海を越えたアメリカン・プリンセス「第3回 そして、変革の扉を開けた」 2016.01.03


イギリスウィリアム王子の妻キャサリンさんは2015年3月ドラマ「ダウントン・アビー」の撮影現場を訪れました。
実はキャサリンさんはこのドラマの大ファン。
いつもウィリアム王子と一緒に見ているそうです。
大ヒットドラマ「ダウントン・アビー」は待望のシーズン4がスタートします。
20世紀初頭のイギリス貴族の世界を描いたこのドラマ。
見どころは豪華な館ダウントンを舞台に繰り広げられるさまざまな人間模様と愛憎劇です。
その中心的な存在の一人が…あなたには本当に感謝してる。
華やかに見えるダウントンの暮らし。
しかしコーラの夫グランサム伯爵は代々受け継いだ広大な領地を守るための資金繰りに困っていました。
その窮地を救ったのが伯爵夫人コーラです。
アメリカの資産家の娘でばく大な持参金と共に伯爵家に嫁いできたのです。
あなたは反対を押し切り財産目当ての結婚をした。
コーラの持参金はもはやコーラの持参金ではないのです。
我が所領扱いとなり私の相続人に受け継がれます。
それが決まりです。
手は出せません。
持参金まで持っていかれます。
あなたの夫が私から強奪したせいです。
怒らないで。
法律上の取り決めよ。
おかげで所領の分割を防げた。
当初は持参金目当ての結婚でしたがその後2人は愛を育んできました。
本当に私は君を幸せにしたか?あなたが私に恋をしたからよ。
記憶が正しければ結婚して1年たってからね。
1年もかからなかった。
新たに始まるシーズン4ではコーラを取り巻くダウントンに大きな変化が訪れます。
よくやったコーラ。
大成功だ。
コーラに乾杯。
コーラに。
お母様。
お母様。
コーラは窮地に立たされた娘に優しく寄り添います。
いらっしゃい。
お母様!ごめんなさい。
アメリカから母親と弟がやって来ます。
どうもハロルド。
やあ。
妻として母として女性として輝きを増すコーラ。
ダウントンを支え続けます。
エリザベス・マクガヴァンです。
ドラマ「ダウントン・アビー」で私が演じているグランサム伯爵夫人。
これはそのモデルとなった大富豪の令嬢たちの物語です。
最終回で紹介するのはイギリスの上流社会を揺るがせたアメリカ人女性たち。
その1人は自身のカリスマ性と国王への愛で王室に限りなく近づきました。
その恋は歴史の流れを変えたのです。
イギリス貴族にとって一族に流れるアメリカの血は後ろめたい秘密です。
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて200人を超えるアメリカ人女性がイギリスの貴族のもとへ嫁ぎました。
これは持ち前のバイタリティーと財力でイギリスの支配階級に風穴を開けた美しきアメリカ人女性たちの物語。
真実の愛を見つけた女性。
結婚生活が地獄となった女性。
彼女たちは皆親の財産によって翻弄された「アメリカン・プリンセス」なのです。
1936年夏。
ロンドンの高級住宅街にある大邸宅で開かれた晩餐会にはそうそうたる顔ぶれがそろっていました。
もてなしているのはカリスマ的存在のアメリカ人レディー・エメラルド・キュナード。
隣に座っている男性はイギリスの新しい国王エドワード8世。
更にその隣はテーブルを囲んでいる客たちが間もなく王妃になると信じている女性国王の愛人でアメリカ人のウォリス・シンプソンです。
エメラルドはイギリスに渡ってきたアメリカの大富豪の娘たちの頂点にいる女性でした。
その生い立ちを考えると飛躍的な出世です。
エメラルドの本名はモード。
1872年サンフランシスコ生まれです。
ゴールドラッシュに沸く当時のサンフランシスコには相場師があふれていて彼女の母親は権力を持つ裕福な男性と次々につきあっていました。
モードの出生ははっきりしないとしか言いようがありません。
実の父親が判然としないのです。
賢く美しい娘に成長したモードはホーレス・カーペンティエールの養女になります。
怪しげな土地投機で巨万の富を築いた人物です。
彼は本を収集するとともに若い女性も収集していました。
そして「本も女の子も新品の方がいい」と言っていたんです。
このとんでもない男が「姪」と呼んでそばに置いていた少女たちとどういう関係だったかは容易に想像できます。
モードはカーペンティエールお気に入りの「姪」で彼から文学やオペラを学びます。
カーペンティエールは「社交界の花形になりたい」と望むようになったモードをニューヨークへ連れていきました。
アメリカ人の富豪の娘が社交界デビューを果たす街です。
モードは失態を演じます。
「ポーランドの公爵と結婚する」と先走って吹聴したのです。
ところがその公爵は別の女性と婚約していました。
モードは新聞で撤回をするはめになり屈辱的な思いをします。
彼女の経歴には大きな傷が付きました。
しかしすぐに別の男性が現れます。
イギリスの海運会社「キュナード汽船」創業者の孫サー・バッシュ・キュナードです。
43歳のバッシュはモードより21歳年上でイギリスの上流階級に属していました。
独身でポロに夢中だったバッシュはモードに出会い彼女にも夢中になります。
バッシュはモードに恋をしました。
小柄でブロンドでグラマー。
非常に聡明で元気いっぱいの若いモードにすっかり夢中になったのです。
不釣り合いな2人でしたがモードはバッシュを更なる飛躍への踏み台と考えました。
彼と結婚すれば肩書と社会的名声が手に入ります。
1895年2人は結婚。
バッシュは裕福でしたがモードは200万ドルもの持参金とともに嫁ぎました。
レディー・キュナードとなったモードは新居の大邸宅へ到着してショックを受ける事になります。
新居はレスターシャー州中部にある隙間風の入る大邸宅でした。
そこは狩猟が盛んな所です。
バッシュは狩猟や釣りが大好きで知的な趣味とは無縁でした。
母親になりたいという願望はなかったモードですが1896年に娘ナンシーを生み義務を果たします。
モードはひどい母親でした。
子育てを「くだらない最低な仕事」と言っています。
モードは刺激が欲しくてしかたありませんでした。
田舎の生活を嫌い都会の華やかさを求めました。
そしてロンドンの社交界に乗り込みます。
1909年モードは才能あふれる指揮者サー・トーマス・ビーチャムとの不倫に走ります。
トーマスは度々モードの寝室にいるところを村人に目撃されます。
バッシュとの結婚が破綻するのは時間の問題でした。
モードは傷心の夫を残して家を出るとロンドンの高級住宅地に移り住みました。
「レディー」の称号を手にした野心家のモードは再び生まれ変わるチャンスをつかみます。
そしてモードは上流階級の人たちの交流の場サロンを主催するようになりました。
(アスレット)モードのサロンには皆がこぞって集まりました。
エドワード皇太子もその1人です。
素性がはっきりしないアメリカ人が新天地のイギリスで社交界をリードするまでになったのです。
家庭で撮影されたこの映像に映っているのはジョン・ジュリアス・ノリッジです。
ジョンの両親はモードと大変親しくしていたため彼もモードの事をよく覚えていると言います。
モードは小柄で化粧が濃く香水の匂いがきつかった事を覚えています。
かぎ鼻で鳥のような顔をしていましたが実に知的で刺激的な人でした。
私の母は彼女を称賛していました。
誰からも称賛された訳ではありません。
作家のヴァージニア・ウルフは「インコのような顔をした滑稽な女」と評しています。
モードはロンドンで芸術を支援していました。
驚くほど顔が広く強い影響力を持っていました。
しかし1910年に国王エドワード7世が亡くなるとモードの勢いに影が差します。
エドワード7世がアメリカ人大富豪の娘たちを寵愛したのに対し王位を継承した息子のジョージ5世は生真面目でアメリカに関心がありませんでした。
「アメリカに最も近づいたのはナイアガラ川を歩いて渡った時だ。
私は途中で帽子を取り引き返した」。
モード・キュナードは新しい王妃メアリーに嫌われ王宮への出入りを禁じられました。
しかしモードはやがてイギリス中が騒然となる出来事で中心的な役割を果たす事になります。
40年間にわたりアメリカ人大富豪の娘たちは持参金を手にイギリスに嫁ぐ事で上流階級入りを果たしました。
その影響力に陰りが出始めた頃政治的な変革が彼女たちをイギリス社会の表舞台に押し出します。
1人のアメリカ人女性が支配階級を根幹から揺るがし歴史に名を残す事になるのです。
1914年から18年までの4年間イギリスとその同盟国はドイツを相手に熾烈で残酷な戦争を戦いました。
1917年にはアメリカが参戦。
その1年半後に戦争は終結します。
戦後イギリス国民は変革を強く求めました。
1918年30歳以上の女性に選挙権が認められその翌年にはイギリス議会に初の女性議員が誕生します。
驚く事にそれはアメリカ人でした。
彼女の名前はナンシー・アスターです。
ナンシー・アスターは自分が女性初の国会議員になるとは思っていませんでした。
当時はまだ女性は家族の中で最後に食事をしていて意見を持つなんて許されないという時代です。
ところがナンシーには意見が1つどころか100もありました。
ナンシー・アスター旧姓ラングホーンは1879年アメリカのバージニア州ダンビルで生まれました。
ナンシーは教養があり美しくウイットに富んだ女性でした。
夫ウォルドルフ・アスターとはイギリスへ渡る船旅で出会います。
祖母はとても行動力がある女性で船がイギリスのサウサンプトンに着いた時には2人は婚約していました。
祖母にはお金はありませんでしたが代わりに豊かな個性がありました。
ウォルドルフの父ウィリアムはアメリカの大富豪アスター家に生まれながらアメリカを捨てイギリス人になった人物です。
ウィリアムは豪華な館クリブデン・ハウスを購入。
1917年には慈善事業への寄付が評価され爵位を与えられます。
高齢のアスター子爵はナンシーを気に入り1906年に2人が結婚すると豪華なお祝いを贈ります。
その中にはかの有名なホープダイヤモンドより大きな宝石もありました。
子爵は世界最大級のダイヤモンドがあしらわれたティアラを贈りました。
更にクリブデン・ハウスまでプレゼントしたのです。
第4代アスター子爵は今はホテルとなっているこの屋敷で祖母ナンシーに見守られて育ちました。
祖母はかなりの年になってから「2人で車で遠出しましょう」と言いだした事があります。
祖母は小柄だったのでハンドルを握ると足がペダルに届きません。
だから祖母がペダルを踏み私がハンドルを操作しました。
2人とも運転免許を持っておらず当時私は9歳でした。
ナンシーと夫のウォルドルフはクリブデンで華やかな生活を送ります。
ゲストブックを見るとチャーリー・チャップリンが泊まりに来たりルーズベルトが昼食に訪れたりしています。
祖母は人を引きつける魅力的な人でした。
ナンシーの夫ウォルドルフは1910年イギリスの下院議員になります。
その後父親が亡くなり爵位と上院の議席を引き継ぎます。
ナンシーは「レディー」の称号を得ました。
怖いもの知らずのナンシーは夫が返上した下院の議席に立候補します。
ナンシーは見事に選挙を戦います。
祖母は言っていました。
「やじを飛ばされた方がいい。
振り向いて反論できるから」と。
頭の回転が速い人でした。
(ノリッジ)ナンシーが選挙演説の会場に高級車に乗って現れるとそれを非難するやじが飛んできたんです。
彼女は「あなたも私と同じぐらい金持ちだったらこれに乗るでしょ?」と言い返しました。
1919年11月ナンシーはプリマス代表の議員に当選します。
700人以上の議員の中で紅一点でした。
ナンシーは歓迎されませんでした。
話の輪に加えてもらえず議場では列の真ん中の席まで男性をかき分けていかなくてはなりませんでした。
(アスレット)ナンシーはものおじせずウィンストン・チャーチルとよくけんかをしていました。
2人とも気が強くてユーモアがありました。
互いにやり込めようと必死でした。
しかしナンシーの初登院の時チャーチルは口もきかなかったと言います。
ナンシーは頭の回転が速いだけではありませんでした。
彼女は女性の労働時間の短縮や子どもの栄養改善を訴えました。
選挙のチラシには「私に投票すれば子どもたちの体重が増えます」と書いています。
いわゆる「大衆迎合主義者」でした。
ナンシー・アスターはイギリス議会初の女性議員として歴史にその名を刻みます。
ナンシーは新しいタイプのアメリカン・プリンセスでした。
お金ではなくその人間性で影響力を及ぼしたのです。
彼女と同じように新しい形でイギリスに変革をもたらしたのがキャサリン・ウェンデルでした。
キャサリンは「ダウントン・アビー」の舞台である貴族の館に新風を吹き込みます。
第一次世界大戦終結後イギリスそしてイギリスの貴族たちは厳しい財政難に陥ります。
しかも名門貴族の多くが戦争で息子を失い悲嘆にくれていました。
(アスレット)第一次大戦では90万のイギリス人が命を落としました。
支配階級は他のどの階層よりも多くの犠牲者を出しました。
彼ら若い将校たちは前線で塹壕から真っ先に飛び出し銃弾に倒れたからです。
(ノリッジ)戦争が始まった時私の母は22歳。
ダンスをした事がある男性は1916年の暮れまでにみんな死んでしまったそうです。
悲しみに沈む貴族たちに追い打ちをかけるように政府は所得税を6%から30%に引き上げます。
更に40%の相続税を導入。
名門貴族が次々と破産し何百もの大邸宅が取り壊されました。
売りに出された土地は2,500平方キロ以上に及びます。
それまで貴族は税金を払う必要がありませんでした。
何もせずただ地代を集めそれを次の世代へ引き継いでいればよかった。
それが突然ばく大な税金を請求されました。
新しい税制はイギリスでも屈指の大邸宅を危機に陥れました。
これはハイクレア城。
テレビドラマ「ダウントン・アビー」の舞台です。
現在は第8代カナーヴォン伯爵とその妻レディー・フィオナが住んでいます。
ハイクレアでは実際にドラマと同じような事が起きていました。
カナーヴォン伯爵家の跡継ぎで「ポーチー」と呼ばれたポーチェスターは1920年アメリカ人のキャサリン・ウェンデルと出会い恋をします。
ポーチーはキャサリンの持参金ではなくその人間性に引かれました。
ポーチーは父親から「金がない花嫁との結婚は理想的とは言えない」と忠告されました。
でもキャサリンは美しくて優しく男心を大いにそそる女性でした。
彼女は13人の男性からプロポーズされていたのです。
キャサリンとポーチーは1922年に結婚。
キャサリンにお金がない事は当初は問題になりませんでした。
ポーチーの父親第5代カナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバートは大金持ちだったからです。
1922年ツタンカーメン王の墓発掘の資金提供者として有名になりました。
ツタンカーメン王の墓の発見に世界中のマスコミが大騒ぎでした。
とてつもない大発見だったのです。
あの黄金の輝きによって誰もが古代文明に引き込まれました。
しかしこのわずか数か月後第5代カナーヴォン伯爵はカイロで突然亡くなりました。
新聞は「ツタンカーメン王の呪いだ」とかきたてます。
カナーヴォン家にとっては確かに「呪い」でした。
伯爵家はばく大な相続税を請求されますが持参金がなかったキャサリンには助ける事ができませんでした。
相続税はばく大で今のお金に換算するとおよそ2,500万ポンドです。
ポーチーは資産の管理者から「そんな金はどこにもない」と言われました。
一族にとって正念場でした。
高価な絵画は壁から外され売りに出されました。
ゲインズバラやレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画クロード・ド・フランスがかつて持っていた詩編歌集などの芸術作品が競売に掛けられました。
それらはロックフェラー一族などアメリカの富豪のものとなりました。
更に亡くなったポーチーの父親がエジプトで発掘した遺物の数々。
今もハイクレア城には貴重なコレクションが残っていますが最も価値の高いものはミューヨークのメトロポリタン美術館に売却されました。
遺物や絵画を売る事でキャサリンとポーチーはハイクレア城を手放さずに済んだのです。
しかし時はジャズ・エイジ狂騒の1920年代です。
権勢の中心は旧世界から新世界へと移りつつありました。

(フレイザー)ジャズ・エイジの全盛でした。
古い伝統を捨て去り快適さや性的欲望を優先させるというのが当時の生き方でした。
イギリス人もアメリカで生まれたそうした風潮をまねるようになっていました。
誰もがアメリカのジャズあるいはアメリカのプリンセスに熱狂した訳ではありません。
生真面目なジョージ国王は心を動かされませんでした。
しかしその息子で王位継承順位1位のエドワード皇太子は違いました。
(ジェニングス)エドワード皇太子の1度目のアメリカ訪問は成功しました。
しかし2度目に訪問した1924年には泥酔したり好ましくない連中と遊び歩いたりしました。
皇太子はアメリカを気に入りました。
そこでは好きなように振る舞う事ができたからです。
(ヴィッカーズ)皇太子はアメリカ人のようなアクセントで話す事もありました。
彼はすっかりアメリカにかぶれていたのです。
(ノリッジ)皇太子はアメリカらしいものを愛していました。
しかし彼が本当に望んだのは父親が押しつけてくる堅苦しくて尊大な言動との決別でした。
国王ジョージ5世が「私は子どもたちに愛されるより恐れられたい」と言ったという記録があります。
ひどい事を言いますよね。
エドワードはアメリカの文化に引きつけられます。
そして程なくアメリカの女性たちにも心を引かれるようになります。
その1人がイギリスの歴史の流れを変える事になるのです。
1920年代に入る頃にはアメリカ人レディー・モード・キュナードは著名人が集まるサロンを主催するようになっていました。
怪しげな暮らしから身を起こしイギリス貴族サー・バッシュ・キュナードと結婚。
そして夫を捨てたのです。
1925年にバッシュが亡くなるとモードは好きな宝石にちなんで「エメラルド」と名乗るようになります。
彼女は友人にこう書き送っています。
「『エメラルド・クイーン』と呼ばれるのでそれを私のクリスチャンネームにしました」。
宮廷への出入りは禁止されていたもののエメラルドのサロンには自由奔放な芸術家や政治家そして貴族ら一流の人たちが集まっていました。
このような顔ぶれはそれぞれの階層の中でしか交流ができなかった時代にはありえない事でした。
突如その階層の扉が開け放たれのです。
エメラルドの世界に影を落とす唯一の存在は娘のナンシーでした。
ナンシーが黒人の男たちと親しくするのをエメラルドは不快に思っていました。
ナンシーは成長するにつれ自由奔放で反抗的になっていきそれはヨーロッパでも有名でした。
ナンシーは自由奔放なだけでなくやっかいな事に攻撃的な性格でした。
自由奔放な人は他にもいましたが心優しい人たちばかりです。
ナンシーは人を敵視しました。
母親である事に幸せを感じる事のなかったエメラルドは娘に憎まれるようになります。
娘のナンシーは政治や性に関して急進的な考えの持ち主でマン・レイなどの写真家や芸術家のモデルを務めました。
また公民権運動もしていました。
エメラルドはナンシーの恋人が黒人のミュージシャンヘンリー・クラウダーだと知りがく然とします。
エメラルドの願望は極めて保守的でした。
イギリスの上流社会に完全に収まりたいと考えました。
そんな彼女にとってナンシーは自分に恥をかかせる迷惑な存在でした。
エメラルドはクラウダーをイギリスから追放させると脅しました。
ナンシーはこれに反撃。
エメラルドの知人たちに「黒人男性と白人の令夫人」と題したパンフレットを配りました。
母親の偏見に対する痛烈な攻撃でした。
「黒人が白人と交際したからといってその人を殺したり国外に追放したりする事はできません。
何ならアメリカの南部へ行ってお上品なリンチを手伝ってはいかが?」。
(ジェニングス)実は2人は似た者同士です。
ぜいたく好きで気まぐれ美的感覚が鋭く手に負えない人間です。
しかし目指すところは正反対でした。
娘ナンシーの過激な行動もエメラルドの勢いをそぐ事はありませんでした。
エメラルドのサロンの常連には王位継承順位1位のエドワード皇太子もいました。
エメラルドと皇太子はとても親しくなり皇太子はサロンを頻繁に訪れました。
彼女の知り合いのアメリカ人の中には少々身持ちが悪い女性もいたといわれています。
皇太子の愛人のうち何人かはエメラルドを通じて知り合った女性でした。
1929年皇太子はそうしたアメリカ人女性の1人と恋愛関係になります。
ファーネス子爵の妻レディー・セルマ・ファーネスです。
皇太子がセルマに引かれたのは一つには彼女が人妻で子どもがいたからです。
皇太子は母親のように世話を焼いてくれる女性を求めていました。
大人になりきっていなかったのです。
セルマはウィンザー城に程近い皇太子の住まいフォート・ベルヴェディアで週末を過ごします。
父親のジョージ5世は「どうせあの家でふしだらな週末を過ごすのだろう」と言っていました。
実のところエドワード皇太子はカクテルを飲むといったモダンな生活つまりはアメリカ的な生活がしたかっただけなのです。
(ジェニングス)皇太子の行動はその地位にふさわしいものとは言えませんでした。
昼間は庭の雑草を刈り取り気分転換に外へ出てはバグパイプを演奏しました。
そして夜には彼が「ひそかな悪徳」と呼ぶ刺繍をして過ごしました。
つきあい始めて2年セルマはエドワードを同じアメリカ人の友人に紹介します。
彼女の名前はウォリス・シンプソン。
旧姓はウォーフィールド。
1896年生まれでした。
シンプソン夫人についてはある事ない事いわれてきました。
「本当は男だった」とか「おかしな連中と関係を持っていた」とか。
実際はボルティモアの立派な家の生まれです。
ウォリスは家柄は良いものの貧しい家庭で育ちました。
最初の結婚は失敗し1928年に再婚します。
新しい夫は海運会社役員アーネスト・シンプソンでした。
2人はロンドンの瀟洒ながら古めかしい一角ブライアンストン・コートのアパートに新居を構えます。
エメラルド・キュナードに引き合わされたウォリス・シンプソンは皇太子との交遊を勧められました。
エメラルドは「シンプソンはただ者ではない」と感じます。
ウォリスにはカリスマ性があった。
そうとしか言いようがありません。
ウォリスが部屋に入ってくると皆が注目しました。
ウォリスは頭の回転が速くユーモアがあって博識でした。
気の利いた皮肉を言うのです。
(セバ)狙った男性にしっかり視線を合わせて「あなたしか目に入らない」と思わせます。
これが恐ろしくセクシーで効果は抜群でした。
ウォリスの事を「研ぎ澄まされた矢」と表現した人がいます。
1933年の初めにはウォリスは毎週皇太子と会っていました。
友人への手紙にこう書いています。
「セルマは皇太子の恋人で私はセルマが皇太子に会いにいく時に付き添っています。
週に一度彼女が車で迎えに来るのです」。
程なくウォリスの役割は付き添いから愛人に変わります。
そのきっかけを作ったのは他ならぬセルマ。
ニューヨーク旅行で留守にする事になったのです。
(ジェニングス)セルマはウォリス・シンプソンに言いました。
「誰かが皇太子のお世話をしないと。
私がいない間彼から目を離さないでいてあげて」。
ウォリスは「任せてちょうだい」と答えました。
旅行から戻ったセルマはウォリスと皇太子がただならぬ関係になったと感じます。
それがはっきりと分かったのは昼食の席でした。
皇太子が食べ物を手でつかもうとするとウォリスが彼の手をふざけてたたいたのです。
セルマは自伝にこう書いています。
「ウォリスが皇太子の面倒をとてもよく見ていた事がその時に分かりました」。
エドワードはウォリスに夢中になります。
ウォリスは皇太子にいちいち指図し彼もそれに子どものように従いました。
私の父は晩餐会でシンプソン夫人の隣に座った時の事を日記にこう書いています。
「彼女は実に冷淡だ。
皇太子を愛してはいない」。
しかしウォリスにはとりわけ強い味方がいました。
あのエメラルド・キュナードです。
エメラルドは皇太子ウォリスそしてウォリスの夫アーネストをオペラハウスのボックス席へ招待し「セビリアの理髪師」を一緒に鑑賞します。
(ジェニングス)観客がボックス席を見上げるとアメリカ人が仕切る新しい王宮がかいま見えました。
もつれ合う秘め事の世界を前に劇場内はスリルと緊張感に包まれました。
あのような場面が目撃されるのは非常に珍しい事でした。
ウォリスとの関係はエドワードの気まぐれと大方の人が思っていました。
ウォリス本人もです。
皇太子が国王になったら自分は捨てられるとウォリスは確信していました。
それが国王の愛人の宿命です。
1936年1月国王ジョージ5世が亡くなり息子のエドワードが王位を継承します。
エドワードは儀式の様子をセント・ジェームズ宮殿の窓から見ていました。
エドワードは1人ではありませんでした。
映像には新しい国王に寄り添うウォリス・シンプソンが一瞬ですがはっきりと映っています。
本当なら即位するにあたってエドワード8世は真っ先に思うはずです。
「シンプソン夫人の事をどう片づけようか?」と。
ウォリスは離婚歴のあるアメリカ人。
しかも2人目の夫がいます。
イギリスの国王がそのような女性を王妃にできるはずがない。
いやするのか?イギリスの支配階級は突如重大な危機に見舞われます。
1936年1月エドワード8世は国王の座に就きました。
エドワード8世は国家元首というだけでなくイギリス国教会の最高位にあります。
国王と王妃には一点の曇りも許されません。
ウォリスはアメリカ人で庶民。
離婚歴があり前の夫と今の夫は2人とも存命です。
王妃になるなど論外でした。
支配階級のほとんどの人がウォリスを嫌っていました。
しかし一方で王妃になれるようウォリスを後押しする人たちもいました。
その1人がエメラルド・キュナードでした。
国王ジョージ5世から宮廷への出入りを禁じられていたエメラルド。
しかし新しい国王となったエドワード8世とは一緒に食事をする仲です。
そばにはウォリスがいます。
エメラルドはウォリスが王妃になったあかつきには宮廷に入り込めると確信していました。
これは国王と並んで映るエメラルドの珍しい映像です。
場所はフォート・ベルヴェディア。
国王の邸宅です。
イギリスの支配階級はアメリカ人の取り巻きグループに眉をひそめますがそうした反応はウォリスと国王の絆を更に強めるだけでした。
1936年7月ウォリスは夫アーネストとの離婚を裁判所に申し立てます。
ウォリスと国王は豪華ヨット「ナリン号」で休暇を過ごします。
国王とその愛人がくつろぐ様子が映像に残されていました。
2人が船を下りると外国のマスコミが大挙して押しかけました。
目当ては主にウォリスです。
2人はパパラッチの間を縫って歩かなくてはなりませんでした。
2人の写真はアメリカの新聞を派手に飾ります。
イギリスにアメリカ人の王妃が誕生する。
アメリカ人にとっては魅力的な話です。
実際事態はその方向へ動いていました。
一方イギリスの新聞は報道を自粛していたため国民は2人の交際についてあまり知りませんでした。
しかし国王の周辺や大物政治家など内情に通じている人たちは頭を抱えていました。
11月国王は首相に対し「自分はシンプソン夫人と結婚する。
もし政府が反対するなら王位を捨てる」と告げます。
国王の弟アルバート王子は最悪の場合には自分が王位を引き継ぐと表明。
国家の危機といえる事態でした。
ボールドウィン首相は国王を説得しようと私の父を送りました。
父は国王に「陛下のお考えを変えるために私にできる事がありますか?」と尋ねました。
国王は「いや私の心は決まっている」と答えました。
アメリカ人の母親を持つウィンストン・チャーチルは妥協策を支持します。
エドワードとウォリスの結婚を許す代わりにウォリスを王妃にはさせないというものです。
これは「貴賤結婚」と呼ばれます。
チャーチルは2人の恋愛に理解を示しエドワードが国王として誰であれ好きな女性をそばに置く権利を守ろうとしたのです。
しかし12月2日首相は貴賤結婚は不可能だと国王に告げます。
「大英帝国中の人が許さない」と。
エドワード8世は国民がウォリスを王妃として受け入れない事は十分に分かっていたはずです。
国王は無意識に常に逃げ場を探していてそれをシンプソン夫人に見いだしたのでしょう。
そう考えるほかありません。
(ノリッジ)ウォリスは「私はアメリカに帰った方がよさそう」と国王に告げます。
すると国王は「そうなったら私は自殺する」と。
脅迫とも取れますが彼は本気だったと思います。
(セバ)国王を死なせる訳にはいきません。
彼が死んだりしたらウォリスが国王を追い詰めたと誰もが思うからです。
事ここに至ってウォリスは抜き差しならない事態に陥った事に気付きました。
マスコミはついに沈黙を破ります。
12月3日ウォリスを非難する記事が掲載され彼女の家の窓に石が投げ込まれました。
イギリスに居続けるのは危険だと判断したウォリスはその日のうちにフランスへ渡ります。
12月8日ボールドウィン首相はエドワードに退位を思いとどまるよう最後の説得を試みます。
ボールドウィンは後年この時の事を「まるで10歳の子どもに言い聞かせるようだった」と書いています。
エドワードはフォート・ベルヴェディアに1人閉じこもります。
戦う気力も失っていました。
思うのはウォリスとの生活の事ばかりでした。
1936年12月10日エドワードは退位証書に署名。
3人の弟が証人となりました。
翌日エドワードは国民に向けて演説を行います。
ウォリスはこれをフランスの別荘で聞きました。
ウォリスはカンヌの別荘で毛布を掛けて横たわりながらこの放送を聞き「こんな事があってはならない」と言ったそうです。
エドワードのアメリカ人の取り巻きにとっては万事休す。
退位のニュースにエメラルド・キュナードは号泣しました。
「なぜこんなひどい仕打ちを!」。
時間はかかったもののイギリスの支配階級は最終的には毅然として伝統を回復します。
彼らの忠誠の対象は王冠をかぶっていた人から王冠そのものへと移りました。
その結果王位はエドワード8世からジョージ6世に滞りなく移行しました。
エドワードの弟アルバート王子は1937年5月に戴冠し国王ジョージ6世になります。
翌月の6月エドワードとウォリスはフランスで結婚しました。
あとから考えれば理想的な結末でした。
エドワードは極めて愚かでありイギリス国王として全くふさわしくなかったと思うからです。
ましてや戦争が迫っている時代でした。
当時彼はヒトラーがすばらしい男だと皆に力説していました。
つまりシンプソン夫人はこの国大英帝国ひいては世界を救ったとも言えます。
私に権限があればトラファルガー広場の第4の台座には彼女の像を置きますよ。
ウォリスは洗練されていて世渡りにもたけていました。
そして肩書や大きな存在に気後れしない人でした。
こうした特徴はイギリスの貴族と結婚したアメリカ人の富豪の娘たちに共通しています。
その意味で彼女は伝統の継承者なのです。
ウォリス・シンプソンは王国の存続を脅かしました。
イギリスに渡り新風を吹き込んだアメリカの女性たちの物語。
その最後を飾るのにふさわしい壮大なエピソードです。
大富豪の娘たちはアメリカでは決してできなかった事をイギリスで成し遂げました。
彼女たちの結婚はそれまでにない形で政治や社会生活そして大西洋を挟んだ両国の関係に影響を与えたのです。
アメリカン・プリンセスは勇気ある女性たちでした。
愛のない結婚から逃げ出しイギリスを魅了しました。
ジェニー・チャーチルの息子ウィンストンは20世紀を代表する政治家に。
ナンシー・アスターはイギリス議会初の女性議員になりました。
フランセス・ワークの子孫ウィリアム王子とジョージ王子はいずれも将来の国王です。
アメリカ人女性の遺産は今も息づいています。
2016/01/03(日) 22:55〜23:47
NHK総合1・神戸
海を越えたアメリカン・プリンセス「第3回 そして、変革の扉を開けた」[二][字]

かつて、アメリカの大富豪の娘たちがイギリスの貴族に嫁いだ。社交界の中心的存在になった女性も。彼女たちの数奇な運命を追うドキュメンタリー。 *3回シリーズの第3回

詳細情報
番組内容
番組の案内人は、人気ドラマ「ダウントン・アビー」で伯爵夫人を演じるエリザベス・マクガヴァン。ドラマでは、伯爵夫人は大富豪の娘でアメリカから嫁ぐ。実際に19世紀末から20世紀初頭、多くの女性がイギリス貴族と結婚した。多額の持参金目当ての政略結婚だった。才色兼備な彼女たちは社交界の花形になる。後に英国初の女性代議士となった人や国王エドワード8世をとりこにした女性もアメリカから海を越えてきたのだ。
制作
〜Finestripe Productions/Smithsonian Networks制作〜

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 海外・国際
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
英語
サンプリングレート : 48kHz

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