ目先の補償で済ますことなどできません企業は100年先に対する責任まで考えなければならないそれを教えてくれたのは…叔父さんあなたです宰平殿はい貞剛殿の詳しい話を聞こうではありませんかありがとうございます幸はい立派になったぞえッ…まあ!本当にフフッ…貞剛のことだあら!
(笑う二人)
伊庭貞剛は改めて
四阪島への移転計画書を提出した
それは膨大な見積書も添付された
ぬかりのない事業計画書であった
伊庭の別子での奮闘は5年に及んだ
のちに伊庭は別子での5年をこう詠んだ
この歌を送られた伊庭の親友
品川弥二郎は…
…と下の句を返した
伊庭の別子時代は雪の時代で
月が美しく花が咲くよい時代は
後継者に譲ったと
伊庭の潔さを雪月花にたとえ
たたえたのである
四阪島への移転計画にめどをつけた伊庭貞剛は
明治33年1月
第2代総理事に就任した
(ノック)はい
(部下)失礼します
伊庭が取り組まなければならない課題は
ほかにもあった
別子の山を
もとのあおあおとした姿にして
これを大自然に返さなければならない
伊庭に決意をうながしたその書類は
別子山中の記念施設に展示されている
すぐに策を打たないと取り返しがつかない
書類ははげ山に変わり果てた山林の窮状を
切実に訴えていた
(男性)近代化を写しとった写真帳であります
明治14年の写真が残っている
別子銅山では近代化の進行具合を報告するための
写真帳を制作していた
山林の窮状はそこにはっきりと写し出されていた
銅山には木一本生えていないのだ
製錬の火を起こす木炭
坑道を支える坑木などを得るため
銅山では常に木を伐採してきた
さらに焼鉱場からの煙で枯死する木も多く
そうして森は姿を消していったのである
伊庭貞剛が決意を示してから
現在は122年後にあたる
(鳥のさえずり)
すべては小さな苗木1本1本を植えることから始まった
明治27年
伊庭貞剛の指示により別子銅山では
大規模な植林事業が始まった
増える本数はすぐに年100万本にもなり
そして植林事業は今も続いている
別子の森林の復活を見守ってきた木を発見した
枯れかけてやむなく切られたヒノキの切り株だった
この年輪を写真に撮って拡大をして調べたところ林齢が118年になってましたので
つまり…
伊庭貞剛が銅山の支配人だったころの木だ
周辺の生きている木も
同じ明治30年生まれ
植えられた場所が急傾斜すぎて木材として切られることなく
100年命を紡いできた
別子の森の生き証人である
世界の予想を覆し
日本がロシアに勝利したその年
四阪島製錬所は6年間の工期をへて完成
操業を開始した
煙害はこれで解決するはずだった
煙害問題は再発した
雲散霧消するはずの四阪島の煙は
かえってその影響を広範囲に広げてしまったのである
明治時代の資料が残っているつくば市の農業研究施設
四阪島からの煙で被害にあった農作物のサンプルが
保管されていた
葉が枯れる斑紋が現れるなどして
生育不良に陥った
被害が広まったのは今治や大島など
収穫期の米が全滅の田もあったという
この事態にきぜんと立ち向かったのは
伊庭貞剛の後を継いだ…
鈴木は100年の計を引き継ぎ
被害住民への補償をしながらも
煙害の完全解決を約束した
その約束は34年の月日ののちに果たされる
四阪島の一角のこの場所はその記念すべき場所である
昭和4年
ここに設置された硫酸工場が
解決の道を前進させた
実験段階の新技術を輸入し実用化した硫酸工場
硫酸をつくる過程で
亜硫酸ガス濃度を0.2%まで下げることに成功した
なお残る微量のガスはアンモニアを利用する中和技術を実現し
この中和工場で完全に中和した
そうしてついに亜硫酸ガスの排出をゼロにしたのである
四阪島から有毒ガスは出なくなった
昭和14年のことであった
鹿児島県の菱刈鉱山は
現在日本で稼働する唯一の大規模金鉱山である
鉄のレールをひくこともなく
トラックや重機が直接坑道内に入ってくる
鉱石を拾い集めるショベルカーは
今はリモコン操作だ
究極の機械化が進み
坑道内には一度に30人ほどしか入ることがない
広瀬宰平が夢見たのは
こんな鉱山の姿だったのだろうか?
美しいなあはいお前のおかげで別子の山はよみがえった私がやった本当の仕事といえるのはこれだけですよ叔父さんがやられた仕事の大きさに比べたら仕事か…お互いにムチャをやったなあ本当にそうだ叔父さんふな寿司おういいなでは…
住友の初代総理事広瀬宰平は
大正3年86歳で
2代目総理事伊庭貞剛は
大正15年79歳で
ともに大往生を遂げた
広瀬と伊庭が他界してから1世紀近く
別子銅山も閉山から43年
それでも昔を懐かしむかつての住民が
思い出の銅山にやってくる
この日はヤマザクラを植えにきた
ヤマザクラはかつての社宅街にたくさん生えていた
銅山の暮らしの記憶は写真の中に生きている
大阪からやってくる人気の歌舞伎が見られたという
娯楽場もあった
春にはヤマザクラがたくさん咲いた
江戸時代の別子銅山の暮らしを描いた絵図
祭りの習俗を描いている
相撲をとる様子
若き男女の語らい
酔い潰れる男
山の活気が伝わってくる
その中に
神輿や山車が練り歩くさまがある
新居浜の風物詩
毎年10月の太鼓祭り
まちまちの男連中が意気と華やかさを競う祭りだ
銅山の心意気は
祭りの中に受け継がれているのかもしれない
別子銅山では不運にも
命を落とした方々がいる
毎年8月
たくさんの方々が今も
銅山に眠る先人や無縁仏らの供養に訪れる
急斜面を登る丘の上に
広瀬宰平が移設した
慰霊の蘭塔場がある
(お経)
やってくるのは現代の住友グループ各社の
社員代表者達
こうして江戸時代からの習わしを
ずっと続けている
別子の山では
今も植林作業が継続して行われている
植えたばかりの幼木をパイプで覆って守るのが
今のやり方だ
この植林事業その母体は
銅製錬に使う木炭や坑木を
調達する部門だった
広瀬宰平による近代化以降
別子銅山からは非鉄金属
林業と建設機械製作と化学といった
事業部門が独立
それに伴い新居浜は工業都市として
歩み始めていく
そして事業拡大の流れは
100年を過ぎた今も続き
その後14まで部門の数を増やしている
280年あまりの長い歴史を刻んだ別子銅山
今もあの広瀬宰平の声が
山にこだまする
《別子銅山を改革するということは》《日本の未来を切り開いていくことである!》2016/01/03(日) 12:00〜13:54
MBS毎日放送
新春スペシャルドラマ 百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜[解][字]

維新の英雄たちだけでは明治期の急速な日本の発展はなかった。実業界でも「百年」という先見の明を持ち奮闘した知られざる企業リーダー、広瀬宰平と伊庭貞剛の物語である。

詳細情報
番組内容
幼少時から住友が経営する別子銅山で育った広瀬宰平(榎木孝明)は、「100年先の日本の為」と銅山の近代化に乗り出す。広瀬は日本人の手による近代化にこだわり、部下の塩野(浅利陽介)をフランスに留学させ鉱山技術を学ばせるなど、西洋技術の取り込みを積極的に行った。その結果、製錬工場からの排煙による公害問題が生じる。この難局に立ち向かおうと名乗りを上げたのが、広瀬の実の甥、伊庭貞剛(石黒賢)であった。
番組内容2
彼は公害の根本から解決の為、近代的製錬工場を、そっくり別の地に移転する驚くべき計画を発案。これを無謀と断じて激怒する広瀬を説き伏せ、山の自然を再生するため、大造林計画を実行。果たして百年の計は?
出演者
広瀬宰平(榎木孝明)、伊庭貞剛(石黒賢)、塩野門之助(浅利陽介)、伊庭田鶴(朝加真由美)、広瀬幸(比企理恵)、伊庭梅子(山田キヌヲ)、畠中洋、山口翔悟、パトリック・ランプル、メクダシ・カリル、お宮の松、山上賢治、柴田義之、宮本大誠、古井榮一、ふるごおり雅浩、辞本直樹、下塚恭平、羽鳥翔太、潟山セイキ、石川裕太、平岡亮 ほか
スタッフ
【脚本】及川真実/高橋秀樹
【ドラマ演出】鴨下潔 
【総合演出】河野英輔 
【ジェネラルプロデューサー】高橋正嘉 
【チーフプロデューサー】小松新一
番組HP
◇番組HP http://www.tbs.co.jp/hyakunen-kei/
おことわり
番組の内容と放送時間は変更になる場合があります。

ジャンル :
ドラマ – 国内ドラマ
福祉 – 文字(字幕)
福祉 – 音声解説

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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